2020

抽斗がいっぱいになってしまった。
出せない手紙を書き続けてどれだけ経っただろう。伝えたいことは沢山あった。でも文字にしてみると、したためてまで伝えるような内容とはとても思えなかった。折り重なった紙の上で私の言葉たちは行き場を失い、居心地悪そうに縮こまっていた。
捨てることもできず、かといって出すこともできず、溜めに溜めた葉書と封筒はいつしか抽斗の一段を埋め尽くしてしまっていたのだ。
その時に咲いた花を短い文の端に描いたり、いただきもののおやつの感想を書いたり、庭先に来た猫が産んだ子猫の絵を描いたり。菊田さんのいない日々の出来事は、まるで私の描いた下手くそな絵みたいに現実味を欠いている。
私は外した抽斗を両手に抱えて庭先に向かう。ひっくり返して小さな山を築いた日々に火をつける。
燃えるのはあっという間だった。暖をとる間もなくて、ああ、やっぱり出さずに燃やして正解だったと納得した。木枯らしが吹いて火の粉と灰が巻き上がる。見上げれば、鈍色の空からは今にも雪が舞ってきそうだった。
大根をもらったので煮付けにしようと思っていたけれど、とても何かを食べる気にはなれなかった。ぐったりと床に横たわって部屋を眺める。誰もいないみたいだ、と空々しい気持ちになる。菊田さんがいないこの家は、空き家だ。私の身体みたい。心はここにない。菊田さんがそばにいてくれないと、私の心はふわふわとどこかに飛んでいってしまう。
会いたいと願うほど苦しくなった。陽が沈めば彼も無事に一日を終えただろうかと海の向こうに思いを馳せ、日が昇れば彼がその夜の月を見ることができるだろうかと案じた。毎日はそれの繰り返しだった。一心に信じ続けることができない弱い自分を呪い、呪いは自らを浸食していった。
視界の隅で、床の上を何かが舞い転がる。手を伸ばして指先で触れると、それはさっき燃やした手紙の灰だった。音もなく崩れ、指先が煤で汚れる。茜色の夕陽が窓から差し込んで、眩しさに私は目を閉じる。秋の夕暮れは焦げ臭い。

翌年の秋。やはり私は懲りずに手紙を燃やしている。

「読ませてくれないのか」

「たいしたことは書いてないですから」

私を腕の中に収めた菊田さんの声は不満げだった。

「全部送ってくれればよかったのに。どうしてこうもまぁ……。まったくお前は、気にしすぎる性格も行き過ぎると心配になる」

頭上から聞こえてくる溜息。手紙の山を焼くのは何度目だろう。灰と細雪が混ざり合った冬。火の消えきらない端切れと桜の花弁が舞い散った春。蝉しぐれの中、暑さと炎の作り出す陽炎が揺れていた夏。そしてまた秋がきた。
久々に触れた菊田さんの体温は、あっという間に私の呪いをといてくれた。もう思いを伝えるために筆をとる必要もない。目で見たもの、感じたことを私は余すことなく言葉で伝え、彼は飽きることなく耳を傾けてくれた。時々言葉にできない思いが溢れて瞳を使うと、菊田さんは身体でそれに応えてくれた。
耳からではなく、私の中に直接注ぎ込まれる愛のささめごと。耳打ちされるこそばゆさと同じように私の肌を粟立てる吐息。
頭の下に通された腕は枕にするには少し逞しい。眠るのが惜しくて、もう話すこともないのに眠ることができずにいると、今度は菊田さんが話す番になる。
異国で見た名も知らぬ草花のこと、どこまでも青く澄んでいた空のこと、波間を割る船に群れるかもめのこと。どれもこれも血なまぐさい描写は注意深く排除されていた。そのせいか、彼の話はまるでお伽噺のように聞こえる。白い小さな花。子うさぎ。汗をかいた馬。爪の先みたいな銀色の月。途切れがちに掠れた声で口ずさむ軍歌ですら、子守唄に聞こえた。

「さぁ、もう寝るぞ」

おだやかな眼差しを向けられて、私は頷くしかない。本当は、夜が明けるまで彼の横顔を眺めていたいのに。
いつしか眠りについた私を、私がしたかったように菊田さんは眺めている。
眠りの底から私は彼を見る。菊田さんの手が私の額を撫でる。その手つきがあまりにもやさしくて、私は無意識の暗闇で泣いてしまう。目元をそっと拭う指、そして、寄せられた唇は音をたてて離れた。

大根を煮る。葉は細かく刻んで塩で揉み、炊いたご飯に混ぜる。銭湯から帰ってきた菊田さんが私の肩越しに鍋を覗き込む。三食きちんと食べ、眠る。私と菊田さんの住む家で同じ日々を生きる。
またやってくる別離の時まで。
別離。それを思うと暗澹たる気持ちになった。致し方ないこととわかってはいる。言葉を紙に書きつけ燃やす日々。己を呪い黒く深く沈む日々。誰もいない家に転がる屍となって過ごす日々。
菊田さんのいる毎日が日常になればいいのに、と思う。
彼のいる日々は、どれだけ続こうと特別な日の連続に過ぎない。慣れてはいけない。奪われるのはいつだって突然だから。
年越しは酷い雪だった。年明けまで降り続いたせいで初詣にも行けなかった。
夜、私を股ぐらに入れ、菊田さんは火鉢にあたっている。

「雪が落ち着いたら街に買い物でも行くか」

「なにか入用のものがあるんですか?」

「お前こそ、何か欲しいものはないのか?」

訊かれて返答に詰まる。欲しいものなんてなにもなかったからだ。黙り込んでいると、「たまには贅沢言ったっていいんだぞ」と菊田さんに結んである髪を解かれた。

「私の欲しいもの……」

「なんでも言ってみろ」

「菊田さんのいる日常が欲しいです」

「いるじゃないか、ここに」

そう言った後、しばらく黙りこんでいる私を見て何かを察したらしい菊田さんは、火鉢にあてていた手を私の腰に回すと深く息をつく。

「ごめんなさい」

困らせるつもりはなかった。困っている菊田さんを見たくなかった。下がり眉の菊田さんは困った顔をすると、こちらの胸が痛くなるぐらい困り果てているように見える。
彼の職業を理解したうえで一緒になることを選んだ。後悔はない。後悔はないけれど不安ならば掃いて捨てるほどある。そして残念なことに、掃いて捨てられる性分ではないのが私の短所なのだった。
不安の種を自らまいて水をやり、後生大事に花が咲くまで育ててしまう。手紙に描いたできそこないの絵のように、不安の花が揺れている。菊田さんに手紙を書いている間中、花たちのざわめきが胸の中で響いている。それは呪詛に酷似している。私を黒く染めてゆく、呪いの言葉。

「どうしても辛いのなら、他の男を探したっていいんだぞ。お前はまだ若いんだし、器量だっていい。お前を欲しがる男なんてごろごろいるだろう」

そう言いながら、菊田さんは私の身体を抱きしめる。言っていることとしていることが全く逆で、私は胸が潰れそうになる。いっそこのまま骨ごと砕かれてしまいたかった。

「……そんなこと、できるはずないってわかってるじゃないですか。私がどれだけ菊田さんのことを、」

そこまで言った私の身体は菊田さんによって押し倒され、組み敷かれる。

「知ってる」

まっすぐに見下ろす瞳は痛いぐらいに真剣だった。引き結んだ唇が悲哀に満ちていて、私はこんなはずじゃなかったのに、と悲しくなる。
手紙を書いているときの方が幸せだなんて、ふたりでいるときの方がよほど苦しくて切ないなんて、知りたくなかった。
すうっと涙が一筋流れる。
失うことを考えながら愛するという不義理を菊田さんは是認してくれる。そしてなお、そんな私を愛してくれる。どうして彼の元を去ることなどできようか。仮に去ったとして、その後の人生を私は真に生きているといえるのだろうか。
指先が私を慈しむ。口づけに愛される。「これでもまだ足りないか」と何度も囁かれ、私は水になって彼の腕から零れ落ちる。菊田さんは私を掬い上げ、口に含み、飲みほしてしまう。
舌は熱く、肌は濡れていた。髪が乱れ、吐息が絡まる。身体中に咲き乱れる朱い花。私は彼の背中に爪を立てる。筆を取って言葉を書く代わりに、自分の指で愛を爪弾く。どうか、この愛おしい身体が灰になりませんように。

雪がすっかり消えた街を、私と菊田さんは並んで歩いている。新年らしい人出だった。はぐれぬようにと差し出された手をそっと握ると、菊田さんは私の手ごと彼の外套のポケットにしまってしまう。恥ずかしくて私はつま先ばかり見て歩いた。
何かしらのお店に入ったので顔をあげるとそこは文具屋さんだった。なにを買うのだろうと不思議に思っていると、菊田さんは封筒と便箋を手に私を見る。

「どんなことでもいい。今度からは書いたら全部送ってくれ。全部でなくてもいい、だが、できるだけ」

いいな?と念を押してやさしく笑う。そして、

「俺も、もう少し筆まめになるとするか」

と言って、もうひと揃えを取ると代金を支払った。
それから私の着物を一着と、菊田さんは帽子をひとつ買って帰路についた。
私が出せないでいた手紙をしまっていた抽斗に、菊田さんはさっき買った封筒と便箋を入れると私と向かい合う。

「name、こっちに来い」

菊田さんが両腕を広げる。にじり寄り、限りなく距離が近づく。頬を寄せ体重を預けると、身体全体が菊田さんに包まれた。

「俺を見ろ。今、ここにいる俺を。大丈夫だ、消えたりなんかしないから」

ほら、と私の手を取り自分の背中に回す。広い背中。きっとここに今日も私は爪を立てるのだろう。消えない痕になればいい。肉を抉り、骨にまで刻まれればいい。私の言葉たち。肉体が滅んでなお、彼と共に生き続ければいい。
そういえば、葉書と便箋の白は骨の白にどこか似ている。ざらついた手触りも、ひっそりとしたにおいも。
服越しに彼の背骨に指を這わせながら、私はそんなことを思うのだった。

【言葉にも形にもならないわたしたちの全て】
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