2020

(暗い)

家康を横抱きにしても揺るがない三成の背中。あげられるべき勝鬨はどこからも聞こえず、関ヶ原の地は全てが死に絶えたように静まり返っていた。天下分け目の大戦の結末が、これほどまでに悲壮感に満ちたものだと誰が想像しただろう。
腕の中の家康の、まだぬくもりの残るやわらそうな頬(そこは大人になってしまった家康の身体の中で、幼い頃の面影がいちばん色濃く残っている場所だった)に視線を落としていた。
慟哭、あるいは、血の涙。どちらが三成の身体から出てくるだろうと、私は本陣にでかでかと据えられた巨石のてっぺんから眺めている。生きているくせに、死んでしまった家康よりも血色の悪い三成の顔。
しばらくして三成は歩きだす。三成と家康がふたり揃って私の視界に収まる最期の時。辿り着くべき場所などなく、家康を抱えたまま三成がずっと歩き続けてくれればいいのに。本陣の、この巨石までの道のりが永遠であればいいのに。
勝鬨の代わりに、断末魔のような烏の声が肌寒い空気に爪を立てる。無残に折れた旗印が散乱し、夥しい屍が折り重なっている。今こそ霧が出るべきだったのだ。白く、全てを覆ってくれたらよかったのに。
私は手にした剣を握り、空を舞う。

「……どけ、邪魔だ」

早朝の湖面のような瞳で私を見る三成。

「どけないし、どかない」

喉元に突きつけられた剣の切先に視線を向けたままの三成からは、なんの表情も読み取れなかった。裏切り者めと罵倒された方がよほど楽だ。
家康と三成と私で半兵衛さまからお使いを頼まれたとき、家康と示し合わせて三成を出し抜きふたり先に城に戻ったかつてのように。
おのれふたりして私を謀ったのかと、首元まで真っ赤にして目を吊り上げ怒っていた三成。「そんなに怒るなよ、これでおあいこだ」と三成の肩に腕を回して笑っていた家康。私を膝に乗せ、三成と家康に優しい眼差しをおくっていた半兵衛さま。そして傍らに立っていた秀吉さま。
いなくなってしまった私の大切な人。人たち。そしてこれから失う人。
私が東軍への内通者であるなど露とも思わなかったであろう三成の純粋さを、心から愛していた。家康の太陽みたいな笑顔を愛したのと同じぐらいに。
半兵衛さまと秀吉さまの御遺志を継ぐことに生の全てを注いだ三成についていっていたとしたら、何かが違っただろうか。きっと違わない。結末は同じだったと思う。
そう、思いたかった。
豊臣での思い出にそっとふたをして縄をかけ、感情を殺した。自分は正しいことをしていると、進むべき道を誤っていないのだと何度も何度も言い聞かせた。
心の中で豊臣と袂を分かったあの日から、もう触れることも叶わない家康のために私は生きた。
豊臣の亡霊を胸に宿し、心の中にだけある陽だまりをよすがに生きる三成は時々底のない暗い目をして私の部屋にやって来た。何日もろくな食事をとっていないと吉継が嘆いていたとおり、彼の身体は痩せこけていた。私の膝に頭を預けて目を閉じている三成の頭を、彼が眠りに落ちるまで果てしなく撫でつづけることがせめてもの罪滅ぼしだった。
罪。
何に対する罪なのだろう。
三成と私と家康で繋いでいた手が断ち切られてしまったこと。
豊臣の遺志を継がんとする三成を秘密裏に裏切っていたこと。
だというのに家康が三成の手によって屠られるのを、なにもせずただ傍観していたこと。
半兵衛さまの剣を手に、私はいま三成を手にかけようとしている。
何が正しいかなんて、とっくの昔にわからなくなっていた。だって、もう、秀吉さまも半兵衛さまもいないのだ。この戦に三成が勝ったところで豊臣の世が長く続かないことは、聡い三成にはわかっていたはずだ。彼がそれを受け入れるかどうかは別として。
一緒に進もうと差し出された家康の手を取った時、終わりに続く門が開く音を私は確かに聞いた。

「大好きだったのに。失くしたくなかったのに。どうして全部壊れちゃったんだろう」

剣の先が三成の喉元の薄い皮膚をやわく裂く。赤い血がひと筋流れ、凛刀の節に吸い込まれる。三成は微動だにせずその様をじっと見つめていた。それから、私を見る。
自分の顔が、泣いているときよりもずっと歪んでいるような気がするのに涙は一滴も出なかった。
このまま踏み出せば簡単に殺められるのに、足の裏に根が張ったように私はその場から動けずにいる。そんな私を、三成は憐れむように見ている。

「壊れてなどいない。私の中ではなにひとつ、壊れてなどいないのだ」

三成の口元が緩む。自嘲気味な笑みではなく、綻んだそばから散ってゆく花のような笑みだった。静かな声だというのに、それは悲愴に満ちた叫びに聞こえる。
三成の笑みの向こうに、木漏れ日みたいにちらちらと光を放つ記憶を私は見る。ふたをしてあった私の記憶が解き放たれ、三成のそれと混ざり合う。数えきれないほどの幸福な思い出が、腕の中から羽ばたいてゆく。
どれだけ手を伸ばしても、私たちはもうそこに戻れない。
三成の喉元目掛けていた剣の先を地面に向ける。私の軽い刀とは違い、半兵衛さまはこんなにも重たい剣を振るっていたのか。あの、白く、男にしては細い腕で。
三成が家康を地面に横たえ刀の柄に手をかける。そうして、それから抜刀し、午後の光に刃をきらめかせる。刹那、彼の刀の刀身に映った自分と目があった。こんなに悲しいのに、どうして私は笑みを浮かべているんだろう。私の頭に疑問が浮かぶのと同時に、三成はゆっくりと刀を私の胸に突き立てた。
いちばん、痛い。
今まで生きてきた中でいちばんの痛み。私はこれから死んでしまうけれど、この痛みを忘れることはないだろう。三成によってもたらされたいちばん。

「みつ、なり……」

血を吐きながら名を呼ぶ。形はそのままに秋の雲が流れてゆく。烏の声が遠ざかる。巨石は雲間からの太陽を受けて関ヶ原の地に晒される。大一大万大吉。
私を刺し貫く刃に触れる。裂かれた手の平から血が流れ、胸から溢れるあたたかい鮮血と混ざり合い鍔の隙間を滴って三成の手を汚した。
あの日、家康を選んだことは間違いじゃなかった。家康が離反したことも間違いじゃなかった。崩れゆく豊臣の柱となって家康を殺めた三成も間違いじゃなかった。誰も間違ってなんかいなかった。
貫かれたまま私は三成を抱きしめる。胸の中をぬくい鋼が通る感触。意識が薄らいで、全ては光の向こう側だった。三成も、家康も。

「決して私を忘れるな。私もお前を忘れない」

「……、」

私を見下ろす三成は、眠れない夜、ずっと隣で見守っていてくれた時と同じ目をしていた。だから私は目を閉じる。
おやすみ、三成。
かなたの記憶に思いをはせるけれど、そこには誰の姿もないのだった。

【せかいじゅうの花が在る場所】

inspired by 天野月子「花冠」
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