2020

晩ごはんを食べようかなと思って冷蔵庫を開けたけれど、酎ハイと豆腐とかさかさになったネギぐらいしか目ぼしいものが入っていなかった。友達が「この前彼氏にポトフとハンバーグとオムライス作ったんだよ」と言っていたのを思い出し、我が家の冷蔵庫の惨状をその彼が見たらなんと思うだろう、などと考えながらずり落ちてきたブラジャーの紐を肩にかけ直す。
なにか買いに行こうかと思ったけれど、今から家を出るのも面倒で、仕方なく豆腐のパックを出してフィルムをめくる。皿に移し替えるのも億劫だったのでスプーンで豆腐の真ん中に穴をあけ、ボトルごと醤油をかけた。
カップラーメンがふたつあったはずなのにどうしたんだっけ、と食べごたえのない豆腐を咀嚼しながら記憶を遡る。ああ、先週宇佐美が遊びに来た時に一緒に食べたんだと思いだす。
半分ほど食べたところで、アパートの扉の外で耳慣れたメロディの下手くそな口笛が響くのが聞こえる。事前に連絡なく彼がここに来ることは珍しくない。私がいなければいないで気にせず帰るのでこっちとしても気が楽だと思う一方、留守にしていた時に彼が来たことを後になって聞かされると、せめてひと言連絡をくれれば部屋にいたのにと思わなくもない。
けれど、そうなってしまうと私はきっと人形のように大人しく部屋で宇佐美を待つだけの生活に身を落としてしまいそうで、私はそれが怖かった。
気まぐれで遊びに来る宇佐美の吹く調子外れな口笛が聞こえるたびに「あ、宇佐美だ」とだけ思う。
あ、カナブン。あ、夕立。宇佐美はそういう、私の力が関与しない場所からやってくるものだと考えるようにしている。だから、彼が来るも来ないも私に知りようがない。まさしく神のみぞ知る、なのだった。
だから彼はいつも予測もしないような驚きを私にもたらしてくれる。玄関に向かう短い間、自分の心が浮足立っているのを認めざるを得ない。
それはもう、彼に囚われているのと同じことなのに。

「海行くぞ」

「うん、行く」

扉を開けてひと言目に告げられる「決定事項」に私は笑顔で頷く。「酒ある?」どかどかと部屋に入ってきた宇佐美は冷蔵庫を開けると私を振り返り、一本だけじゃんとしかめっ面をするので「途中で買っていこう」と私は肩を竦める。机の上の食べかけの豆腐に気が付いて「食生活ヤバいぞ。ちゃんと食べろよ」と至極真っ当なことを言うのでおかしくなって笑ってしまう。宇佐美もひとり暮らしだけれど、「母さんと姉ちゃんから仕込まれた」らしくひと通りの料理ができるので、材料さえあれば時々簡単なものを作ってくれる。といっても彼も相当にちゃらんぽらんなので台所に立つことは滅多にない。前に、自分で作るぐらいなら近所の実家に行って食べる、と納豆ご飯を食べながら言っていた。
食べかけの豆腐を流し込むように食べると、宇佐美は私の手を引く。私はショートパンツとタンクトップといういかにも部屋着ですみたいな服だったので一応着替えようかと思ったけれど、宇佐美は待つ気はさらさらなさそうで、どうせ夜だしまぁいいかと椅子の背にかけたままになっていた薄手のロングカーディガンを掴みサンダルをつっかけて、携帯と鍵だけを手に部屋を後にした。

「後ろ乗れよ」

安アパートのひび割れた階段を降りると宇佐美の自転車が停めてあった。フレームがへこんだカゴが斜めになってついている。私は荷台に乗って宇佐美の腰に腕を回した。
宇佐美がペダルを回すごとに夜が輝きだす。

「ねぇ、もっと速くこいで!」

「足、もげる」

星屑をまき散らしながら私たちは夜の中を疾走する。
お酒を買うために途中で寄ったコンビニの棚の片隅で、見切り品の花火を見つけた。割引シールを貼られ、包装のビニールがくたびれた花火は、夏がもうすっかり終わってしまったことを夜の冷たさよりも雄弁に物語っていた。
だというのに私も宇佐美も真夏みたいな恰好で、肌寒い夜空の下歌なんか歌って海に向かっているのだ。自転車のカゴで酎ハイの缶が音をたてている。私は足を開いて仰け反りながら夜空を見上げる。「落ちるぞ、危ないなぁ」と振り返る宇佐美の、ばたばたとはためく趣味の悪い柄シャツに顔を埋めて笑う。おかしいことなんてなにもないのに、ただ、宇佐美といることが幸せで、楽しくて、これから地獄に行くんだとしても私はきっとこうやって笑っただろう。ニケツで地獄、上等だ。
海についた私たちは自転車を乗り捨て、ついでにサンダルも脱ぎ捨てて裸足になる。「花火かぁ」と半パンのポケットに手を突っ込んでいる宇佐美は、けれど、私が火をつけると途端にはしゃぎだして両手に花火を持って走り出す。色とりどりの光が弾けては消え、煙になって夜に吸い込まれてゆく。
ロケット花火が音を出して飛ぶと、私たちは子どもみたいな歓声をあげた。
最後に線香花火に火をつける。全部一気にやれば、とにやにやする宇佐美にそれではあまりにも情緒がないと言えば、「まぁ、それもそうか」と神妙な面持ちになり、まとめてある帯を丁寧に解いて一本私に手渡してくれる。線香花火を手にすると、どうしてこんなに切ない気持ちになるのだろう。これから火をつける高揚感よりも、これが最後なのだという寂寞にあわれを感じる。
額を突き合わせて線香花火の小さな火花を眺め、弾けるかすかな音にふたりで耳を澄ます。
最後の一本をお互い手に取る。火をつけ、なんとなく自分の花火の先端を宇佐美の花火にくっつけた。ひとつになって、震えながらちかちかと光るオレンジ色。段々と小さくなって弾ける光が頼りなくなってゆく。やがて全てが終わり、私と宇佐美の間には暗闇が横たわる。暗い海の波音を聞きながら、並んで酎ハイを飲んだ。
なんていい気分なんだろう。アルコールのお陰で肌寒さが遠のき私はカーディガンを脱ぐ。剥き出しの肩を撫でる海風。特に話すことはない。同じ時間を共有しているという幸福。流れ星が一筋の線を描いて消えた。両手を後ろについて空を仰いでいる宇佐美も気が付いたのか「あ、」とちいさく声をあげた。
酎ハイを飲みほすと、宇佐美は私の両手を引っ張って立たせる。そして波打ち際に向かって全力で走り出した。やわらかい砂に足を取られながらその後を追う。やがて砂地が濡れて固まったところまで辿り着き、寄せる波が足元を濡らした。
それでも宇佐美は進み続ける。ざばざばと波をかき分ける。ぽっかりと浮かぶ満月から光の道が私たちに向かってまっすぐに伸びている。
宇佐美は月に行こうとしているのだろうか。それならそれでいい。宇佐美なら、私をどこにでも連れて行ってくれる、そう思える。私は宇佐美の手を強く握って、ついてゆく。
臍のあたりまで水に浸かった私と宇佐美は光の道の真ん中で抱き合って笑う。私の背中に宇佐美がのしかかる。私が宇佐美に抱き付く。顔に貼りついた髪なんてそのままに。寒さなんて気にせずに。
宇佐美といると、何だってできる気がした。怖いものなんてなにもないように思えた。
波に揺られ、海水を何度も飲みそうになりながら貪るようにキスをした。絡まり合う波間の海藻のように。あるいはつがいの海鳥のように。自分が人間であることすら忘れてしまいそうなキス。
銀色の光を受ける宇佐美はわずかに首を傾げ、薄く目を開いている。短い髪の先についた水滴がきらめきながら落ちてゆく。伏し目がちに私を見下ろす宇佐美の美しい獣みたいな瞳があまりにも綺麗で、私は胸がいっぱいになる。
好きだとか愛しているだとか、そんなことを言われたことはなくて、ただ、一緒にいるのが当たり前で、この関係にどういう名前が付けられるのかなんてことを考えたこともなかった。周りの友達が楽しそうに話すコイバナはいつだってどれも作り物めいて聞こえた。恋人にどれだけ愛されているか、どれだけ大切にされているかを競うように話す彼女たちに相槌を打ちながら、私は宇佐美に付けられた噛み痕の青痣を服の上からそっと撫でた。
ひとしきりふざけた私たちは進化のために陸に上がった大昔の生物みたいにのそのそした動きで海から出ると、乾いた砂に腰を降ろした。束になった髪の先から滴る水滴。肌に張り付いた服は気持ちが悪く、あまりの寒さに私も宇佐美も歯を鳴らして震えていた。寒い寒いと、それでもゲラゲラと笑い砂の上に転がって抱き合う。
宇佐美とするキスは混ざり合うキスではない。奪ったり、与えたりするのでもない。ましてや未来を約束するわけでもない。
そこに留まるでもなく刹那光り、そして消える。まるで花火あるいは流星群のようにキラキラと輝きだけを放って、私たちのまぶたの裏に薄緑の残像を淡く残す。

「風邪ひきそう」

「菊田さん呼んじゃおっかな」

「こんな時間に?金曜日とはいえさすがにもう寝てるでしょ」

私がそう言うのを無視して宇佐美は携帯電話を手にすると菊田さんに電話をかける。「出ないなぁ」と掛け直すこと6回、「あ、出た」と宇佐美が私を見た。電話口で菊田さんがなにか言っているのが聞こえてくるけれど、宇佐美はそれを一切無視して居る場所を告げ「nameと待ってますねー」と一方的に電話を切った。

「菊田さん、怒ってた?」

「さあ、どうだろ」

本当に興味がなさそうに宇佐美は肩を竦め、くしゃみをひとつした。鼻水を啜る彼に私は濡れていないカーディガンをかけてあげる。nameも入んなよ、と腕をあげた宇佐美にくっついて倒れかかる。宇佐美は私を支えてはくれず、そのままふたりして砂浜に横たわる。硬い胸板に耳を押し当てると、波の音と宇佐美の心臓の音が重なり合って私の中に流れ込む。

「海に入ってたほうがよっぽどあったかいね」

「あ、ヤればあったかくなるかも」

「外ではヤダ」

私は宇佐美に腕を回す。宇佐美は楽しそうに唇を私の額にそっと押しあて舌でぺろりと舐めた。「うわ、砂」顔をしかめて口に入った砂を噛むと、私の顎を掴んで上を向かせ、不愉快な舌触りの砂ごと唾液を飲ませるので今度は私が顔をしかめる番だった。「飲んだ?」と訊くので「飲ませたんでしょ」と右側のほくろを指で押す。
宇佐美は私から目を逸らさずに、手首を掴むと指先をずらして口に含む。「しょっぱい」指先をあたたかい舌が這う。吐息が漏れ、自分の目がもの欲しそうになっているのがわかって私は顔を背ける。宇佐美はそれを追わない。
波音をつんざくようにクラクションが響いた。身体を起こすと少し離れたところに菊田さんの車が止まっているのがぼんやりと見えた。

「お前らなぁ……馬鹿なのか?」

運転席の窓から肘を出し、口に煙草をくわえている菊田さんはこんな時間に呼びつけられたことに対する不満と怒りを口にしようとしたけれど、私たちのなりを見て大きなため息をついた。「もう夏は終わったのに今さら海か。ったく」風邪ひくだろうが、と頭をわしわしかきながらめんどくさそうに車から降りると、灰色のスウェットにサンダルというくたびれた格好の菊田さんは並んで笑顔を浮かべている私たちについた砂をぞんざいな手つきで払ってくれる。

「ほら、さっさと乗れ。宇佐美、お前今度メシ奢れよ」

私達を後部座席に押し込みながら言う菊田さんに宇佐美は、

「年下にたかるんですか?大人げないですよ」

と悪びれもせず言うので菊田さんは「置いてってもいいんだぞ」と舌打ちをして荒っぽくドアを閉めた。
車が走り出した途端眠たくなってきて、私は宇佐美の手を握る。宇佐美の手はすっかり冷えてしまっていて、でもその向こう側でいつもの子供みたいな熱がこちらの様子を窺っている。油断するとすぐにのみ込まれてしまいそうになる熱。でも今はそれがひどく心地よくて、波に崩されて少しずつ削れてゆく砂山のようにゆっくりと私は意識を手放してゆく。
眠りに落ちる間際、ルームミラー越しにふっと笑った菊田さんと目が合った。彼はなにを笑ったのだろう。
手を繋ぎ、互いの体重を預け合った私と宇佐美は静かな寝息をたてる。眠りの中の暗闇で、重なったふたつの線香花火がいつまでもいつまでも細い火花を散らしていた。

【純粋培養】
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