2020

(すごく捏造、やりたい放題)


その瞬間を見た人は私が絶対に死んだと思ったと言っていたらしい。いいお天気の日で、私は先週買ってもらったばかりの小さな仔犬を連れて鼻唄を歌いながら脳天気に道を歩いていた。わぁーあの雲豆大福みたいだなぁなんてよだれを垂らしながら。
そうしたら突然ものすごい衝撃が脳みそを揺さぶって、いやにゆっくり見える景色は遊園地のコーヒーカップを腕がちぎれるぐらい回したみたいにぐるぐる回っていた。身体が吹き飛ばされそうなスリルと高揚感、そして味わったことのない浮遊感に自分のおかれた状況も理解せずわぁっと声を上げる。
地面ではギュルギュルと回りながら吹っ飛んでいく飼い主を困惑の表情で見上げるポメ(ポメラニアンだからポメと名付けられた)のつぶらな瞳がキラキラと光っていた。ポメー!と手を振ろうとして、そして私は地面に叩きつけられ、そのままの勢いで転がった。
痛ぁーい!!と叫ぼうとしたけれど声は出ず、変なうめき声をあげていると頭上からぬっとあらわれた影に「前ぐらい見て歩け」と言い放たれた。理不尽!!確かにぼんやり歩いていたけれど、こんな仕打ちを受けていいはずがない!!
なんとか顔を持ちあげると、声の持ち主の足元でポメが心配そうに私を覗き込んでいた。その何者かにわしゃわしゃと頭を撫でられながら。
ひとしきりポメを撫でると何者かはどこかに行ってしまった。それと入れ替わるようにして「お嬢ちゃん大丈夫かい?」などと心配する声が私を囲む。こんな姿を晒しているのが恥ずかしくてえへへと曖昧な笑顔を浮かべていた私の意識はそこで唐突に途切れた。
という出来事(5歳の少年の乗った暴走自転車に同じく5歳の私がふっ飛ばされた)が起こったのがかれこれ12年前。何を隠そう私と鯉登の出会いなのだった。笑いたかったら笑えばいいと思う。
鯉登が地元の大地主、かつこの地方ではそれなりに名の知れた企業の息子であるが故に彼の蛮行は金に物をいわせ揉み消され続け、例外なくこの件も無かったことにされた。というか、私の両親がそうした。かすり傷だけで済んだのは不幸中の幸いだった。理不尽!!と思わなくもなかったけれど、幼い私はそれよりも、お詫びの印として鯉登家から送られてくる明らかにうちで普段出されるものとは素材も包装も異なる高級な洋菓子がひと月ほどおやつの時間に出されることのほうが嬉しかった。実に単純である。
程なくして私立の小学校に入学した(というよりさせられた)私はまたしてもふっ飛ばされた。今度も鯉登の乗る自転車に。

「なんだ、今日は犬はいないのか」

謝罪もなくこれである。

「いないよ!学校の帰りだからね!っていうか、こういう場合はまずごめんなさいって言うんだよ?!」

「パンツ見えてたぞ」

あり得ない。と口をあんぐりした私はさらにありえない発言を耳にする。

「変なものを見せられた謝罪としてお前の犬に会わせろ」

案内しろと言って私の帰り道を顎でしゃくる。断ったところでどうせついて来るのは火を見るよりも明らかだったので私は無言で歩き出す。膝からは血がだらだら流れていて、痛いというよりもその生ぬるさが気持ちが悪かった。
あんまり関わらないほうがいいと両親に言われていた。だったらどうして彼が確実に入学するこの私立小学校に私を入れたのか。
カラカラと車輪の回る音がむなしく響くなか家についた私を出迎えた母親は私の血だらけの右足を見て悲鳴をあげ、それから私の背後にいる鯉登を見ると今しがたあげたのなんて比じゃないぐらいの絶叫を一瞬漏らし、慌てて口元を抑えて「いらっしゃい」と変な笑顔を浮かべた。鯉登は適当な挨拶(というか発声)をしただけで、意識は完全に母の足元でこちらの様子を伺っているポメに注がれていた。
母は私に応急処置を施すと、娘を病院に連れて行くよりも鯉登を歓待する準備をいそいそとはじめる。「お母さん、全然血ィ止まらないよ?」と滲んできた膝の血を指差すも母の返答は「そのうち止まるわよ」である。
私の部屋にて出されたクッキーをひと口噛った鯉登はやわらかい眉間にきゅっと皺を寄せて96パーセントが残っているクッキーを皿に戻した。

「そんなに犬が好きなら買ってもらえばいいじゃない」

真剣にポメを撫でている鯉登に言うと、彼は肩を竦めた。

「父上に動物は飼うなと言われている」

「ふぅん。お金持ちだから高そうなペットを買ってるのかと思ってた」

てか父上ってなんかすごいね、と鯉登の残したクッキーを食べながら家柄というものは本当に存在するんだなと、横暴ながらもどこか気品のある鯉登の横顔を眺める。

「思い込みほど愚かなことはない」

小学校一年生からぬ口調で鯉登は言うと、ポメを膝の上に載せた。上品な半ズボンから覗いている膝小僧の、少し下に青痣があるのが見えた。

「それ、どーしたの」

指差して訊くと「剣道の稽古で」と答えた。なんとか流というらしい。そういえばこの男、態度は悪いけれど姿勢は良い。根性も叩きなおしてもらえばいいのにと思っていると、鯉登はそろそろ帰ると腰を上げた。
次の日学校で私の教室に鯉登がきたせいで(鯉登の教室は私の隣だ)ふんわりとできあがっていた友達の輪が一瞬にして粉砕された。鯉登の家柄と、良く言えばわんぱくさはこの学校に来ている者なら誰もが知っている。うちの親のように口酸っぱく関わるな、とか、目をつけられるな、と言われているのだ。友人となるはずだった数人の女子と、その他のクラスメイトから明らかに異質な者を見る目を向けられて私は戸惑い、この先の身の振り方を思うと齢7歳にして絶望せざるを得なかった。
そして、しんと静まり返った教室に響いた「今日もお前の家に行くからな」という彼の一言で教室の静寂は完全なものとなった。
腫れ物を扱うような、いるけれどいないような扱いを受けること六年、無論親しい友人なんてできるわけもなく、振り返れば悲しいかないちばん同じ時を過ごしたのは元凶である鯉登本人という不本意な結果に終わったのだった。
中学生になったから心機一転などという希望は、この学校がほとんど皆大学まで内部進学をするシステムであるため早々に潰え、ならば外部から入学した新顔とお近付きになろうと試みたものの、何故か噂は尾がつきヒレがつき、小針棒大いいように広まった風聞のせいで近づいても逃げられるという惨敗っぷり。
そして現在、私達は高校生最後の年を送っていた。

「鯉登のせいで友達ができない!」

今に始まったことじゃないけど!と読んでいた雑誌で鯉登の背中をぶっ叩いても無反応なのは、最近知り合った鶴見さんとかいう男の人の著書を彼が熱心に読んでいた、と思いきや本のカバーの折り返しに載っている鶴見さんの写真をうっとりと眺めていたからだった。「なにか言ったか?」と呆けたことを言うので同じことを耳元で大声で叫ぶと、鯉登は「ハァ?」とバカを見る目で私を見る。

「私がいるからいいだろう」

頭のてっぺんから血の気が引いていく音が聞こえた。

「な……なに言っちゃってんの……?」

「だから、お前には私がいるからいいだろう」

友人などいらんだろうが。と私を見もせずに鶴見さんの写真に向かって言うものだから、大概にしろと憤慨して私は本を取り上げる。
この頃所々いつにも増しておかしな言動をするようになったのは絶対に、この本の著書である鶴見さんのせいだと思う。なにを吹きこまれたのか。知りたいようで知りたくない。

「よくないよっ!」

声を張り上げると、鯉登は私よりさらに大きな声、声というか奇声(お得意のキエェェェ)を発して両手足をムササビのように広げ飛びかかってきた。普通女子に飛びかるかな?飛びかからないよね。鯉登が普通かそうでないかはこの際置いておきたいけれどそうもいかない。置くに置かれぬ。普通じゃないんだ、こいつは。
ほっぺたを手のひらで押され、本を手にした私の右手首は掴まれ、バランスを崩してソファから転げ落ちる。しこたま肩とお尻を床にぶつけて涙目になる。

「馬鹿、鯉登バカ!バカ鯉登!私の青春返せ!!」

唯一自由な足で遮二無二蹴るとぐんにゃりした感触がつま先を包み、鯉登はさっきまでの勢いが嘘みたいに股を抑えて超音波みたいな音を出しながら悶絶する。好機とばかりに私は窓に駆け寄って開けると、【著 鶴見篤四郎 ー 部下に愛される上司になる7ヶ条 ー】を窓の外に放り投げるモーションを取る。坂の下まで転がり落ちろ!と振りかぶったけれど、鯉登の心酔っぷりからして本を追いかけ窓から飛びかねないという懸念が浮かんで躊躇していると、ゾンビと見間違う動きで鯉登が床を這ってくるので私はヒィと声をあげる。

「では聞くが、出会った時に戻れるとして、お前は私の申し出を断り、これまでを無かったことにしたいのか?」

顔だけを上げた鯉登に問われて私は返答に窮する。したい!と正面から言ってやりたいのに、どうしてだろう、言葉が出てこない。

「そういう、わけじゃ……」

振り上げた右手から本がすり抜け、バサリと音を立てて床に落ちた。開け放たれた窓から吹き込む秋の風がパラパラとページをめくる(三章 ー甘い嘘ー という見出しが開かれる)。鯉登は床をとてつもない速さでこちらに向って這い、落ちた本を胸に抱くと涙の滲んだ目で

「私にもお前がいる」

などと言うものだから、私は何も考えられなくなって頭を垂れた。それを肯定と勘違いしたのか鯉登が「ふふ」と顔に似合わないかわいい声で笑うので、なんだかすべてがどうでもよくなってしまうなぁなんて思いながら、それでもやっぱり腹立たしいので鯉登から本を毟り取ると窓の外、坂道の下に向って全力でぶん投げた。さっき急所を蹴りあげられたとは思えない身のこなしで、案の定鯉登は窓枠に足をかけ空を舞った。無論キエェェッという近所迷惑極まりない絶叫とともに。
膝を抱え、太ももと腹の間に本を挟んだ格好でくるくる回りながら坂を転がり落ちていく鯉登の姿を見送って私は彼のベットに仰向けになった。
失われた十数年を取り戻せるとして、友人を得たとして、代わりに鯉登を失うことについてしばらく考える。でも、そんなのはあり得ない仮定の話であって、私の人生のほとんどは鯉登と一緒だったのだ。もし、なんて、考える余地もないほどに。
悔しい!!!部屋に立て掛けてある彼の竹刀で枕を叩きつけながら奥歯を噛みしめるけれど、最後に出てきたのは笑い声だった。

「あっは、なにその格好」

「お前が、鶴見さんの本を、投げるから、だろう、」

肩で息をしながら戻ってきた鯉登の、ボサボサに乱れた髪と所々破れた服があまりにも彼に似つかわしくなくて、さっきまで戻ってきたら竹刀で一発お見舞いしてやると息巻いていた勢いも消え、私は涙が出るほど笑うのだった。
乱れた髪をさらに掻き回し、ひとしきり笑って顔を上げると、後生大切そうに抱えている本の表紙の鶴見さんとやらが勝ち誇ったように私を見ていたので無性に腹が立ち竹刀を振りかぶって下ろすけれど、いとも容易く鯉登に掴まれてしまうのだった。
視線が交わる。
見たこともない真剣な表情をした鯉登が目の前にいた。掴んだ竹刀を振り払うことなんて容易いだろうに、彼は微動だにしない。むしろそうしたいのは私の方、だ。

「は、はなしてよ……」

言えば逆に引き寄せられて、咄嗟に私は竹刀から手をはなして後ろに飛び退いた。

「name、」

じり、と離れた分の距離を鯉登が詰める。息をするのも忘れて、すぐそこにある鯉登の、思っていたよりも整っている顔から目が逸らせない。
子供の頃から一緒にいたのに、こんなふうにちゃんと彼の顔を見たことだとか、彼の顔面の造作について考えを巡らせるだとかの労力を割いたことがほとんど無かったことに気が付く。ただもう、そこにあるものとしか認識していなかったけれど、そういえばこいつ、巷ではモテている、らしい。鯉登のくせに!
昔は横暴とか無愛想とか傲慢とかボンボンとかなんとか言われて忌避されていたのに、いつしか「ワイルドだけど知的でクール、しかもお金持ち」と女子からは好意的な声があがっているのは嫌でも耳にする。
私なんか……私なんか……モテるどころか友達すらっ!と唇をかみしめていると音を立てて竹刀が床に転がった。
沈黙。さっき私の名前を呼んだっきり鯉登はなにも言わない。いっつも無駄に口数多いくせに、なんなの。これもあの鶴見とかいう人に感化されたせい?

「こ、鯉登?ねぇ、さっきからおかしいよ?ていうか、最近おかしいよ?」

雰囲気にのまれないよう、私は鯉登の両肩を掴んで揺さぶる。正気に!戻れ!たとえハナから正気でないとしても!!
脳味噌がシェイクになるだろうが!!と怒鳴られるかと思っていたけれど、無言で揺さぶられるままになっていた鯉登はやがて静かに、私がしているのと同じように私の肩に両手を置く。あ、ヤバい。目が据わってる。
この状況が示す意味が理解できないほどわたしは馬鹿ではない。ただ、受け入れたくなかった。
だって、鯉登は私の人生を滅茶苦茶にした。鯉登さえいなかったら私は今ごろ友達と楽しく買い物に行ったり、合コンに行ってあわよくば彼氏なんかできちゃったりして……なんて。

「もし、なんて考える必要なんてない。認めて受け入れろ」

彼の言葉に私はゴクリと唾を飲む。なんで。私の考えてること、知ってるの。そして、受け入れろとか、何様。そもそもあんたのお目当ては私じゃなくてポメだったでしょ。ポメは死んじゃったんだからもう私に用なんてないでしょ。
ポメは去年、鯉登の誕生日の翌日に旅立った。「私の誕生日を祝おうとしてくれたんだな」と私よりも鯉登の方がひどい泣き方をしていて、飼い主である私が何故か鯉登を慰めるハメになった。
ポメがいなくなって以来、これまでは私の家に来ることのほうが多かった鯉登だったけれど、何かにつけて私を自邸に呼び出すことが増えた。
私の両親は彼と私との交友関係にもはや口を挟むことはしなくなっていた。息子が世話になっているからと毎年豪勢な御中元と御歳暮が届くからである。我が親ながらなんという現金な人間なのか。もちろん、鯉登のご両親は私にとてもよくしてくれる。さっき自分の両親を現金な人間などと言ったけれど、鯉登家で出されるお菓子はすこぶる美味しく、見た目からして高級感ただようお菓子の数々に幼い私は胸をときめかせ、それは現在まで続いているのだった。
でも、それだけだ。私はおいしいお菓子を目当てに、鯉登はポメを目当てに。でももうポメはいない。だけど鯉登は私の家に遊びに来る。じゃあ私は?たとえ鯉登の家でお菓子を出されずとも鯉登の家に遊びにいくだろう。出されなかった場合、お菓子の催促はするけれど。
だから、つまり。
息がかかるぐらい近くに鯉登の顔があって、その顔があんまりにも綺麗で、きっと肩を掴まれていなくても私は動けなかっただろう。
なんか、もう、どーでもいいか。全部いまさらじゃないか。と身体の力を抜いて、でも顔だけは変に力が入ってしまう。ゆっくりと目を閉じる。

「音之進ー、いるかー?鶴見さんがいらしたぞー」

のんびりと間延びした彼の兄である平之丞さん声が扉の向こうから聞こえてきた。

「キエェェ!!!!」

「キエェェじゃないんだよっ!!」

叫びながら両手をあげて仰け反った鯉登に私はキレた。いい加減にしろ!!さっさと鶴見さんのところに行ってもう二度と私のところにくるんじゃないよ!破れた服のまま、さっきまで私に触れていた手で愛読書を抱いて鯉登は光の速さで部屋を出て行った。
部屋に残された私の姿に気が付いた平之丞さんは「nameちゃん来てたんだね、邪魔しちゃってごめん」と申し訳無さそうに眉を下げる。

「いえ、お構いなく」

「音之進のこと、よろしくね。あいつ、本当にnameちゃんのこと好きみたいだから」

私が返事をするより前に、平之丞さんはやさしい笑顔を向けると「じゃあ」と片手を上げて部屋を後にした。
ひとり残された鯉登の部屋で、私はぽかんと口を開けて突っ立っていた。平之丞さんの言った言葉の意味を考えるにはこの部屋はあまりにも鯉登のにおいが強すぎる。思考が彼の色に染められる。こんな時ポメがいてくれたらな、なんてぼんやり思いながら、鯉登のやわらかな黒髪の感触がまだ指に残っていることにようやく気が付くのだった。

【ナンセンスを独り占め】
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