2020

静岡の親戚からみかんがたくさん届いた。箱を開けるとふわっと甘さと酸っぱさの混じった爽やかな香りが鼻先をかすめ、思わず笑顔になってしまう。
父の仕事について静岡から北海道に来た私は、信頼できる人間が欲しいという父の知人のたっての希望でこの病院で数年前から働いていた。北海道の寒さには未だまったく慣れることができなくて、毎年みかんが送られてくるたびに故郷の冬を思い出しては懐かしく思うのだった。
ひとりではとても食べきれない量が送られてくるので、患者さんに配ってまわるために新聞紙でいくつか箱を折って四つずつ入れてゆく。
二階の、いちばん奥の部屋には二階堂さんがいる。モルヒネを盗み出しては上官の月島さんや先生に怒られていて、私も先生から彼のことを気をつけてみているようにと言われていた。
ドアの前に立っても中から音が聞こえてこないので来客はないらしい。「二階堂さん、入りますね」と声をかけても返事がないのはいつものこと。ドアを開けると二階堂さんは身体を起こして宙を見ていた。
食事をほとんど取らないのでここに来た時にくらべてすっかり痩せてしまった。こけた頬が痛々しい。

「右手の痛みはどうですか?」

訊ねても答えない。私が入ってきたことにも気付いていないのかもしれない。

「親戚からみかんをもらったんです。二階堂さんもよろしければどうぞ」

そう言って新聞紙で作った箱を彼の前に差し出すと、乾いた唇が「あ、」と開いた。

「みかんだ!」

右手を伸ばし、手首から先がないことを思いだして左手を布団から出し直す。

「お好きですか?」

「洋平、みかんだよ、一緒に食べよう」

私ではなく、口元にある片方の耳に向かって嬉しそうに話している二階堂さんの傍らに腰掛けて、私はみかんの皮をむく。甘酸っぱい香りがふわりと広がり私たちを包んだ。
二階堂さんはじっと私の手元を見ている。房に割って差し出すと、二階堂さんはあっという間にひとつ分を食べてしまった。「おいしいね、洋平」目を細めた彼は「もういっこむいて」と左手をこちらに向けた。
結局二階堂さんは四つもみかんを食べ、そして眠ってしまった。布団をきちんとかけ直していると月島さんが入ってきた。

「みかん、こいつが食べたのか?」

「はい。四つも召し上がったんです。こんなにお好きだったなんて知りませんでした」

「……二階堂はな、静岡の出なんだ」

みかんの皮を片付けている私に月島さんは教えてくれた。だからか、と合点がいく。同郷であるということで少し親近感が湧くと同時に、どこか疲れたような寝顔に胸が痛くなる。
あとを月島さんに任せ私は仕事に戻った。
日が暮れ、街に静けさが満ちる。今日は橙色の満月がひどく綺麗な夜だった。寒さに震えながら見回りをし、最後に残ったのは二階堂さんの部屋だった。寝ているのを起こさないよう注意を払いドアを開けて中を覗きこむ。扉を開けた瞬間にありえないほど冷たい空気が私を包んでぞわりと鳥肌が立つ。
何事かと思って部屋に入ると、そこには開け放たれた窓際に佇んでいる彼の姿があった。まさか、と慌てて駆け寄って腕をとる。

「二階堂さん!」

名前を呼べば、夜の冷気と同じぐらい冷たい目で彼は私を見た。束の間、怯んでしまう。でも、手を離すことはしなかった。「身体が冷えてしまいます。ベッドに入りましょう」腕を引くけれど、大きな身体はびくともしない。もしも彼がこのまま飛び降りてしまったら、私も一緒に引きずられてしまうかもしれない。嫌な予感を打ち消すように大きく息を吸って、なにが起きてもいいように足を踏ん張った。

「昼間のみかん、どこのやつだ」

予想外の質問に拍子抜けした私は「えっ」と声を上げてしまう。

「静岡のみかんですよ。親戚が毎年おくってくれるんです」

そう言うと、二階堂さんはゆっくりとまばたきをして視線を月に戻す。

「今日のお月さま、みかんみたいですね。そういえば二階堂さんも静岡ご出身だったんですか?お昼に月島さんからお聞きしました」

「……北海道の寒さは嫌いだ」

「ふふ、私もです。だからもうベッドに戻りますよ」

窓を閉めて二階堂さんの左手を引くと、今度はすんなりついてくる。もそもそとベッドに入った彼は「右手が痛い」と呟いた。「冷たい風にあたったからかもしれませんね」布団の上に乗せられた右手を包むようにしてさすると、二階堂さんは静かに目を閉じる。

「あったかい」

「明日もみかん、持ってきます」

「ああ、」

頼む。と、かすれた声で言う二階堂さんの唇はかさかさで、今にもぱっくりと切れてしまいそうだった。どんな些細な傷でも、これ以上彼が血を流すようなことがなければいいのにと悲しくなる。
みかんみたいな月を見たことも、明日になったら忘れているのだろうか。忘れないでいてくれるといい、と思う。今日見た月が綺麗だったことも、故郷の冬も。

「冬の静岡で、洋平と、また、」

もうこの世にはいない双子の片割れの名前を呼ぶ二階堂さん。眠気なのか、はたまた意識が虚ろなのか、うわ言のように途切れがちの言葉がこぼれ落ちては夜に呑み込まれて消えてゆく。

「おやすみなさい」

やはり裂けてしまった唇に薄くにじむ赤い血に指で触れる。みかんの汁がしみなければいいけれど。色の白い、肉の削げた頬にたっぷりと黒い影が落ちていた。穏やかな寝息が聞こえてきても、私は彼の手をさすることをやめられないでいる。

【ぼくは手を繋いでいたのに】
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