2020

水族館に行きませんかとnameに誘われた時、正直言ってのり気ではなかった。
その場での返答は保留にしておいて、その日の夜にあった飲み会の席で隣の席の有古にぽろりと「俺のようなオッサンを水族館に連れて行ってどうしようっていうんだよ、なぁ」と言ったが最後、左隣りに座っていた宇佐美に根掘り葉掘り聞き出され、「そんなものは行かなければ男がすたる」とまで言われる始末。
挙句、「じゃあ今から約束取り付けちゃいましょーよ」とテーブルに置いてあった携帯電話を奪われる。ロック画面の解除を拒めば、心配そうに成り行きを見守っていた有古の制止を振り切った宇佐美に携帯電話を泡の消えたビールの残るジョッキに沈めると脅されたため、しぶしぶ俺は画面を開く。

「誘ってくれてありがとネ☆彡デート、俺も楽しみにしてるヨ(^O^)v……っと、これでいいんじゃないですか」

「おい遊んでんじゃねぇよ。その文面ヤメろ、洒落にならん」

画面を覗き込んでゲラゲラと笑っている宇佐美と二階堂兄弟の後頭部を引っ叩くと、俺は自分の携帯電話を取り返して打ち込まれた文章を大急ぎで消す。

「つーか、そもそもデートなのか?あいつは俺をデートに誘ってるのか?」

ため息をつきながら煽った冷酒はすっかりぬるくなっていた。

「えっ逆にデートじゃなきゃなんなんですか」

と声を揃えた二階堂兄弟が顔を見合わせてプスプスと笑っている。他人事だと思って好き勝手言いやがる。逆にってなんだよ逆にって。

「nameに誘われといてその場でオッケーしないとか、菊田さん本当に男なんですか?ついてますか?てゆーか僕と代わってくださいよ」

ぶつぶつ言いながら憎しみを込めてきゅうりの一本漬けを俺の口に突っ込んでくる宇佐美の手を払いのければ、勢い余ってきゅうりは有古の口に突き刺さる。「これ、美味しいですね」とおとなしくきゅうりを食んでいる有古だけが味方に思えるのだった。

「でも、俺が見るに、nameは菊田さんに好意があるように思えます」

きゅうりをのみ込んだ有古が至極真面目そうな顔をして言い放った言葉に俺は少なからず動揺し、宇佐美はあからさまな舌打ちをし、二階堂兄弟は何かをヒソヒソ耳打ちしあう。

「せっかくですし、行ってみてはどうですか?」

「菊田さん行かないんなら僕が行きますから」

「なんだ水族館か?私もこの前月島と行ったぞ。なぁ月島」

「はい」

「……野郎と水族館は勘弁だな」

飲み過ぎたわけでもないのにかすかに頭痛がしてこめかみを抑える俺に、「鶴見部長がチケットをくださったのだ!」と鯉登はふんぞり返ってみせた。しかし、チケットの出どころや野郎ふたりで水族館に行った感想など気にする者がいるはずもなく、各々運ばれてきた枝豆をせっせと口に運ぶのだった。
結局その場で宇佐美の監視を受けながら約束を取り付け、翌週の土曜14時に待ち合わせをして水族館に行く運びとなった。

なんとなく落ち着かず、早めに家を出て適当に車を流したがそれでも待ち合わせの時間よりもずっと早く水族館についてしまった俺は、駐車場に止めた車の中からフロントガラスの向こうを歩いているカップルや親子連れをぼんやりと眺めていた。
なんだってnameは俺なんかを。
確か十歳以上年下だった気がする。普段仕事をする中でnameの年齢など気にしていないが、こういったこととなれば別だ。髪を上げている時の細いうなじにかかる後れ毛や、コーヒーカップを差し出す時の小さな手が脳裏をよぎった。
nameが「菊田さん」と、語尾を上げて俺を呼ぶその言い方が好きだった。
首を左右に傾けたり、むぅんと下唇を突き出しても気持ちは切り替わらず、仕方がないので煙草をゆっくりと吸った。こんなに短くなるまで煙草を吸ったことなどあっただろうか。灰皿に吸い殻をねじ込み、待ち合わせの時間まではまだ二十分ほどあったがチケット売り場に向かうことにした。

「あっ菊田さん、早かったですね!」

「お前こそ」

「私からお誘いしたのにお待たせしてしまったら悪いので、少し早めに来ちゃいました」

本当は、どきどきして早く着きすぎちゃったんです。小さな声でそう付け足したnameはやわらかく唇を結んではにかんだ。
これは、なんだ。期待していいのか。わからん、わからんぞ。
「俺もだ」と笑顔を向ければ、恥ずかしそうに「行きましょっか」と歩き出す。
女とどこかに出かけるなんていつぶりか。前の女と別れてもう何年になるだろう。自分の隣をnameが歩いている光景をどこか他人事のよう思いつつ、青い揺らめきの中にきらめいているnameの背中の小ささに、ふと、忘れかけていた熱が腹の奥にともるのを感じた。
天井まである巨大な水槽では何頭かのイルカが泳いでいる。水面が揺れるのに合わせて、頭上から幾筋もの帯状の陽光が暗い床を白く染め抜いている。
水槽から少し離れてイルカを見上げているnameが「菊田さん、」と肩越しに俺を見たその時、彼女の身体が淡い光に包まれる。
並んで立つと、一頭のイルカが寄ってきて泡を吐いた。水面にのぼってゆく細かな泡をnameの視線が辿っている。長いまつ毛を揺らしもせず水槽の中の景色に見入っているnameの横顔は、思わず手を伸ばして触れたくなってしまう美しさがあった。
無論思うだけで、触れることはしない。

ひとつひとつ、水槽の前で感想を述べては後ろに立つ俺を振り返るname。しかし俺は、彼女が前屈みになるたびに窓ガラスに映る緩んだ胸元の向こうにある暗がりや、スカートの裾が持ち上がってあらわれる白い太腿の裏側に意識を持っていかれ魚など見る余裕もなく、そして、nameの普段は秘されている部分をまわりの人間に見せまいとポジション取りに必死になるせいで、「かわいいですね」とか「見てください、ここ!」とか言われたところで返せるものは生返事だけなのであった。
最後にイルカのショーを見た。
ショーの冒頭にプールの背に設置された巨大なパネルに観客の顔が順に映し出される。頼むやめてくれという必死の願いも虚しく、俺たちの顔がでかでかと映る。「菊田さん、菊田さん、私たち映ってますよ!」とはしゃぎながらどこかにあるであろうカメラに向かって手を振るname。
さっきまでげんなりしていたくせに、楽しそうなnameを見るとまぁいいか、などと簡単にころりと意見を変えてしまう自分に苦笑する。見慣れているはずの顔だというのに、パネルに映る照れたような困ったような顔をしている自分が他人のようでおかしかった。
イルカたちの技に始終感嘆の声を漏らすnameを見ている方がこちらとしてはよほど面白く、彼女が自分を誘った思惑について勘繰ることを束の間忘れ、俺は自分でも気が付かないうちにこの状況を心から楽しんでいた。
出口に向かう途中の階段で、不意にnameの身体ががくりと揺れる。咄嗟に支えると彼女はこちらを見上げて眉を下げた。

「すみません。急に足の力が抜けちゃいました」

ヒールを指差すので、あぁ、と合点がいった。

「歩き疲れたか?どこかで休むか」

と口にしてからハッと気が付く。下心があるように響いていまいか、と。
いやいやそういう休むではなく、いやらしい意味での休憩ではなく、ここから駐車場まではまだしばらく距離があるから水族館に併設されたカフェかどこかで少し足を休めてから車に戻る、という意味での休憩だったのだ。ということをいかに不審がられず説明しようかと背中に変な汗をかいている俺をよそに、nameが「あ、水族館の横あるカフェ、店内に大きな水槽があってお魚を見ながらお茶ができるんですよ。前に雑誌で見たことがあって、行ってみたいなと思っていたんですけどどうでしょう?」と屈託なく言うので俺は安堵の息を漏らさぬように「いいね、行こうか」と肯いた。
もっと、女のにおいをプンプンさせたようなアグレッシブな女だったり、あるいは、こなれた素振りでさりげなく身体に触れてくるようなタイプの女だったらここまで気を使うこともしなかっただろう。水族館を入って十分後には暗がりで戯れのようなキスを交わしたかもしれないし、なんならイルカのショーなんぞ見ずにさっさと近くにあるホテルにしけこんでいたかもしれない。
だが、nameとなると話は別だ。
自分よりもずっと年下で、誰にでも嫌味のない笑顔で接し、かといって馴れ馴れしさはまったくなく、むしろ宇佐美などにわざとらしいアプローチをされればどこかいじましさや恥じらいのあるはにかんだ表情を浮かべて困惑するような、そんな純真が服を着て歩いているような女なのだ。
ということをいつだったか酒の席で酔った勢いで月島に零したらアイツは「そういう女ほど怖いんですよ」とショットグラスを片手に虚ろな目をしていた。過去の彼に何があったのか。それ以上詮索するのが憚られ、俺も残り少なくなったウォッカをちびちびと舐めた。
目の前で山のような生クリームの乗ったカフェモカを飲んでいるnameも、実は月島の言うような「怖い女」なのだろうか。それなりに恋愛はしてきたが、nameのようなタイプの女とは接点がなかったためさっぱりわからない。年が離れていればなおのこと。
羊の皮をかぶった狼なのか、それとも本物の仔羊なのか。狼というならnameではなく自分ではないか。けれど現状ではnameを前にした俺の方が羊みたいなものではないか。食べられるのか?俺は羊のふりをした狼に食べられてしまうのか?この俺が?待て、待て、だからnameは狼などでは……。
またしても堂々巡りに陥っていると、nameが不安そうな目でこちらを見ていた。

「疲れちゃいましたか?それか、あの、あまり楽しくなかったですか?すみません、一方的に水族館に行こうなんてお誘いしてしまって……」

「いや、そうじゃない。ただ……」

俺の言葉の続きを身を乗り出さんとして待っているnameの切実そうな瞳を目にして、それでも月島は彼女を「怖い女」などと言えるだろうか。俺には無理だ。nameは狼などではない。羊だ。なんならうまれて二日目ぐらいの仔羊だ。
そしてなにより他の誰でもない自分自身が、nameにはそうであって欲しくないと願っていた。裏表だとか、計算高いとか、狡猾さを感じさせる言葉はnameには似合わない。
だからこそ、どうして彼女が俺なんかを……。
大体誘うなら宇佐美や鯉登のような歳の近い野郎だろう。年上好きという線も考慮できるが、nameが公の場で好みのタイプについて言及していた記憶はなく、なんなら場が恋愛話に及んでも口をつぐんで周りの話に耳を傾けていたことしか覚えていない。その時のnameのあたたかそうに染まった頬を思い出し、はからずとも不埒な思いが心を覆う。
好きか嫌いかと問われれば、好きだ、そりゃあ好きだ。
だがしかし、軽々しく歳の離れた女に手を出すには、いささか年齢を重ねすぎた気がする。面倒だとか、ひとりでいる気楽さに慣れてしまったとかいうのではない。nameの純粋さと、負わねばならない責任の大きさに怖気づいているのだ。
彼女の白くきめ細かな肌に、自分などが触れていいとは思えない。
これまで、恋愛において自分を「自分など」と過小評価することなんてなかったのに、と黒く渦を巻くコーヒーに映る自分の顔を見ながら心の中で唸る。望まれれば百本の赤い薔薇の花束を贈ることさえ厭わない自分が、なぜこれほどまでに頭を悩ませているのか。女を悦ばせる術など知り尽くしていたはずなのに。

「ただ、俺なんかと一緒でお前が楽しかったのかな、と」

できるだけ言葉が重みを持たないよう、ひゅっと眉を上げてみる。nameは一瞬怪訝そうな顔つきになる。その反応にしまった、と後悔しつつ彼女が口を開こうとするのを遮って「この前、鯉登と月島もここに来たらしい。男ふたりで水族館なんて、俺には想像できないよ」と笑いながら言うと、nameは「鯉登さんと月島さん、仲良しですもんね」と口元に手をあてて笑いを漏らした。
しばらく会社の話が続き、先ほどの問いに対する彼女の答えは聞かずじまいだったがそれでよかった。聞いて何になるというのか。例え期待外れだったとしても、nameは楽しかったと言うに決まっている。

店を出るとだいぶ日が傾いていて、海風は少し寒いぐらいだった。寒さに首を竦めたnameの肩を抱き寄せることができたらよかったのに、と思う。
触れそうで触れない手のもどかしい距離。彼女の歩調に合わせて歩くと、見える景色が普段とは違う気がした。
電車で帰ると言い張るnameだったが、さすがにそれはさせられない。「もう暗くなるし、疲れてるだろう。送るぐらいはさせてくれよ」と、懇願する形で強引さを誤魔化し車に連れてゆく。
カーナビに住所を入れ、アクセルを踏む。意識の三分の二が左側に注がれているので、残りを総動員して安全運転に努めた。小さな音で流れるFMラジオを聞くともなく聞きながら、夕日に染まる街を走る。

「あの、菊田さん」

ひととおり水族館の感想を述べ終わったnameが俺を見るので、ちらりとnameに視線を向け「なんだ?」とだけ言う。

「さっきのことなんですけど、」

「さっきのこと、とは?」

思案するふりをしたが意味など無いことは明白だ。
このあとnameが口にするであろう言葉の予想はつく。自惚れではない。言われもしないうちから俺は断る算段をたてている。否、逃げる算段を。

「今日、とっても楽しかったです」

「俺もだよ。誘ってもらって感謝してる」

「……それと」

小さく息を吸う音がする。なにを言われようともほだされないよう身構え、俺はハンドルを握る手に力をこめる。

「さっき菊田さんは俺なんかって言いましたけど、私が楽しかったのは……菊田さんと一緒だったからです」

ぐらぐらと身体が揺れている錯覚に見舞われる。腹の奥で燻っていた熱が火の粉をあげたので大急ぎで鎮火に努める。

「それはありがたいな。まぁでも、他のやつ、たとえば宇佐美なんかと行っても楽しいんじゃないのか。あいつ、今日来たがってたぞ。お前だって年が近い方が話も合うだろう?」

できるだけ、やんわりと、けれど拒絶の意思が伝わるように。本心など隠してしまえばいい。無性に煙草が吸いたかった。はきだす煙で全てを曖昧にしてしまいたい。
俺がnameを幸せにしてやれるはずがない。
だから、これ以上近づくことはできない。
信号が黄色になりゆるやかにブレーキを踏む。

「菊田さん!」

大声で名前を呼ばれ、驚いて肩を揺らした俺が見たものは、いまだかつて目にしたことのないnameの怒った顔だった。

「ど、どうした?」

「菊田さんじゃなきゃ、だめです」

勢いに押され言葉を発せずにいると、今度は、絞り出すような声で「だめなんです」と言う。みるみる下がってゆくnameの眉。
狼の爪でもない、仔羊の蹄でもない、nameの細い五本の指が俺の腕を掴む。こちらから近づかなければ近づかれない、こちらから触れなければ触れられない、そう思っていたのに。

「そんなのは、錯覚だ」

「そんなことありません。錯覚なんかじゃありません」

「だったら年上の男に憧れてるだけだ。俺はきっとnameが思うような年上の男じゃあない」

大きな交差点のせいで中々信号が青にならない。早くこの話を打ち切りたいが、どうすればいいのか皆目見当もつかない。外はすっかり夜の闇に溶けている。

「年齢なんて関係ないです。私は、菊田さんが好きなんです。菊田さんだから、好きなんです」

右折車のヘッドライトが車内を照らし出す。nameの目が、きらりと光る。まるで彼女の目が光源であるかのように。
羊のやわらかな毛に包まれながら狼の爪を喉元に押し当てられている気分だ。月島、女は怖いな。nameだって例外じゃない。身ひとつで躊躇いもなく相手の懐に飛び込んでゆく勇気など、俺は持ち合わせちゃいねえんだ。正攻法すぎて防ぐ術など有りもしない。白旗を持っていたら振りたい気分だった。
及び腰だった自分がnameのとの間に築いてきた壁は、繰り返された「好き」の言葉に見事なまでに粉砕され、これまで臆していたこと全てが馬鹿馬鹿しくなる。

「後悔するかもしれないぞ?」

長く息を吐く。信号が青に変わる。車が走り出す。

「後悔なんてしません」

迷いのない声に、俺は腹の底から笑ってしまう。茶化したわけでも馬鹿にしたわけでもない。清々しさから出た笑いだった。なにがおかしいんですか、と唇を尖らせるnameに「すまん」と謝る。

「でもきっと、後悔すると思うぜ。俺は俺のやり方でしか愛せないからな」

などと言ったはいいが、どうしても左側を見ることはできなかった。nameはどんな顔をしていただろう。落とした視線が白い膝をとらえる。暗がりの中でそれはひどく生々しい。
そうだ、後悔するのは俺の方なのだろう。
巨大な水槽の中に放り込まれる自分を想像する。沈んでゆく俺のまわりを、nameが髪を揺らしながら泳いでいる。吐きだされる泡のすべては愛の言葉。肌を撫で、肌の表面に付着し、やがて弾ける。弾けて消える瞬間のくすぐったさに俺は目を細める。水面で不規則に揺れる光。ノイズのような水中の音。自在に動くnameの滑らかな肢体。

「菊田さん、好きです」

告白は気泡をまとい、あわあわと夜の闇に溶けてゆく。


【アルディラ、君は世界の全てを手に入れられる】


「おい、おい、オイオイ宇佐美よ、なんだこりゃぁ」月曜に出社した俺は送られてきたメッセージを見て立ち上がる。名前を呼ばれた宇佐美はデスクの椅子でひっくり返るようにして俺を見ていた。「俺も洋平と浩平としてきたんですよねぇ、デ エ ト!」ニヤリと宇佐美が目を細めると、二階堂兄弟が姿を見せた。俺が携帯電話を片手にしているのを見て事態を察したのかふたりは無言で席につく。「俺達も映ってたのに」「気付かなかったんですか?」広げた新聞を仲良くふたりで覗き込む二階堂兄弟が新聞紙の向こうから目から上だけを出して言うので「知るかよ!」と乱暴に携帯電話をデスクに置く。
はずみで切ったはずの画面がついた。「菊田さん、楽しそうじゃないですか」と隣の席の有古がひょいと覗き込んで言う。そこには、イルカショーのパネルに映った俺とnameの笑顔が煌々と表示されているのであった。
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