2020

砂浜でnameは、丈の長いワンピースの裾が濡れるのも構わず波打ち際を歩いている。俯きがちな顔を時折上げて、なにかを探すような眼差しで水平線に目を凝らす。そんな彼女のことを、少し離れた場所から俺は眺めていた。

別荘を買ったからお前もたまには彼女と遠出でもするといい。と言って半ば強引に夏の休暇の行き先を決めたのは旧知の友人エルヴィンだった。昔なじみと興した会社はほどなくして成功をおさめ、かの有名な高級リゾート地に福利厚生という名目で別荘を購入したらしい。皮製品を扱う小さな工房をひとりでやっている俺の作品がそこそこ世間で知られるようになったのも、ひとえにエルヴィンの取り立てあってのことだった。
nameによろしく、と言いながら俺の手に鍵を握らせたエルヴィンが店を後にするのを見送り、俺は鍵を目の前に掲げて鳴らしてみる。「別荘たって、どこかも言わずに行くやつがいるかよ」溜息が思わず漏れ、珈琲をいれるために俺は奥へと引っ込んだ。

nameとの出会いも、きっかけはエルヴィンだった。「パーティーがあるからお前も来るといい。ひとりで引きこもってばかりだと腐ってしまうぞ」人当たりのいい笑顔(それは時々胡散臭く俺の目に映る)を浮かべたエルヴィンにあからさまに拒否の表情を浮かべた俺を、あいつは「パーティーといっても身内だけの食事会のようなものだ。タダ飯が食えると思って来ればいい」と勝手なことを言って片目を閉じてみせた。
行く直前まで乗り気ではなかった俺は、やはりやめておこうと直前になって断りの電話を入れようとした。その時店の扉が開く音がして顔を出せば、ひとりの女が立っていた。「申し訳ない、今日はもう終わりです」店内を見回している女に声をかければ、彼女は俺をまっすぐに見ると「エルヴィンからあなたを迎えに行くよう頼まれました」と言うのだった。

「あー……迎えに来てもらったのにすまないが、今晩はやはりやめておこうと連絡しようとしていたところなんだ」

「そうだったんですね。えっと、あの、実は私もあまり乗り気ではなくて……。エルヴィンはきっと私もあなたも及び腰なことがわかってたんですね。だから私をあなたのお迎えに寄越したんだと思います」

本当に、勝手ですよね。と、眉を下げて困ったように笑い、短い自己紹介をした。
nameはエルヴィンと共に働くリヴァイの部下の友人とのことだった。彼女の会社もまたエルヴィンの会社と繋がりがあるらしく、たびたび食事会に呼ばれているらしい。「会社といっても私個人でやっているだけなんですけどね。だから人脈はなるべく多い方がいいと思いつつ……でも、賑やかな中にいるのって時々とても疲れてしまって」と肩を小さく竦めるname。

「だから、無理に来いとはとてもじゃないですけど言えないです、私」

「……」

「エルヴィンには適当に理由をつけて言っておきますから。じゃあ、失礼します」

なんと言おうか考えているうちにnameは話を纏め、ぺこりと頭を下げた。
扉に手をかけたところで「あ、」と声をあげ振り返る。

「お店、素敵ですね。もしご迷惑でなければ、今度はお客さんとしてお邪魔させてください」

ふんわりと笑みを浮かべたnameの腕を、俺は知らぬ間に掴んでいた。俺の手元と顔を交互に見たnameが言葉を発するよりも先に「やはり、行くことにする」と告げる。なんとなく、このまま彼女をひとりで行かせてはいけないように感じた。
食事会の間中、俺とnameは店のカウンターの端に座って静かに酒を飲んでいた。取り立てて話が弾んだというわけではなかったが、ほんのりと酔いながらぽつぽつ交わす会話は心地が良く、会話の間に流れる空白を無理に埋める努力をせずに済んだのは、彼女もまた自分と同様にこういった賑やかな場所が不得手であるというカミングアウトを受けたが故の同族的親近感を覚えていたからかもしれない。
成り行きで連絡先を交換し、彼女は言葉通り後日店に客としてやって来た。逐一感嘆の声をあげたり褒めたりするものだから、俺はこそばゆいような、むずがゆいような、照れともつかない落ち着かなさに始終スンスンと鼻を鳴らしていた。
南国の果物のような甘やかなにおいを店の中に残し、nameは帰っていった。いつもと、これまでと変わらない光景であるはずなにどこか寂しく、彼女がまた来てくれるといいと密かに願った。

「ミケ、聞いたよ」

「何をだ?」

nameが店に姿を見せるようになってしばらくしたある日、仕事でやって来たナナバが作業用のテーブルに浅く腰掛け目を細めて言った。

「name、いい子でしょ」

「……さてはエルヴィンだな」

眉間に皺を寄せた俺を見てナナバは笑った。

「まあまあ。エルヴィンもきみのこと心配してるんだよ。いい年して女っ気のひとつもないって」

「いつも隣にいる女が違うようなあいつにだけは言われたくないな」

いつも長続きしない、と別段悩んでいる風でもなくよく漏らしているエルヴィンの酔った目元はなるほど確かに女が好きになりそうな雰囲気を湛えているのだった。好きになりそうな、というか、騙されそう、というか……。
皺ひとつないスーツをセンス良く着こなし、曇りなく磨き上げられた車に乗り、忙しい身でありながらそんな片鱗は露とも見せない。女がひきも切らないわけだ。しかしあいつの場合は長所がそのまま短所となるのでひとりの女と長く続かないのだろう。つまり、完璧すぎる。
大抵女の方から言い寄るが、愛想をつかすのも女の方で、エルヴィンもそれを引き留めるようなことをしないのが、これまた別れ話の際火に油を注ぐことになるのだ。時々、俺には想像もつかないような話を聞かされるが、さっぱりとした笑顔でそれを語るので、ただただ呆れるしかないのだった。
しばらくの間エルヴィンの近況を語ったナナバは、「いいなぁ私も恋がしたいよ」と大きく伸びをして腕時計に目をやる。

「nameとなにか進展あったら教えてね」

「お前、楽しんでるだろ」

そう言った俺にナナバはぺろりと舌を出すと、「じゃあ書類は確かに預かったから、また近いうちに」と手を振るのだった。
再び静寂が訪れ、俺はその中で深く息を吸い、吐く。ナナバのつけている香水は、きりっと引き締まった香りがする。残り香に包まれても、nameが帰った時のような寂しさを感じないのはやはり恋なのだろうかとぼんやり思う。しかし「恋」という言葉の響きに、声に出さずとも頭に浮かんだだけでも気恥ずかしさを覚えて俺は慌てて首を振る。
浮ついた感情であることに違いはないのだろうが、彼女に抱く感情は静かに寄せては引き、やがて満ちてゆく海の白波に似ていた。身体を作り上げる組成と同じ海。だからしっくりと馴染む。
付き合ってほしいと言ったのは俺の方だった。はにかんで肯いたnameの顔を、俺は一生忘れないと思う。それほどに、愛おしかった。

読みかけの本を尻ポケットに入れて持ってきていたが、なんとなく、波打ち際を歩くnameから目が離せない。点々と頼りない足跡は細かく泡立つ不規則な波に打ち消され、まるで彼女の足取りなんてもとよりなかったかのような更地にしてしまう。青と白の爽やかなストライプ模様の籠椅子に浅く腰掛け、はるか先まで続く砂浜をあてもなく行くnameの背中を見失うまいと、知らぬ間に息を詰めている自分がいた。少しでも目を逸らしてしまうと、そのちいさな背中がふっと煙のように消えてしまいそうな気がしたのだ。
だいぶ離れた場所でnameが振り返り俺に手を振る。振り返せば、nameは「こっちに来て」とゼスチュアをするので腰をあげた。
砂に足が沈み、素足が砂にまみれる。俺が近くまでやってくると、nameはまた歩きだす。足の甲まで海水に浸し、後ろに手を組んで歩いていたnameは俺に手を伸ばす。すぐ隣に立つと、ひやりと冷たい波が泡立ちながら俺の足を濡らした。

「こっちの方って中々くる機会がないからエルヴィンに感謝しなくちゃ」

「そうだな。たまには足をのばすのも悪くない」

「来ようと思えば来られる距離なのに、どうして足が遠のいてしまうんだろう。あのね、自分でもよくわからないけど、海にはいつも憧れみたいな気持ちがあるの。焦がれるっていうほどではないんだけど」

強い風に乱れた髪を耳にかけながら小さく笑ってnameが「不思議」と呟く。
なんとなく、彼女の言っていることはわかる気がする。内陸に住んでいる俺たちからすると、海はそう身近なものではない。行こうと思えば行ける距離ではあるものの、中々足を運ぶ機会もなく、休暇も郊外の湖やその周りを囲む森で過ごすことの方がよほど多い。時間的余裕と思いきりがない限り海に行くことは滅多になかった。
が、理由は距離的な問題だけではない。深くそれについて考えたことは無かった。ただなんとなく、海よりも内陸地の方が性にあっている。それだけだと思っていた。
海を、丸い地平線を見ると、胸がざわつくのだ。
焦がれるほどではないとnameは言った。確かにそうだ。焦がれるほどではない。しかし、この景色を見たかったのだと、身体のずっと奥にある暗闇の中でもうひとりの自分が呟く声が聞こえるのだ。目の前にあるどこまでも広がる青い海に、畏怖しているのだろうか。そうとも取れる。潮の香りと、波間を抜けて髪を揺らす風と、乱反射する太陽の光を身体中に受け、眼前の雄大な自然に満足しながらも身体の中心がごっそりと抜け落ちてしまうような虚無。
水平線に視線を向けると、身体にぽっかりと空いた空洞を海風が通り抜けてゆく気がした。

「私ね、ずっとミケと海を見たいと思ってた」

「……」

俺もだ。と言おうとして不意に胸がいっぱいになり言葉に詰まる。胸に開いた大きな穴に海が満ちてゆく。身体の内側で響く潮騒。溢れた水が目からこぼれそうになる。舐めたら潮の味がする水は涙なのか、それとも。
繋いだ手に力をこめる。足元を大きな犬が通り抜けて行き、nameは俺にしがみ付く。それを追いかけてゆく飼い主であろう父親とその娘。
nameの隣に立っていると、時折ありふれた光景が驚くほど美しく目に映ることがある。彼女のいない人生を、これまでどう過ごしていたのだろうと不思議に思うぐらいに。自分が見ていた景色はどれだけ精彩を欠いていたのだろう。温度ですら1、2度低かったのではないかと思えるほどだった。nameは日溜りだ。俺だけの日溜り。
風に吹かれたnameのスカートの裾が俺のふくらはぎをくすぐる。もどかしい距離にたまらなくなって俺はnameに唇を重ねる。驚いて目を見開いたnameはキスをしたまま声を出さずに笑い、ゆっくりと身体の力を抜く。背中に受けた日差しと腕の中にいるnameのぬくもりは、幸福そのものだった。
別荘は言うまでもなく立派で、俺とnameはその広さと豪華な設えに何度も顔を見合わせては笑い合った。ふたりでシャワーを浴びて愛し合い、少し眠ってから夕食をとりに外へ出る。昼間とは違い少しシックな設えのワンピースを身に付けたnameの耳元で、誕生日のプレゼントとして俺が贈ったレザーのイヤリングが揺れていた。
夜、ふと目が覚めると隣にnameの姿がなかった。起き上がるとベッドの脇にある窓辺にnameが立って外を見ている。昼間よりも気温が下がって肌寒いにもかかわらず、下着に薄手のガウンを羽織っただけで、しかも両肩ともずり落ちているので剥き出しの肩がひどく寒々しく見えた。
音もなく降り注ぐ月の光に彼女の輪郭が曖昧にぼやける。昼間、海岸で見たnameの後姿が蘇った。ほどけて消えてしまいそうな儚さに、俺は引き寄せられるようにベッドから降りてnameを背後から包む。

「眠れないか?」

「波の音が、気になって」

「普段聞きなれないからな。仕方ないさ」

俺とnameの間に横たわる静寂の表面を波音が覆う。覗き込んだ横顔が怯むほど寂し気だった。

「どうした?」

「ねえミケ、ずっとそばにいてくれる?」

振り返ったnameの瞳は切実で、俺のシャツの胸元を掴む細い指先は微かに震えてさえいた。俺はもう一度「どうした、怖い夢でも見たのか」とnameの額に唇を付けて訊く。「違うの、そうじゃないの」nameが首を振ると髪が左右に揺れる。nameは顔を埋め、俺の胴に腕を回してしがみつく。まるで、俺が煙になって消えてしまうのを必死に繋ぎとめようとするみたいに。

「大丈夫だ、俺はここにいる。お前とずっと一緒に、」

そこまで口にしたところで、胸の奥が鈍く痛んだ。手の届かない場所で、記憶の欠片が鈍く光を放っている。交わしたことのないはずの約束を二度目だと感じるのはどうしてか。こんなにも不安げなnameの姿を見るのは初めてのことで動揺しているのかもしれない。nameの向こう側に広がる夜の海は底なしの暗さだった。

「ずっと一緒にいて。ミケ、愛してる」

消え入りそうな声だった。「俺もだ、name」掠れた声で俺は言う。この島独特の強風にさらわれてしまわぬように、掠れてはいるがしっかりと、はっきりと。
nameを抱きかかえベッドに腰を降ろす。膝の上でnameはなおも窓の外に視線を投げていた。

「急に変なことを言ってごめんなさい。今まで何度かこんなふうに不安になることがあったんだけど、なんでだろう、今日はだめだった。海を見たら隠し事ができなくなっちゃったみたい」

無理に笑顔を作っているのが見て取れ、俺は両手でnameの頬を包んだ。親指でそっとやわらかな頬を撫でる。

「隠す必要なんてない。不安に思ったのなら伝えてくれればいい。俺は察するのがあまり得意ではないからな。気が付いてやれなくて、すまなかった」

「ずっと一緒に、なんて口に出してはいけないと思ってたの。叶うはずないんじゃないかって……厳密に言えば叶うはずはないんだけど、そうじゃなくて、」

その先を上手く続けられずnameは黙りこむ。「そうじゃなくて、ただ、ミケと離れたくないの。それだけなの」弱々しく言って右半身を俺に預ける。

「お前の言いたいことは、なんとなくわかる」

そして俺は、海を前にした時の己の内面のざわつきや、交わしたことのないはずの約束について訥々と話した。無言の相槌を所々にはさむnameの手を撫でていると、段々と心が凪いでいくのがわかった。どうやらnameも同じらしく、さっきまで冷たかった手のひらにはいつしかあたたかな体温が戻っていた。
言葉に表せることもそうでないことも、砂に水が滲みこんでゆくようにお互いの腑に落ちている。なんとなく、わかり合えると感じるのは、特別なつながり、つまり運命だとか赤い糸だとかが彼女と自分の間にあるからなのだと思うからで。自惚れかもしれないと忠告する自分と、直感を信じるべきという自分がにらみ合う。
永遠などありはしなくても、幸福な時間がずっと変わらないまま続いてほしいと願うのは当たり前だ。永遠は俺の手の中にある。手放したりなどしない。諦めたりなどしない。
nameが大きく息を吸い込む。空気がほどける気配がして、見ればnameはおだやかな笑みを浮かべていた。

「ミケの腕の中にいると安心する。還る場所っていうか、ここが自分の居場所なんだっていう感じがする」

「好きなだけいればいい」

「海に行くって決まった時、とても楽しみだったけど少し怖かったの。私もさっきミケが言ったようなことを感じることがあったから。でもミケも同じだったってわかって、よかった。ひとりじゃないんだって。それだけで、ここに来れて良かったと思えるよ。それに、これまでよりもっとミケに近付けた気がした」

nameの頼りない抱擁に、俺はありったけの愛を腕にこめる。

「もっと近付きたい、と思っても構わないか?」

腹の底から泡のように湧きあがる感情。返事はキスで返される。別々の肉体に別たれていた感情が混ざり合いひとつになってゆく。俺とnameはシーツの波間を揺蕩う。

翌朝、朝食を庭でとりながら俺たちは海を見ていた。

「いつもはパーティーなんて疲れるって言ってるくせに、私ね、いまここにみんながいたらいいなって思ってる」

ぽつりとnameが呟く。

「ふたりで過ごすには広すぎるからな、ここは」

「今度はみんなで行こう、なんて言ったら驚かれるだろうね」

ふふ、と笑うとnameは俺のいれたあたたかなコーヒーを口に運ぶ。「おいしい」と、心底幸福そうな顔をする彼女の髪に触れ、「まったくだな」と俺も笑った。
短い草が一面に生えた緩やかな傾斜の丘、その先にある海原を見るnameの瞳は静かに澄み渡っていた。

「少ししたら、浜を散歩しないか」

「うん、行く」

肯いたnameは伸びをして、「まだあと四日もこんな素敵なところで過ごせるなんて、夢みたい」と目を細める。「夢じゃないさ」俺はnameの手を取った。
彼女の言う通り、今度はエルヴィンやリヴァイといった、いつも集まる面々とここに来るのも悪くない気がした。きっと賑やかなのだろう。そうして、俺はnameと庭の片隅で寄り添いながら、賑やかな彼らを眺めるのだろう。ちびちびとアルコールを飲みながら。

【どうかその瞼でこの物語を閉じてほしい】
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