2020

夕暮れの帰り道、ふと甘い香りが鼻先を掠める。あたりを見回せばブロック塀の向こう側から金木犀が頭を覗かせていた。立ち止まって眺めている俺の頭上をスズメの群れが騒々しく囀りながら飛んでゆく。
あれからもう一年が経とうとしているのか。
あれから、といっても、何か特別なことがあったわけではない。ただ、同じ場所で去年もnameとこの金木犀を見ていた。付き合いだして、一年が経とうとしていた頃だった。
「金木犀の香りって、なんだか寂しく思えてしまうんです。夕方だと特に。嫌いというわけじゃなくて、むしろ好きな匂いなのに」そう言ってnameはすんすんと鼻を鳴らした。「秋っていう季節がヒトを感傷的にさせてるだけだろ」早くなる日没、時折吹く肌寒い風、散ってゆく木々の葉。挙げればきりがない。
西の空で今にも沈もうとしている夕陽に頬を染め、nameはでも、と口を開く。「でも、尾形さんと一緒なら寂しくありません」nameがやわらかな笑みを俺に向ける。ひときわ強い光を放ちながら太陽は姿を消し、残照のなか俺たちは並んで同じ部屋へと帰った。
それだけのこと。
けれど、あの時のnameの笑顔をひどく美しいと思ったことや、繋いだ手のぬくもりを金木犀の甘い香りとともに今でもはっきりと覚えている。
毎日の些細な出来事のどれもが自分にとっては大切なのだということに気が付いたのは、nameと付き合いだしてからだった。それまで自分は日々なにを思い、考え、目にして生きてきたのだろう。nameと出会う以前の記憶は酷く断片的であるのに対して、彼女が自分の人生に現れてからの日々はどれも鮮明に、ひと続きの記憶の綾となって思いだすことができるのだった。
不思議なものだな、と、つい口元が緩む。
彼女に出会って見える世界が変わった、と二年前に結婚した谷垣が言っていたのを内心小馬鹿にして聞いていた自分が、まさか、それと全く同じことを思う時がくるなんて。
nameとの生活を紡いで織りなした時間はあたたかな毛布のように俺を包む。記憶の編み目に指を這わせ頬を寄せると、幸福な陽だまりの香りに胸が満たされるのだ。
けれど、nameはどうなのだろう。
過去の一時のきらめきが胸をよぎる瞬間、ふたりの日々を慈しみ、手のひらの中で大切に閉じ込めているのは自分だけなのではないかという疑念にいつも苛まれる。
とるに足らない記憶として、nameの指の隙間からさらさらと零れ落ちてゆく思い出の粒子。どれだけ零れ落とそうとnameに非があるわけではない。万人が当たり前のものとして見過ごし、記憶に留めようとすらしない些末な、出来事とも呼べないような日常をなにもかも覚えておく方がどうにかしているのだ。自分はどうにかしている、面倒で重たい男なのだ。全ては秘して己だけの宝とすればいい。なにも逐一告げてわざわざ鬱陶しがられる真似などする必要がない。
そう何度も自分に言い聞かせた。nameが隣で笑っていればそれでいい。零れ落ちたきらめきは追憶として自分ですくい集めればいい。彼女の分まで自分が覚えていれば十分だ。
けれど、もし。
願わずにはいられない。nameもまた自分と同じように、自分との時間を余すことなく刻んでいてくれたなら。
刻まれた記憶で傷だらけの自分とnameを想う。誓いのキスのように厳かにつけられる傷に痛みはない。とろりと溢れて肌を濡らすものの正体が愛であると、教えてくれたのはnameだった。

視線を落とすと、ブロック塀の足元に点々と金木犀の花が散っていた。
アパートの部屋に戻って電気をつける。この頃仕事が忙しいらしく、nameは昨日も21時過ぎに帰宅した。「遅くなってごめんなさい、ご飯先に食べてよかったんですよ」大急ぎで着替えを済ませたnameはテーブルに並んだ晩飯を見て歓声をあげた。「尾形さんは盛り付けも上手です」手放しに褒められ、俺はなんと言っていいかわからず頭をかいた。いただきます!と手を合わせるが早いか箸を伸ばすと俺の作った野菜炒めを頬張ってしみじみと味わっていた。
今日はなにを作ろうかと冷蔵庫を開ける。カレーにするか、と人参とジャガイモ、玉ねぎを取り出して皮を剥いていると、玄関が開く音がした。手を拭いて出迎えに出た俺に、息を弾ませたnameが「尾形さん!」と頬を赤くして詰め寄ってくる。

「どうした、落着け」

「すぐそこの角の金木犀、咲いてましたよ!すっごくいいにおいでした。尾形さんは気が付きましたか?」

「……ああ」

「去年も尾形さんと一緒ににおいを嗅いだなぁと思って。なんだかすぐに尾形さんに会いたくなって、走って帰ってきちゃいました」

言ってから恥ずかしくなったのか、nameは髪をいじっている。
俺はなにも言わず、否、言えず、nameを抱きしめた。彼女の本質を自分の中に取り込んで、思考も記憶も俺の一部になればいいと思った。腕に力を籠めると困惑したようにnameは俺の背を撫でる。「尾形さん?大丈夫ですか?」胸板に顔が押し付けられているせいで声はくぐもって、まるで自分の内側から聞こえてくるようだった。
nameがそのことを憶えていてくれた。自分だけではなかったのだ。それだけの事実がどれほど俺を幸福にしただろう。nameの何気ない言動が俺を肯定し、俺の心を包み込む。小さな身体を包んでいるのは俺の方だというのに。
あたたかな息吹が春をもたらすように、胸の内で冷たく凍りついていた場所を融かしてゆく。
これまでずっと、どこでなにをしていても正体のない寒さに付きまとわれていた。だが、いつからだろう、その寒さを感じなくなっていたのは。胸の中に吹く風は、nameの体温と同じ温度をしている。

「今日は、カレーだ」

「私もやりますね」

手、洗ってきます。と言ったnameから離れることができなくてしばらくの間そのままでいる。一瞬、鼻を埋めているnameの髪からほのかに金木犀の甘い香りが立ち昇ったような気がして顔をあげると、不思議そうな顔をしているnameが「どうしましたか」と頬に触れた。nameの指先が冷たくて、抱き締める腕をほどいて手の平で包んでやる。すっぽりと収まってしまう小さな手。

「先に風呂に入るか」

隠された意図を察し、恥ずかしそうに目を逸らしたnameの手を引く。願わくば、物語の終わりまで俺がこの手を引けるようにと祈りながら。

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