2020

帰宅して玄関のドアを開け、目の前に立っていたnameの格好とポーズに俺はポカンと口を開ける。何故かといえば、可愛いという名の鈍器で後頭部を全力でぶん殴られたからだった。

「お、お菓子をくれなきゃいたずらするぞ、です」

猫の耳がついた、もこもことしたパーカーのフードを被ったnameは言い終わると申し訳程度に指を浅く丸めた両手を顔の横に持ってきて「がおー」と歯を見せた。
猫なのか、それとも狼なのか判然としないし、自分から仕掛けておいて顔を真っ赤にしているのが妙に哀れを誘う。奥歯を噛み締め彼女を抱きしめるよりも前に、羞恥にひと回り小さくなっているnameどうにかしてやりたくなった俺はとあることを思い出す。

「菓子ならあるぞ」

旅行に行ってきたからお土産です、と同じ部署の人間がくれたチョコレートを鞄から出す。するとnameは「わぁ!」と今しがたまでの設定(自分が何らかの動物であること、および菓子をくれねば悪戯をしてやるという魂胆)などまったくないものとして目を輝かせた。
綺麗な包みに入った外国のチョコレートを手のひらに乗せしげしげと眺めているnameに「とりあえず着替えさせてくれ」と断って部屋に入る。チョコレートの包みを開けて口に入れたnameは「お、おいしい……!」とひとり感極まっていた。
リアクションがいちいち大きいのが玉に瑕だが、見ていて面白いので問題はない。
手を洗っていると慌てた様子でnameがやってきて背中をひっかくので「どうした?」と訊けば、

「お菓子もらっても、いたずらしていいですか」

などと言う。
うがいをし、タオルで手と口を拭いた俺はnameに向き合った。

「悪戯とはなんだ?」

「えっ?」

「……?」

nameが戸惑うのでこちらまで困惑してしまう。たとえば、こう、少々いやらしい悪戯などを期待していなくもなかったので肩透かしを食らった気分だった。

「考えてませんでした……」

「……そうか」

考えていなかったらしい。いやらしい悪戯をこちらから所望するわけにもいかないので黙っている。nameはしばらく思案したのち伏せていた顔をあげると、ぐいぐいと俺を壁際に押しやり壁の方を向くように立たせる。なにをするつもりなのか。いや、この場合は何らかの悪戯なのだろうが。

「月島さん」

「なんだ」

壁の方を向いたまま返事をすると、なおも「月島さんっ」と今度は焦ったように少し語調を強くして呼ばれる。同じように返事をすれば「こっち向いてください」と声を潜めて言うので、なるほどこれはアレだなと彼女の目的を察する。振り向いたら頬に人差し指が刺さるおなじみの悪戯を仕掛けているらしい。
俺は狙いを定めてnameの手があるであろう位置に手を伸ばした。が、俺の指は空をかく。
それと同時に背中に軽い衝撃を受けた。
じんわりと背中全体に広がってゆく熱はnameの体温だ。腹に腕が回され、俺は背後から抱きしめられていた。

「ほっぺ、ぷにってしようと思ったんですけど、月島さんの背中見てたらこうしたくなっちゃいました」

「悪戯はもういいのか?」

「……もういいです。はぁーあったかい。大好きです月島さん」

さわさわと胸から腹にかけてnameの手が這う。背中には鼻を擦り付けられていて、いいようにされている俺はといえば、ハロウィンのくだらない(などと言ったらきっと怒るだろうが)悪戯などよりこちらの方がずっと堪えるのであった。

「じゃあ今度は俺の番だな」

「はい?」

背中で首をかしげるnameを、今度は俺が壁と自分との間に閉じ込める。

「トリックオアトリート」

こんな言葉を自分が言う日が来ようとは。nameの見開かれた目を覗き込むと顔を逸らされた。それに構わず微動だにしないままnameのやわらかそうな輪郭を視線でなぞっていると、ひゅ、と小さく息を吸う音が聞こえる。
つま先立ちになるname。唇が塞がれ、鼻腔を甘いチョコレートの香りがかすめた。

「これじゃだめですか?」

nameはフードをかぶり、触れれば火傷してしまいそうな赤に染まった頬までを隠すようにぎゅっと引っ張る。次に何が起こるか動きで予想できていたのに情けなくも動揺してしまったのは、nameがあまりにも可愛すぎたせいだ。
だめなわけあるか。腹が減ったから飯にする。熱でもあるのか。
言うべき言葉が浮かんでは消える。なにを言うのが正解なのかわからず固まっている俺に、さらなるダメ押しの鉄槌が振り下ろされたのはそれからきっかり五秒後のことだった。

「いたずら、してもいいですよ?」

目深にかぶったフードの下からこちらを窺うように見上げるnameの目。俺の部屋着の胸元を掴む小さな手。パーカーと揃いの丈の短いパンツから覗く白い太腿。目に映る全てが五感に訴えかけすぎるので逃れるべく目を閉じれば、唇にまだうっすらと残っていたチョコレートの香りが暗闇を甘く染める。
唾をのみ込むとごくりと音が鳴った。視線とは裏腹に躊躇せず俺の背中に回される細い腕。顔を見られたくないときにいつもこうするnameを引き剥がして恥ずかしがる表情をじっくり眺めるのが好きなのであるが、今は自分の方こそ顔を見られたくないのでこのまましばらくの間は静かに顔を埋めていてほしかった。

「……しないんですか」

くぐもった声が肌を震わせ、俺は溜息をつく。

「するに決まってるだろう。でも、先に風呂だ」

そう言ってnameの髪を撫でるが、nameは腕の中で首を横に振る。「いま、」とほとんど吐息のような声が響き俺は天井を仰いだ。
腕を伸ばして洗面所の電気を消す。こんな腑抜けた顔を見られたらたまらない。突然消えた電気にnameは身体をこわばらせ、しがみ付く腕に力がこもる。額に唇を寄せnameを抱きかかえ寝室に運ぶ。
素肌にあたるパーカーのもこもことした生地がくすぐったい。この日のためにnameが用意したものだというのに、俺はそのファスナーを降ろすことばかりを考えている。着ている方がよっぽど目に毒だ、と思う。いっそ裸でいてくれた方がずっと良い。
などと考えながら、いざファスナーに手をかけるとひどく心臓の音がうるさくて、服の袖を握っているnameの手を解いて握ると長い時間をかけてキスをする。チョコレートの味がやがて消え、お互いの味になってゆく口の中。
お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ、か。
とろんとした目で俺を見上げるnameの耳たぶに歯を立てる。立ち昇る甘い香りはname自身が発しているものだ。じっくりと味わう余裕があるだろうか。それとも悪戯に耽るのだろうか。俺のわき腹をそっと撫でるnameの手の平は既に汗ばんでいる。
冬の始まりの乾いた夜に、ファスナーのおりる音が静かに響く。

【近頃は誰でもたやすく悪魔になれるようになった。】
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