2020

早めに昼休みにするつもりが来客があって随分と遅くなってしまった。外に食べに出るのも億劫で、オフィスのあるビルの一階に入っているカフェにコーヒーとサンドイッチを買いに行くことにした。
14時近いこともあって店は空いていた。オフィスの休憩室で食べようと思っていたが、なんとなく気持ちを切り替えたくて(来客が面倒な類の話を長々としていて、気持ちがくさくさしていたのだ)、店内で食べることに決める。さっさと会計を済ませて空いている窓際の席に行こうとした俺は、背後から呼び止められて振り返る。

「菊田さん」

振り向けばnameが立っていた。

「なんだ、お前も今から昼か?」

しかしnameは俺の問いに答えず「ご一緒してもいいですか」と言う。どことなく有無を言わせない雰囲気に、俺は「もちろん」と頷き先に席に着く。
向かいに座ったnameが手にしていたのはカフェオレだけだった。何も食べないのだろうか。ダイエット中?しかしそんなことを面と向かって訊くのも失礼に値するので、俺は自分のサンドイッチのフィルムをめくる。店内にBGMがかかっているにもかかわらず、フィルムの剥がれる乾いた音がやけに大きく聞こえた。

「菊田さん、あの」

「ん?」

「前に聞いたとき、菊田さんは結婚してないって言ってましたよね」

「あ、……ああ」

みぞおちを殴られたような衝撃に見舞われて口の中のサンドイッチをむせかけ、慌ててコーヒーで流しこむ。まだ冷めきっていないコーヒーに口内が爛れ顔を顰めた。しかしnameはそんなことにはお構いなしとでも言うように身を乗り出すと、なおも続ける。

「お付き合いしてる人もいないって、言ってましたよね」

「はい」

何故か敬語になった。そして沈黙。まだ一口しか食べていないというのに、既に胃のあたりが重たく淀んでいる。
まるで叱られているみたいだ。

nameと初めて言葉を交わしたのは彼女が入社して間もなくの頃だった。雑用を命じられて廊下を早足で歩いていたnameが絨毯敷きの床に足を取られ、弾みで持っていた資料があたりにぶちまけられた。ちょうど廊下の角を曲がってその光景を目の当たりにした俺は足元にあった一枚を拾って、屈んで資料を拾い集めているnameに差し出す。

「随分と遠くまで飛ばしたな」

見たことのない顔だったのと、自分たちからは失われてしまった初々しさとぎこちなさを身にまとっていたので、彼女が新入社員であることは想像に容易かった。
拾うことで手一杯で俺の存在に全く気がついていなかったのか、目の前に現れた資料と俺にびっくりしたのか、nameは尻餅をついた。

「わっ、あっ……すみません、ありがとうございます!」

慌てて立ち上がるとnameは頭を下げる。垂れた髪から真っ赤に染まった耳が現れ、束の間俺はそれに見入ってしまう。が、セクハラだと思われても困るので早々に視線を外してまだ床に落ちたままになっている資料を拾った。

「順番、ちゃんとわかるか?」

「はい、大丈夫だと、思います」

力なく肯く姿と、ハの字になった眉。見たところページ番号が振ってあるわけではなさそうだったので、部署に持って帰って自分で直すつもりなのだろう。さすがに怒られはしないだろうが、入社したての立場からしたら些細なミスですら肩身が狭くなる思いであろう。もうおぼろげにしか記憶にない自分の新人時代を思い出しながら、明らかにしょげている彼女をそのままにしておけず「ちょっと見せてみな」と資料をnameの手から抜き取り、空いている部屋に入って長机に広げる。幸運にも自分の耳にも入っている件だったため、ざっと目を通して順番どおりに並べ替える。

「ん、おおかたこれでいいと思うが。一応あとで確認もらってくれ」

手渡すとnameは俯いていた顔をあげ、「本当にありがとうございました」と深々と頭を下げる。そこまで感謝されるようなことはしていないつもりだったので、俺はこそばゆいような面はゆいような気持ちになって「気にしなくていい」と誤魔化しを兼ねて首を振る。
両腕でしっかりと資料を抱えているnameに扉を開けてやると、「開けさせてしまってすみません!」とまた慌てる。なんというか、危なっかしいな……。若干不安になりつつ「いいから行きな。迷子になったかと思われて探されるぞ」と廊下を顎で示す。もう一度ぺこりとお辞儀をし、nameは小走りで去っていった。
彼女の名前もどこの部署に配属されているのかも聞かずに終わり、その出来事は日常のひとコマとして繁忙の日々に埋もれていった。
出社時間も退社時間も、そしてフロアも上下で違っていたので会う機会もなく、彼女と久々に邂逅したのはそれからふた月ほど経ってからだった。普段は食堂を利用するので滅多に足を運ばないこの場所、つまり、今現在俺たちが向かい合っているカフェで再会を果たした。
再会、などと物語じみた言い方をしてしまうのは自分の中に何かしら引っかかるものがあったからなのかもしれない。
コーヒーとベーグルの乗ったトレーを手にし、どこに座ろうかと店内を見回した俺は窓際の一番端の席に座って往来を眺めているnameの姿に気が付く。休憩中なのに邪魔をしては悪いので、俺は彼女から離れた場所に座ろうと一歩踏み出した。すると、

「あーっ!」

と言う声と共にガタンと椅子が大きく鳴り、店内にいた数人が音の出どころに一斉に視線を向けた。俺も例外でなく、そして当の本人は自分が注視を浴びていることなど気が付きもしない様子で立ち上がったままテーブルに両手をつき、まっすぐに俺の方を見つめていた。どうするべき考えあぐねている俺に向かって、nameは自分の向かいの席を手のひらで「こちらにどうぞ」と示してみせる。客たちの視線がちらりと俺に移り、断るにも断れず(というか、断る理由もさしてないので)、俺は促されるまま彼女の向かいに腰を降ろした。

「ご無沙汰してます。あの時は本当にありがとうございました。お礼もじゅうぶんに言わないままで、申し訳なく思っていて」

「前にも言ったが、そんなに気にすることじゃない。礼なんて別にいいよ」

「せめてお名前だけでも伺うべきだったのに、気が動転していて。同じ部署の人に心当たりがないか聞いてみたんですけど……」

それが私、うまく伝えられなくて。と眉を下げて笑うので「俺のことをなんて訊いたんだ?」と首をかしげてみせると、

「背が高くてスーツが似合う、髪の毛を分けていて眉毛が下がり気味で、いい匂いのするかっこいい男性、と」

臆面もなく並べられた言葉に俺はぽかんと口を開けた。彼女からしたらただ俺の特徴を述べただけなのだろうが、どう考えてもそれは賛辞にしか聞こえない。場を盛り上げる手段として美辞麗句を女に言うことは幾度かあれど、自分が面と向かってそのようなことを言われたことなど無かった。それに反して目の前のnameが口にした賛辞の利用法があまりにもまっとうだったので二の句を告げずにいた。そんな俺の顔を見て、nameは「あ、」と手を鳴らした。まだあるのか……もうやめてくれ……。気恥ずかしさに肩が強張る。

「あと、髭がはえてる!」

「……そうだな」

はは、と曖昧に笑ってコーヒーを飲んだ。そうする以外になにができただろう。つられるようにnameもカップに口をつける。同時にカップをテーブルに置いた俺たちは、そこでようやく自己紹介に至ったのだった。
以降、nameは社内で俺を見かけると人懐っこい笑みを向けて小さく頭を下げてくれるようになった。「なんですか、新入社員誑かしたんですか?鶴見さんに告げ口しちゃおうかなぁ、菊田さんがよその部署の新入社員を弄んでるって」と偶然居合わせた宇佐美が物騒なことを言うので「ちげーよアホか」と一喝した。「ムキになるところが怪しいですね」と眉を顰めるのでこれ以上は相手にしていられないと無視を決め込む。その一方で、あの日nameに出くわしたのがこいつではなくて本当によかったと安堵している自分がいた。
湯船につかって何気なく天上を見上げた時や、ベッドの中で冷たい足先を擦り合わせている時、決まってnameの笑顔が脳裏をよぎった。かわいい、と思う。単純に。
そうそう接点もない自分のことを慕う素振りを見せるname。背が高くてスーツが似合う……。あの時nameが俺に言った言葉を胸の内で反芻する。諳んじてしまえる自分が情けなかった。そんな時、風呂にいればぶくぶくと湯船に鼻まで沈み、ベッドにいれば掛け布団を頭の先までかぶった。それから、思春期じゃねーんだぞ!と大きく息を吸うところまでがセットなのだった。
一年が経ち、社食で一緒に昼食をとることも何度かあった。そして二年、三年、四年が経った。後輩を連れている姿もサマになっていて、自分の直接の部下でも後輩でもないというのに誇らしい気持ちになる。

nameの背後にあるはめ込みの大きな窓ガラスからは、午後の光がふんだんに差し込んでいる。四年前に同じようにこうしていたことが、ずっと昔のようにも、ついこの間のことにも思える。

「ずっと菊田さんのことが好きでした」

「知ってる」

「私じゃだめですか?」

真っ直ぐな瞳も、まっすぐな気持ちも俺には眩しかった。

「いいや」

「じゃあ、」

「でも、だめだ。俺がお前に抱いている気持ちは、お前が俺に抱いている気持ちとは別だから」

「……わかりません」

彼女を誇らしいと思ったあの時点で、俺は自分のnameに対する感情が恋愛感情ではなく、父親やあるいは兄のような立ち位置でnameを見守っていたいという庇護欲であるということを悟った。nameがほかの男と親し気に話しているのを見て腹の底にずっしりとした重みを感じるのもそのせいだ。いつまでもその笑顔が自分だけに向けられるものではないとわかってしまった寂しさ。巣立つ子供を見送る親というのはこういう気持なのだろうか。
俯いているnameはカップを両手で包む。微かに震えているのか、表面に細かな波紋が立っている。

「たぶん、俺はお前のことを恋愛の対象として見ていない」

俺がこの台詞を言うのはこれが四回目だ。通算四度目の告白。通算四度目の拒否。nameに向けている眼差しが、どうかやさしいものであるように。
俺のことなどもういい加減諦めてくれたらいいのに、と思う。一度目は会社の帰り、オフィスビルを出たところで。二度目は大勢いる飲み会の席で。三度目は夜のバーで。のらりくらりと告白を躱していればそのうち他の男に目移りするだろうと目論んでいたが、そうはならなかった。
三度目、つまり去年、ジャズがちいさく流れるバーでnameは酔った目元を赤くして俺を見上げ、「やっぱり好きです」と泣きそうな顔で言った。「何度言われたところで俺にはどうしようもない」唇だけの笑みを向けるとnameは残っていたカクテルを飲みほしてカウンターに突っ伏した。俺はただ、カウンターの奥に並ぶボトルが鈍い光を放っているのを眺めることしかできない。そのままnameは眠ってしまい、結局タクシーでアパートまで送ることになった。酔いに任せてしがみ付いてくるnameを引きずるようにして部屋まで運ぶ。どうにかして鞄から鍵を出させ玄関を開けたはいいが、自力では立てないnameを放っておくわけにもいかず「邪魔するぞ」と形だけの断りを入れてベッドに連れていった。
「きくたさん、行かないで」弱い力でスーツの裾を掴まれ、俺は動けなくなる。消え入りそうに小さな声が含む水分に気が付かないふりをする。「起きたらちゃんと風呂に入るんだぞ」浅く振り返ってnameの髪をくしゃりと撫で、俺は部屋を後にした。
その後もnameはめげずに俺にアタックをかけ続け、俺は同じように躱し続けた。こんなことがいつまで続けられるのだろう。

「じゃあ、試しに付き合ってください」

「だめだ」

「なんでですか」

「試しにって、そんな適当なことはできない」

サンドイッチの表面が乾いてパサついていた。外の冷たい空気を一切感じない日差しに俺はネクタイを緩め、すっかり冷めてしまったコーヒーを啜った。

「じゃあ真剣に」

「……お前なぁ」

「彼女も奥さんもいないのにお試しで付き合うのもダメなんですね」

俺をまっすぐに射抜く瞳。まつ毛に黒く縁どられた、アーモンド形の瞳。俺はそれが見開かれたり眇められたりするのを見るのが好きだった。時々少女のようでに無邪気で、時々大人の女のように暗く沈む。それ以外は年相応の輝きを放っている美しい瞳。血色の良い頬も、ちいさな鼻も、ふっくらとした唇も、細い髪。そして、この白くて小さな手。
人形みたいだ、と思った。はじめて会った日、俺から資料を受け取るために伸ばされた手のすべやかさにひどく感動したことを憶えている。まるで同じ人間とは思えない造作をしていて、もっと近くでよく見てみたいとすら思った。
あの日、あの手に触れていたらどうなっていただろう。この四年間、そのことに思い至らなかったことが不思議だった。
そもそも恋とは?恋愛とは?
恋愛の対象として見ていないなどと言い続けたけれど、nameに抱くような気持ちを他の女に持ったことがこの四年間の中であっただろうか。というより、自分の中に他の女の入る余地など無かったのではないか。
これまで言い寄られて付き合い、最終的に振られてばかりの恋愛しかしてこなかった。途中から面倒になりおざなりな関係を持ったこともあったのだから、nameとだってそうすればよかったのではないか?なにより彼女がそれを望んでいるのだから。試しに付き合って、ダメならばさっさと別れればいい。
だが俺は、nameの父親のような、あるいは兄のような立ち位置でいることを選んできた。そうすることを強いた、といってもいいかもしれない。
何故?
その問いは四年間ずっと頭の片隅に追いやって考えないようにしてきたことだった。今だってそうすればいい。これまでと同じように。むくりと首をもたげた疑念を殴りつけて隅に押しやる。よし、これでいい。俺は密かに息をつく。
すると、にわかにnameの手が伸びて俺のネクタイを思い切り引っ張った。桜色の爪が、残像を描くほどの速さで。予想外の展開に「うおっ」と間の抜けた声をあげて前のめりになった俺はされるがまま、テーブル越しに身を乗り出したnameに唇を塞がれた。キスと言うにはあまりにも乱暴で、甘さの欠片もなく、むしろ静かな怒りすら孕んでいた。

「菊田さんがいけないんですよ」

日差しを背負ったnameの表情は翳っている。ネクタイを引く手にさらに力がこもり、下僕が主人を崇めるように俺はnameを見上げる。

「name、落ち着け」

彼女の手首を掴む。簡単に俺の手の中に収まってしまうこの細い手首に、今自分がとらされている体勢ははたから見たら(見なくとも)ひどく滑稽なのだろうなとどこか他人事のように思う。突き刺さる周りの視線を無きものにしようと、自動的に意識が曖昧になっていた。

「恋愛対象になりました?」

「……」

今までに見たことのない表情でnameは俺を見下ろしている。あぁ、こいつはこんな目もするのか。さきほど殴りつけた疑念がどろりと溶けて胸の内側に貼りつきながら滴ってゆく。それはまるで、タールで汚れた肺のようだった。

「恋愛対象になるまでやめませんから」

もう片方の左手が今度はひどくゆっくりと伸びてきて俺の顎髭に触れる。ざり、ざり、と途切れがちに撫でられ、まぶたが震えた。ここはどこで、今はいつなのだろう。さっきまで俺を包んでいた陽の光はnameによって完全に遮られる。全ての気配が遠のき、鼻先が触れそうで触れない距離にいる俺たちの気配だけが濃密だった。

「俺は、」

俺は、お前を。その後をどう続ければいいかわからずに口を閉ざすと、nameの淡く口紅を塗った唇の両端が持ち上がる。

「もう、逃げられませんよ」

菊田さん。
唇を割って歯の隙間から流れ込んでくる自分の名前に眩暈をおぼえる。それと同時に、一番はじめにした己の選択が誤りであったことを思い知るのであった。

「お前、頼もしくなったな」

「もう新人ではないので」

泣きそうな顔で「やっぱり好きです」と言った去年のnameはどこにもいなかった。自分が彼女の何かを変えてしまったのであろうか。ぞくりと背筋に寒気が走る。父親?兄?見守りたい?なんだそれは。
nameの手がネクタイから離れたというのに、俺は彼女を見上げる姿勢のまま動けずにいる。

【ハッピーバースデイ、僕の生まれ変わる日】
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