2020

私ね、就職決まったよ。夜半、庭の隅の木に腰を下ろしたnameがぼんやりとした口調で言った。よかったな、と言った私を見るでもなく、そしてそれ以降なにかを喋るでもないnameは膝を抱えて小さくなる。

「で、話はそれだけか」

「うん、まあ」

歯切れの悪い彼女をちらりと見やると目を伏せて明らかに元気がない様子なので、どうした律儀に訊ねてやる。それでも要領を得ないので、これ以上聞いても無駄だと判断して口を噤んだ。
手持ち無沙汰で私は髪の先を指に巻きつけたり解いたりを意味もなく繰り返していると、着物の袖をつと掴まれて私は視線をnameに向けた。

「昨日、家からの手紙が届いたんだけど、そこにね……私を嫁にほしいっていう人がいるって書いてあったの」

「ほぉ……」

「ほぉって、そんなひと事みたいに」

「いや、ひと事だろう」

サラリと言った私を恨めしげにnameが見る。
そんな視線を向けられたところで私に何がしてやれるというのだろう。はぁどうしよう、と木にもたれて力なくずり下がるnameはこの件について本当に迷っているらしかった。
そもそもなぜ私を相談相手に選んだのか。わざわざこんな時間に呼び出してまで。親身になって相談に乗るのならば私よりも伊作のほうが向いているような気がするし、どちらかを即決してほしいのであれば文次郎あたりに相談を持ちかけるべきなのではないか。

「なぜ私にそのようなことを?」

「いつだって完璧で冷静沈着な立花仙蔵くんにぜひご意見を伺いたいなぁと思ったんです」

「よせ、気味が悪い。誰かの意見を聞く前に、お前自身はどうしたいんだ」

「どうしたいんだろう」

「私に聞くな」

あー、と無意味な声を出すnameの横顔を眺めながら、そういえば学園を卒業してしまったらもうこいつと会うこともないのかという当たり前の事実に今更思い至る。自分自身は城に仕えるにしろフリーになるにしろ、忍者としてこの先も生きていくことを決めている。つまりこうして同じ釜の飯を食った仲であれど、ひとたび学び舎を後にすれば刃を交え命を獲りあう関係になるかもしれない、ということだ。
木の根を手のひらで撫でているnameは本気で悩んでいる。お前の人生だろう。と切って捨てることだってできるのにしなかったのは、自分の中でなにか打算が働いたからなのかもしれない。

「現実的に考えろよ。お前は命を危険に晒してまで忍として生きたいのか?嫁に行けば何の心配もせず平和に暮らしてゆけるだろう。むざむざ死に急ぐ必要はないと思うが」

「でもさ、結婚したとして床に入るじゃない。その時にこの身体見られるんだよ」

そう言ってnameは着物の袖をたくし上げて私に見せる。私達男子とまではいかずとも、同年代の町娘あるいは村娘とするならばおおよそ似つかわしくない傷跡が幾筋かその白い肌の上を走っている。布地で隠されている部分も言わずもがな、だ。nameはそっと自分の肩を抱く。さらさらと肩にかかっていた髪が流れ、淡い月明かりに静かに輝いた。

「それごとお前を愛してくれるかもしれない、とは思わないのか」

nameの薄い背中を真一文字に横切る傷跡の長さを、私は寸分違わず記憶している。

「あはは、仙蔵にしては情緒的だね。私だって女の子だからそうだったらいいなぁって思うよ。でも、きっと、いつか知ってしまうんだよね。私の手が何人もの人を傷つけてきた手だってことに。殺めることを意に介することもない。つまりそれは自分だってその立場に置かれるかもしれないという恐怖につながるんじゃない?私がそこまでいれこんでいなければいいけど、もし私がその人のことを心から愛してしまっていたら?あとあと拒絶されるぐらいなら最初から嫁になんて行きたくないよ」

「でも、が多いな。それはお前の考えすぎだろう。そもそも、お前の言い分だと同業のものとしか結婚できなくなるぞ」

「……ね」

伏せられた睫毛が頬に影を落とす。
案外良いところの子息が自らの護衛も兼ねて、器量も良く学園での成績も優秀なnameを嫁に欲しがったのではないかと私は推察していた。それならばnameはぜひその家に嫁ぐべきだ。が、もしnameが言った通りになったとしたら?たとえ行使せずとも自らの寝首をかく力を持った、身体に傷のついた妻を遠ざけ、それこそ金に物を言わせてもっと見目麗しい女たちを侍らせ彼女をないがしろにしたならば?私ならそのようなやつなど焙烙火矢で爆破してやるが。

「思案を過ごす、だな」

「大事なことだもん。思案したっていいじゃない」

「それならば納得のゆくまで思案しろ」

私の言葉に浅く肯いたnameの憂いた眼差しに、無意識に吸い寄せられていた。

「私も仙蔵みたいに優秀だったらなぁ」

「お前の成績だって中々のものだろう」

と言いつつ、外の世界で成績の持つ数字などなんの役にも立たないことは知っていた。運、才能、センス。良い子なだけでは生きてゆくのは難しい。忍の道を生きるのならば尚更だ。

「ねぇ、それに私、おぼこじゃないし」

くすくすとnameは笑う。いいトコに嫁ぐならやっぱりそれはキツイよね。と続いた言葉は先ほどの自分の推察が当たったことを意味していた。そんなもの、演技でどうにかしろ。私は小さく鼻を鳴らした。

「もし仙蔵が私なら、どうする?」

「くだらない質問だな。だが答えてやろう。もし私がお前なら迷わず嫁ぐ」

「意外!」

「私がお前ならと仮定しての話だ。誤解するな。そしてもし嫁ぎ先で不義理にあったなら、寝首をかいて忍にもどればいい」

「……えぇー。嫁いでもないのに不義理とかやめてよぉ」

「何が起こるかわからんからな。起こり得るすべての可能性を考慮した上での答えだ」

そうだね。ぽつりと呟いてnameは口を閉ざした。

「留年しちゃおうかな」

「阿呆か」

どこかで梟が鳴いている。月は細く、星明りのほうが強いぐらいの夜だった。

「私はこうしていたいだけなのに」

無理だって、わかってるよ。困ったように笑って私を見たnameの言葉がいったい何を指しているのか図りかね、私は何も言わず彼女を見る。
こうして、とは。学園での生活を送ることなのか、それとも。

「仙蔵、手繋いでもいい」

「断る理由はないな」

そう言うと、nameがゆっくりと手を伸ばし私の左手をとった。
その瞬間、自身の根幹の部分が先ほどnameの言った「こうしていたい」の意味を悟る。頭で考え理解するのではない、稲妻に打たれたように、唐突に、抗う隙もなく「悟らされた」のだ。なぜならnameの手が触れた瞬間、こうしていたい」と、いっそ苦しみにも似た願いが私の中にも生じたから。蒔かれた願望の種は発芽し己の身体に根を張り巡らせる。それを抜き去れば体はバラバラになって死んでしまうだろう。育たぬうちに、摘まねばならぬ。
私は左肩から先の感覚を殺す。それでもなお、夜の空気に混ざるnameの気配が私をゆっくりと包んでゆく。目を閉じれば深い暗闇で、そこにひとり横たわる己を思い浮かべる。

「仙蔵、」

呼ばれた自らの名にハッと目を開くと、nameは私から手を離して立ち上がった。話聞いてくれてありがとう。ふわりと目元をほころばせたnameは「おやすみ」と言って私に手を振った。
name、とその背中に呼びかける。なあに、とnameが振り返る。

「もし背中の傷ごと愛してもらえねば、そのような奴は殺してしまえ。その時は私がお前を貰ってやる」

ふ、と薄く笑う。馬鹿なことを口にしている自覚はあった。けれどnameはそれをからかうでもなく、ありがとうともう一度小さく礼を言った。
もしも不義理があったとて、滲みでる寂しさを隠し切れないお前がどうして夫を殺すことができよう。
噛み締めた頬の内側が破れ、生ぬるい血が口の中に広がるのを感じながら、遠ざかってゆくnameの小さな背中が宵闇に溶けるまで私はその場から動けずにいるのだった。
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