2020

あれ、お前も今帰りなの。と声がしたので振り向けば、この時間に見かけることは滅多にない宇佐美が立っていた。

「もう帰るの?いつももっと遅いのにどうしたの?」

「最近残業ばっかりだから鶴見さんに早く帰れって言われた」

「よかったじゃん」

「いいわけないだろ!鶴見さんを残して僕が先に帰るなんてこと、あっていいわけない!」

「うんうんそうだねー」

鶴見さん対する宇佐美の愛情が常軌を逸しているのは今にはじまったことではないので、適当に流す。宇佐美もこれといって気にしておらず「腹減ったなぁ。どうせ暇だろ、寿司食いに行こう」と言って地下鉄の駅には降りずに通りを曲がる。
チェーン店の寿司屋の自動ドアをくぐってカウンター席に宇佐美と並ぶ。はいお茶、と湯のみを差し出すと宇佐美は慎重にふうふうと息を吹きかける。口の動きに合わせてほくろが動くのをじっと見ていると、「ここ、この前菊田さんに連れて来てもらったんだけど、どうせなら回らない寿司にしてくれたらよかったのに」なんて連れて行ってもらった分際でとんでもないことを言い出す。

「菊田さんっておいしいお店色々知ってるよね」

と返すと、宇佐美は短い間のあと興味がなさそうに視線をレーンの上の寿司に向けた。
菊田さんはこの前まで宇佐美が所属していた部署の先輩で、生意気な口をきいてくるにもかかわらず宇佐美の仕事ぶりを評価してくれていた。なんだかんだで目をかけてもらっていたくせにこの言い様なのだから恐ろしい。
そもそも論として、基本的に宇佐美は鶴見さん以外の上司に興味がないのだけれど。
しゃこ、海老と続けて食べた宇佐美は次に炙り海老マヨネーズをとり、それから海老天を頼んだ。

「脚が生えたやつばっかり食べてるけど魚は?」

「鶴見さん、海老とかしゃこが好きなんだって。この前、回らない寿司屋に連れてってもらった時に教えてもらった」

「……へぇ。私はヒラメと鯵が好きだな」

「それでさ、その時鶴見さんが僕になんて言ったと思う?きみは私の一番の部下だって。きみみたいにやる気のある部下はそうそういないぞって。あぁー思い出しただけで頭が沸騰しちゃうよ」

私の寿司の好みにはこれっぽっちも興味を持たず、天井を仰いでひとり昇天している宇佐美の頬はピンク色になっていた。わたしは流れてきた穴子を取ってむぐむぐと食べる。

「好きだよねー、鶴見さんのこと」

「うん、好き。絶対前世でも繋がってたと思う。あぁ、僕は前世で鶴見さんとどんな関係だったんだろう……」

宇佐美は目を閉じて前世とやらに思いを馳せている。飼い犬とご主人様かなんかじゃないの、とお茶を啜りながら言えば「それはそれでいい」なんて鼻の穴を大きくして頷いているから救いようがない。
同じ大学の同級生で、なおかつ会社の同期である私と宇佐美が鶴見さんと出会ったのは就職活動中、会社説明会でのことだった。なんとなく参加してみようと思って同じゼミだった宇佐美をなんとなく誘い、とにかくすべてがなんとなくだったにも関わらず、「今日はお忙しい中……」と前に立って話し始めた鶴見さんのいったい何にそこまで惹かれたのか、やる気ゼロだった宇佐美の背筋がいつの間にかしゃっきりと伸び、目を皿のようにして真っ直ぐ前を見つめて鶴見さんの言葉に聴き入っていた。
確かに話すのが上手で、時々織り込まれる持論やユーモアのおかげで長い説明にもかかわらず最後まで飽きずに聞くことができたし、その会社を魅力的にも感じた。説明会が終わるやいなや宇佐美は私の手からメモ帳をふんだくると脱兎のごとく鶴見さんの元へ駆けてゆき、前のめりになりながら矢継ぎ早に質問をし始める。筆記用具もろくに持ってこなかったのになにその熱意……と離れた場所でふたりが話すのを眺めていた。ようやくして戻ってきた宇佐美は今まで見たこともないような目の輝きで「ぼく、この会社に入る」と力強く頷きながら言うので、私はその勢いに押されてなにも言えなかった。
せっかくだから自分も受けてみるかと面接に行ったら私も宇佐美もトントン拍子に選考が進み、ありがたくも採用された私たちは入社して今年で5年目を迎える。

「宇佐美が抜けた穴、今度私が入るかもって」

「ふぅん」

「わからないことあったら教えてね」

「いいけど」

甘海老のしっぽをつまみ、中の身をチュルンと吸って宇佐美は請け合った。とはいえ彼も念願かなって鶴見さんが中心となっている案件のメンバーに抜擢されているので、そうそう頼りにするわけにもいかない。
自分にとって仕事は仕事でしかないので、彼みたいに一心に追いたいと思える背中があることが羨ましい。鶴見さんと話している時の宇佐美は本当に楽しそうで、嬉しそうで、まるで少年みたいに真っ直ぐな目をしている。鶴見さんの下で仕事をすることを夢見ていた宇佐美としては、さぞかしやりがいがある仕事となることだろう。

「鶴見さん、今なにをしているだろうか」

「仕事でしょ」

「早く会いたいなぁ」

「心配しなくても明日の朝には会えるよ」

「あとまだ十時間以上もあるじゃないかッ!」

箸をへし折りそうな勢いで言うからたまらない。

「私にキレられても困るよ。ほんと好きね、鶴見さん」

「うん」

ふと、これまでずっと彼に言おうか言わまいか迷っていたことを口にしてみようかな、なんて気になって私は口を開く。

「私も宇佐美のこと好き」

二皿目のシャコを飲み込んで宇佐美が私を見る。「なにそれ、ありえないから」とか「ふざけてんだろ」とか、てっきりそういう言葉が返ってくると思っていたのに宇佐美はなにも言わない。顔をそらしたら負けだと思って私は意地になって宇佐美の目を見つめ続けた。
すると、ふっと近づいてきた唇が自分の唇と重なる。回転寿司のカウンター席で宇佐美と初めてしたキスは生臭い味がした。

「え、なに……」

「は?なにって、好きなんだろ?」

口元を抑えると、宇佐美は「お前、なに言ってんの?」と怪訝そうに眉を顰めて席を立つ。会計を済ませて私の手を引く宇佐美。夜の始まりを告げる足元の空気をかき分けて、私は必死に彼の後をついてゆく。
そうして、私たちはラブホテルのベッドで抱き合っていた。まるで動物の皮でも剥ぐような手つきで宇佐美は私の服と下着を手際良く脱がせると、ぽいっと鞄を投げ捨てるみたいに私をベッドに放った。
ちょっと、と止めようとする手に本気で制止する意思が込められていないのは明らかで、だから宇佐美もやめようとはしなかった。
部屋の薄暗い照明が曖昧な影を壁に描く。宇佐美はほとんど無表情で私を抱いた。
さっきまでお寿司を食べていたはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうと喘ぎながら考える。いや、私は心のどこかで彼がそうするんじゃないかと思っていたのかもしれない。
宇佐美が私としたいから、ではなく、私が宇佐美を好きだからという理由でセックスをしてしまう彼のぶっ飛んだ思考が昔から好きだった。倫理観だとか、常識だとか、誰かの決めた枠なんか意にも介さない宇佐美のどこまでも真っ直ぐ突き進んでいく強さに、私はずっと魅せられている。
ぐたぐだと迷う癖のある私が立ち止まって濁った溜息をついていると、宇佐美はいつもほんの僅かに天秤の皿が傾いている方を指差して、至極真っ当で論理的な理由を示してくれた。ははぁなるほど、と彼の決断の早さに感嘆する私に、「迷うようなこと、なにもないと思うけど」と理解できないものを見る目を向ける。そして彼の判断はいつだって正しかった。
私の友達は「宇佐美って時々ヤバくない?」なんて言ったりするけれど、私にとってはそのヤバさこそが宇佐美の最大の魅力なのだった。
自分の上で動く宇佐美を見上げると視線がぶつかった。言いたいことはあるけれど、今それを口にしてどうなるだろう。鶴見さんに向ける熱のこもったのとまったく違う、どこか冷めた眼差しで私を見下ろしている宇佐美の頬に触れる。心を重ねあうというよりもむしろ、肌を重ねあうことを目的としたセックスにいっそ興奮した。
目を閉じてシーツを握りしめると、自分の中で宇佐美が果てるのがわかった。目蓋に熱い吐息が降る。
ゆっくりと目を開けると、宇佐美はふいっと視線をそらし、私の髪をしゃくしゃとかき回した。

「同情で抱いたの?」

「ハァ?」

コンドームをしかめっ面で外している宇佐美の背中に声をかければ素頓狂な返事が返された。口を縛ったそれを目線の高さに掲げてなにかを検分しごみ箱に投げ捨てると、宇佐美はベッドに仰向けに倒れ、組んだ手に頭を乗せて私を見る。

「好きだから抱いたに決まってるだろ。前から思ってたけど、nameってつくづく馬鹿だよね」

「……」

好きだから抱いたと私に言ったのは、本当に目の前にいる男なのだろうか。宇佐美の口から出たその言葉に信憑性は微塵も感じられない。にもかかわらず、彼が間違ったことを言う訳がないと、その言葉を素直に受け入れている自分もいた。
でも、それにしたってそんな素振り今まで一度も見せたことなかったじゃないか。

「宇佐美が好きなのは鶴見さんじゃないの?」

混乱しておかしな質問を投げかけた私を宇佐美が睨む。好きだから抱いたと言った直後に、相手に対してこんなに凶悪な目を向けられる人間は宇佐美の他にいないと思う。

「なんでお前が鶴見さんと同じ土俵に立てるんだよ。住む世界が違う人間が争えるわけないって、普通に考えればわかると思うけど?!」

「そこまで言わなくても……一応同じ人間なんだから……」

「同じなわけあるか!」

えぇ……と困惑しているとベッドに戻ってきた宇佐美にかぶっていた布団を引っペがされた。殺される、と身構えた私の顎を掴んで上を向かせると、宇佐美は「わかんないだろーな」と目を細めた。「わかんないよ」私は目を伏せて呟く。

「わからせてなんかやらない。nameはなんにもわからないままでいればいい」

口元のほくろの位置が高くなり、唇を割って赤い舌が覗く。宇佐美の目は完全に蛙を飲み込もうとしている蛇のそれと同じだった。私は動けないまま食べられるのを静かに待つばかり。
でもそれではあまりにも癪なので、ふたつのほくろを両手の人差し指でぷにっと突く。アタタタタ、とふざけて何度も人差し指を動かすけれど微動だにしないので手を止めれば、手首を掴んでひとまとめにされ頭上に挙げられる。

「ねぇ、痛いよ」

「だから?」

「や、やめて」

「やめない」

きっぱりと言い放ち、顔を近づけて宇佐美は続ける。

「お前が僕のことを好きなら、もう手加減しないから」

目を開いたままにっこりと笑った宇佐美の笑顔はひどく綺麗で、凶悪だった。

【かつて赤い糸を結んだ小指のゆくえ】
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