2020

その日、例年に比べて暖かな冬だったとはいえ、膝ほどの高さまで雪が積もったにもかかわらず集まった多くの群衆に、兵営は普段と違う緊張感と隠しようもない高揚感に包まれていた。
喇叭の音が冷たく澄んだ空気を切り裂くように高らかと鳴り、颯爽と現れる聯隊旗手。長身かつ遠目から見ても見目麗しい旗手が白布のかかった壇上に登る。彼の掲げた紅緋と白の聯隊旗が晴天の空のもと北風に翻った。
しんと静まり返った営庭。恭しく飾られた聯隊旗が四方に光線を放つなか朗々とした声で祭文が読み上げられると、どこからともなく感嘆の息が波のように広がり、軍旗に注がれる尊崇の眼差しはいっそう熱さを増していった。
その後、分列式にて銃を担い行進をする歩兵や騎兵たち。整然とした足音が営庭に響く。皺ひとつ無い一装に身を包み、一糸乱れぬ隊列を組み進む彼らの様はまさに壮観であった。

その光景を近くで見ようと、nameは人垣の隙間を縫うようにして前列に行こうと奮闘していた。しかし彼女の小柄な身体で叶うはずもなく、なんとか人の少ない場所に辿り着き背伸びをするも、人垣の合間から見えるのは騎乗した将兵のしかめっ面だけなのだった。

「杢太郎さんどこにいるんだろう……。これじゃあ全然見えないよ」

nameは押しあいへしあいの波にもまれながら眉を下げる。そうこうしているうちに分列式も終わったらしく徐々に人垣の密度が減ってゆく。いい場所で見ることができなかったのは残念であるが、窮屈から解放されほっとひと息ついたnameは人の流れに乗って兵営内を散策することにした。
彼女の夫である菊田は軍旗祭にあまり乗り気ではなかったのだが(かつて、入隊して間もない頃は軍旗祭を心待ちにしていたこともあったが、今はもうそこまではしゃぐような歳ではないのだ)、nameは普段見ることのできない夫の姿を目に焼き付けようと今日という日を心待ちにしていた。
防寒に努めつつも年に一度の祭りを楽しむために着物は一番の気にいりのものを選んだし、髪型も普段はしない手の込んだ結い方にしてあった。早朝、家を出る菊田に「おめかしして行きますね」と宣言したnameは、彼が家を後にしてから姿見に向かい入念に支度を整えていた。
しかし入念すぎて時を忘れ、ようやく納得のいった髪型が完成したと思って時計を見れば家を出る予定の時刻を大幅に過ぎていた。夫の勇姿を最前列で見るのだと息巻いていたnameは、場所取りに間に合いますようにと一縷の望みを抱きつつ大慌てで家を後にしたのだった。
が、前述のとおり場所取りには間に合わず、そのうえあれだけ時間をかけて結った髪も人波にもみくちゃにされて見るも無残に乱れてしまい、窓ガラスに映った己の姿にnameは泣きたい気分になるのだった。綺麗に編み込んであった髪はほつれてうな垂れた蛇のようになっていたし、あれほど櫛で丁寧にとかした前髪はもはや枯れかけのススキの穂であった。
あまりの凄惨さに顔が火照る。着物のたもとで頭と顔を隠しながら建物の裏手に回り、裏口の階段の陰に隠れるように蹲る。
懐から櫛を取り出し髪を梳いていると、どこかで何かに擦ったのか、手の甲に一本、薄く血の滲んだ赤い線が走っていることに気が付いた。今まで気にならなかった痛みがじんじんと広がってきて、いっそう惨めな気持ちになるname。絡まった髪に慎重に歯を通したにもかかわらず数本が抜けて指にまとわりついた。目の裏が熱くなり、鼻がツンとする。こんなことで泣いてどうする、仮にも軍人の妻なのだからと自分を叱咤し指に絡む髪を振り払う。
菊田とnameは歳のはなれた夫婦であった。菊田はnameのことを目に入れても痛くないほど可愛がっていたが、nameはそれを彼が自分を子ども扱いしていると言ってきかない。nameは自分が小柄で顔つきも幼いことを良しとしていない。菊田との歳の差を埋めるべく普段はなにかと落ち着いた雰囲気を醸し出すことに努めているが、元来天真爛漫な性分であるため言動のそこかしこに無防備な無邪気さが顔を覗かせており、したがって彼女の努力が実る日はいまだやってこないでいるのだった。
そんなnameの健気なところも可愛いと思う菊田であるが、「またそんなこと言って!」とnameが唇を尖らせるので可愛いなどという言葉は口にしない。が、菊田の言動からは隠し切れない秘めたる思いが滲み出てしまうため、結局のところ口にしようがしまいがnameは「可愛い妻」として彼からの愛を一身に受けている。
櫛を通しながら涙の気配が引くのを根気よく待っているうちに、ようやく髪が落ち着きを取り戻す。裏口の戸のガラスに姿を映し、仕方なくいつもやっているように髪を結わえるとnameは大きく息を吸って吐いた。

「よし、杢太郎さんを探しに行こう」

意気込んだはいいものの兵営はあまりにも広大だった。隊ごとの趣向を凝らした飾りを眺めながら、演芸やずらずらと列を成す奇抜な格好の仮装行列などに目を奪われているうちに随分と時間が過ぎていた。菊田がいると言っていた兵舎の場所は聞かされていたが、同じような外観の建物が並んでいるうえになんとなく歩いていただけだったnameが目的の兵舎まで辿り着けるはずがないのだった。
「もしかしたら、迷子……かもしれない」先ほど出店で買った飴を舐めながらnameは立ち止まってあたりを見回すが、菊田の姿はない。

いっぽう、当の菊田はといえばお祭り騒ぎにいささかあてられ、兵舎から少し離れた場所にある陣営倉庫の壁にもたれて煙草を一服しているのだった。秋季演習が終わったかと思えば人事の件で忙しくなり、そのうえ秘密裏の仕事も近頃やりとりが多くなったため気が抜けず、軍旗祭の準備を終えたところで菊田は疲労が頂点に達し、肝心の当日はくたびれた亀のようになっていた。
待てど暮らせどnameは来ず、まあ大方迷子になっているのだろうと見当はついたが、自分がこの場を離れて探しに行ってすれ違うよりは伝えた場所で待っていた方が確実に会えるだろうと思っていたのだ。たとえ迷おうとも誰かに自分の所属と名前を伝えれば、おおよその場所は教えてもらえるだろうから。
深く息を吸って肺を煙で満たす。nameに会いたい。手の中でマッチ箱をくるくると回しながら菊田はnameの笑顔を思い出している。

茂みの影から出てきた一匹の黒猫を見つけたnameはその後をつけていく。立ち止まってはこちらを振り返るその仕草がまるで道案内をしているように思えたからだ。いくつかの建物を抜け、大分喧騒が遠ざかった場所までやってきた。建物の角を曲がって姿を消した猫を見失うまいと慌てて走れば雪に足を取られて躓いた。そのままぼすんと雪に倒れ伏したnameは、今度こそ心がくじけて動けなくなってしまう。

「こんなところでなにをしているんですか」

抑揚に欠けた低い声が頭上から降ってきたけれど、顔をあげる気力もなく伏したままのname。すると「百之助〜、サボりとかいい度胸してるじゃん。……って、え、なにこれ、死体?お前がやったの?」ともうひとつの声が耳に届く。人数がふたりに増えたことで増々起き上がり辛くなるも息が続かず、nameは大の字の体勢のまま首だけを上げて口を開く。

「死体じゃありません。人を探しているんです」

睫毛の先に着いている雪が陽の光に輝いて眩しい。のそのそと起き上がったnameは目の前に立ち塞がっているふたりの男の出で立ちが予想外過ぎたため、遠慮を忘れてまじまじと眺めてしまう。
ふたりとも女の着物を着て、大げさすぎるほどの頬紅をさし、赤すぎる口紅を引いている。着物の着方はといえばやる気が微塵も感じられず、適当に帯を結んでいるせいで筋肉に盛り上がる胸元が肌蹴て覗いていた。
「寒くないんですか」と心配そうに胸元を見つめるnameに、男ふたりは寒くないわけがないと肩を竦めた。

「それより、人探しって誰を探してるのさ」

自分と同じぐらいの歳だからか、口の両端に黒子のある男は気安く、けれどどこか威圧的に訊ねてくる。百之助と呼ばれた方の男はnameにはもう興味を失ったらしく、しゃがんで彼女が追い掛けてきた黒猫と戯れていた。

「夫を。27聯隊の菊田杢太郎です。どこにいるかご存知でしょうか?場所を教えてもらったんですけど、迷子になってしまっ……て……?」

nameが最後まで言い切ることができなかったのは、菊田の名前を出した瞬間に黒子の男と百之助が物凄い速さで表情の消えた顔を見合わせ、そのままふたりともに凝視されたからだった。何かを探るような視線の強さにたじたじになるname。

「あの……ご、ご存じなんですか?」

「うんうんうん知ってるよ。多分ここをまっすぐ行ってふたつ目の兵舎にいるんじゃないかな。あと僕たちに会ったことは内緒だからね、よろしく、それじゃあ」

早口でそこまで言うと、黒子の男は百之助の腕をひっつかんで雪を踏み分け大股でその場を去って行った。ふたりの背中が見えなくなるのをぽかんと見送っていたnameは、猫の鳴き声で我に返る。先ほど示された方に一歩踏み出せば、猫は静かに姿を消した。
まっさらな雪に足跡を残し、nameは菊田の元へと向かって歩く。

三本目の煙草を吸い終わった菊田は兵舎に戻る。ちょうど今は相撲や組体操といった派手な催しが営庭で行われているので兵舎にひと気はない。が、サボっているのが万一誰かの目に触れては決まりが悪いのであたりを窺いながら裏口へとまわる。すると向こうの方からこちらに向かってやってくるnameの姿があるではないか。時折視線を泳がせ探しているのが自分の姿なのかと思うと、胸の奥底から何ともいえない甘くあたたかな感情が湧きあがるのを感じる。菊田は壁に背を預け、煙草を咥えて段々と近づいてくるnameがいつ自分に気が付くのだろうかと、大きくなる彼女の姿を眺めるのだった。
煙草が半分ほど灰になったところでnameの視線が菊田を捉える。
その瞬間の彼女の表情の華やぎようといったら筆舌に尽くしがたく、まるで春になって野の花が一斉に花開くような素朴な、しかし圧倒的な幸福に満ちた顔を向けられた菊田は自ずと足が前に出る。
投げ捨てた煙草が雪の上で音をたてて消えた。走るのすらもどかしく、これ以上ふたりの距離に我慢ができないとでもいうかのように腕の中に飛び込んでくるnameを抱き留めた菊田の顔は、煙草を口にしていないというのにやに下がっていた。

「やっと会えた!」

長い抱擁をようやく終えたnameは満面の笑みを菊田に向ける。しかし何かに気が付いたのかきゅっと眉間に皺を寄せ眉を下げるとまたしても彼の胸元に顔を埋めてしまう。

「どうした?」

何かあったのかと心配そうに訊ねると、「髪型が全然うまくいかなくて。それで時間に遅れてしまって……」と事の顛末を蚊の鳴くような声で語る。髪を両手で押さえているnameの手をそっと取ると、菊田は「いつも通りだっていいじゃないか」と彼女の前髪に唇を寄せた。「綺麗にして、それで杢太郎さんの格好いいところをいちばん前で見ようと思ったのに」頬をぺたりと胸に寄せるnameがそう言うので、慰めるように髪を梳いてやる。

「それはそうと、ちゃんと辿り着けたんだな」

「はい。だいぶ迷いましたけどね」

でも、と続けたnameはハッとした表情になって口を噤む。「でも?」と聞いてもぶんぶんと首を横に振るばかり。

「ね、猫が途中まで案内してくれたんです」

「黒猫か?最近兵舎の近くでよく見かけるやつだな」

「そうです、その子です」

隠しごとをしているらしいnameは慌ただしく今度は首を縦に振って話題を変える。

「ここ、いつも杢太郎さんがお仕事をしてるところですか?」

「そうだ」

「中、入ってもいいんですか?」

「今日ぐらい構わんさ。どうせ皆外に出払ってるしな」

裏口の扉を開けて兵舎の中に入る。菊田の背後からそろそろとついてくるnameは物珍しいのか忙しなく視線をさまよわせている。いつもならば行きかうむさ苦しい男たちで騒がしい舎内も、今日は静まり返っていた。遠くから聞こえる喧騒が静けさを際立たせる。廊下に反響する軍靴の音がやけに大きく耳に響いた。

「もしかしてここがいつも言っている事務室ですか?」

長い廊下を半ばまで行ったところでnameが足を止めて菊田を見る。ひょいと中を覗くので「そうだ」と言えばnameは「わぁ」と感嘆の声をあげる。普段は書類が山積みになっている机も今日ばかりはすっきりと整頓されていた。
お邪魔します、小声で言い頭を下げたnameが「菊田さんのお席は……」と並んだ机を順になぞる。「そこだ」と指させばnameは椅子を引いて腰を下ろすと、両肘をついて組んだ手の甲に顎を乗せ、いかにも悪そうな笑顔を浮かべて菊田を見る。

「そこまで人相悪くないだろう」

眉間の皺に人差し指で触れるとnameはやわらかな笑みを浮かべた。見慣れた景色の中にnameの姿があると、そこだけ切り取られた空間のような異質さを感じる。常にせわしなく混沌としたこの場所にこれほどそぐわない存在があるだろうか。
菊田の手を取り立ち上がったnameは窓際に立つと万国旗に彩られた営庭を眺める。仮装行列の恰好のまま相撲に興じる兵たちと、それをやんやと応援する観衆。隅の方では遠巻きに眺めながらここぞとばかりに酒を飲み交わしている上官たちの姿があった。
波打ったガラスを通して午後の日差しがnameに降り注いでいる。窓ガラスに触れている彼女の爪の先が、薄桃色の小さな貝がらのように儚く光る。菊田はそのかすかなきらめきを見逃さなかった。泥濘のごとき胸の底に点々と転がる光の粒は、彼の冷たい最果てにて、やんわりとあたたかく明滅を繰り返す。
nameが菊田を振り返る。陽光に浮かびあがるnameのかんばせ。彼女の唇が「杢太郎さん」と言葉を縁どる。一歩、また一歩、足を踏み出すたびにカツン、コツン、と軍靴の音が部屋に響いた。尊いものに触れるようにして、菊田はnameの腕を引く。窓の外から見えぬよう壁際にnameを引き寄せ、腕と壁の間に閉じ込めると唇を塞いだ。小さく聞こえてくる歓声は遠く、互いの息遣いだけがそこにあった。
触れたときに冷たかった唇も離れるころにはすっかり熱を孕んでいて、一度触れたが最後二度三度と繰り返してしまう。白塗りの壁にnameの艶やかな着物の朱鷺色が揺れる。菊田の上衣を握るnameの手が切なげに震え、ようやく彼女は解放される。
nameの口紅がいくらか薄くなった代わりに、菊田の唇の血色が増していた。nameは人差し指で菊田の唇を左から右になぞり、拭き取った紅を自分の唇に乗せる。そうして、はにかむように頬を窪ませるのだった。

兵舎の裏口から出たnameと菊田の前を、すまし顔の黒猫が横切る。

「あ、あの猫です」

「やっぱりそうか。今度めざしでも奢ってやるとするかな」

めざし、という言葉が理解できたのか定かではないが、黒猫はちらりとふたりを振り返りひと鳴きすると茂みの向こうに姿を消した。

「営門までの道はわかるな?ここの角を曲がってまっすぐ行くだけだ」

「大丈夫です、もう迷いません!お帰り、お待ちしてますね」

そう言って菊田の袖をちょんとつまんで腕に額を寄せると、nameは笑顔と共に敬礼の姿勢をとって踵を返した。兵舎の角を曲がるとき、もう一度振り返って菊田に手を振る。片手を上げるも、nameが手を降ろす気配が一向に見えないので菊田は困り顔で「いいから行け」と背後を顎で示すのだった。着物の袂が肘まで落ちるのも気にせず両腕をぶんぶん振って、満足したのかnameは帰っていった。
自信満々なのがかえって怪しいが、そこは妻を信じてやりたい。

「さて、そろそろ仕事に戻るか」

誰に言うでもなく呟いて、菊田はひとり兵舎に戻った。

軍旗祭の翌日、昨日のお祭り騒ぎは跡形もなく、兵営には普段通りの日常が戻っていた。
飾りが取り外されさっぱりとした営門をくぐり、菊田は兵舎に向かう。忙しなく行きかう一等兵や二等兵たちの挨拶を受け流し事務室に入る。どさりと書類を机に積んで煙草に火をつけた菊田は上官である鶴見のところに行かねばならなかったことを思いだし、煙を数回吐きだしただけの煙草をもみ消すと、今しがた下ろしたばかりの腰をまた上げる。
その時、雲の切れ間から太陽の日差しが音もなく部屋を照らし出し、薄暗かった室内に光が満ちた。漆喰の壁が明るく光り、菊田は昨日この場所でnameにしたことを鮮明に思いだす。
爪の先にともった儚い光。唇のやわらかさ。ひっそりとした息遣い。服越しの熱。
あの日、帰宅した菊田を出迎えたのはきちんと髪を結い直し、薄く化粧をしたnameであった。「ほんとうは、こういう感じだったんです」と少し照れながらくるりと回ってみせたname。自分を見上げる大きな瞳と染まった頬に、菊田は疲労も忘れてnameを抱き締めた。褒める言葉を口にしたそばから結い直した髪を乱し、「綺麗だ」と囁きながら施し直した化粧を溶かした。事が終わって「これじゃあ意味ないじゃないですか!」と拗ねた妻の機嫌を取るのに心を砕きはしたが、菊田の中には充足感が満ちていた。
この場所に、nameがいたのだ。
見えもしない妻の姿が一瞬光の中に浮かんだ気がして目を細めるが、場をわきまえず口づけなぞしてしまった自分を今さらながら客観的な目で見てしまい、菊田は途端に言いようのない気恥ずかしさに襲われひとり柄にもなく赤面してしまうのだった。
ポケットから煙草を出そうとしたが手元が狂いポトリと床に落ちる。「大丈夫ですか?お顔が赤いようですが……」と声をかけられるも、返事もそぞろに菊田は事務室を後にした。

【この物語は(ノン)フィクションです】
- ナノ -