2020

久しぶりに降り立ったミアレシティの駅の前で私は大きく深呼吸をする。
帰ってきてしまった。
複雑な心境を察したのか、隣に立っているゲンガーが私を見上げて困った顔をしている。「大丈夫だよ」と彼の頭を撫でて私は歩き出す。華やかで都会的な街の雰囲気、乾いた風の匂い、喧騒、どれをとっても私が昨日までいたアローラ地方とは全く異なっていた。
アローラ地方。
半年前、生まれ育ったこの地からほとんど出たことのない私は右も左もわからないまま飛行機に乗り、メレメレ島に降り立った。そこで過ごした半年間は、熱帯の気候に育まれたジャングルのように濃密だった。
記憶は私の意思に関係なく次々と沸きあがる。眩しい太陽、波の音、足の裏についた砂粒。知らないうちにため息が出ていて、見かねたのかゲンガーが私の手をそっと取ってくれる。
サウスサイドストリートをまっすぐ進めばいいだけなのに、足は自然と路地裏に向かっていた。
路地裏は日陰になっていて涼しい。まんべんなく地表に降り注ぐ太陽を数時間前まで浴びていたというのに、それはもう嘘みたいに遠ざかっているのだった。
ゲンガーも建物の作り出す影を懐かしむように、その姿を淡い暗がりに融け込ませている。レンガ造りの壁に背を預け、影と戯れるゲンガーをしばらく眺めていた。

「石畳は歩きやすいね。砂浜と違ってヒールでも足が埋まらないから」

カツカツとパンプスのヒールを鳴らす。時には裸足でそのあたりを歩いていたなんて、この街では考えられないことだった。
街を貫くように走る水路に沿って歩きペール広場を通る。それでも気分は晴れない。TMVの時間は予め伝えてあったので、私がわざと時間を潰していることはきっとバレている。
誰に、ということは極力考えたくなかったけれど、ペール広場を抜けタワーを背にして立つ私の目線の先には、昼すぎの燦々とした日差しを受けて立つ研究所が否が応でもその人物のことを思い出させる。

「どうせ行かなくちゃいけないんだもんね。わかってるよ。もう道草はおしまい」

大きな門をくぐり、扉に手をかける。わずかに開いた隙間から研究所の懐かしい香りが押し出されるように流れ出てきて、本当に「帰ってきた」んだと思った。私の街に、私のいるべき研究所に。
同僚たちに挨拶をしつつお土産を渡している私にガブリアスが近づいてきたので頭を撫でてやる。「あ、博士なら部屋にいるよ」と他意のない笑顔を浮かべるアランに曖昧な返事をすると、ガブリアスが案内したそうな目で私を見るので「じゃあ行ってこようかな」とゲンガーと並んでガブリアスの後に続いた。
二階のいちばん奥の部屋。扉を前に動けないでいる私の背中をゲンガーがつんつんとつつく。なんとか持ち上げた右手で二度ノックをすると、ゲンガーは音もなく姿を消すのだった。

「おかえり」

ひとおもいに開けた扉の向こうで、博士はゆったりと椅子に腰かけて私を迎える。

「知ってたんですか」

戻りました、と言わないといけないはずなのに、私の口から出てきたのはほとんど八つ当たりみたいな言葉だった。言い方も博士を責めるような口調で、あとに引けなくなって私は悠然としている博士に詰め寄る。

「なんのことかな」

「……ククイ博士が、ご結婚されていたこと」

言いたくなかった。唇を噛んで消え入りそうな声で言うと、恥ずかしさで顔が熱くなる。博士は肯定とも否定とも取れない表情で、うつむく私の頬に手を添える。

「なんにせよ、きみがここに戻ってきてくれたことが嬉しいよ」

「そういうところが、私は嫌なんです」

言葉とは裏腹に私は彼の手を払いのけることができない。
辞令に私情が挟まれていたわけではない。けれど受けた私の方は私情大有りだった。半年間のアローラ行きの辞令は上からくだされたというよりも、私の方からほとんど強引にもぎ取りにいった。
頬から首筋に降りていく手の平の感触にぎゅっと目を瞑る。
ここにいたら、どこにも行けなくなってしまいそうで怖かったのだ。
水棲ポケモンは自分の研究分野であったし、一度は水棲ポケモンの聖地と名高い現地に赴いて実際に見て触れたいという夢はあった。それは嘘ではない。事実研究は捗ったし、成果をあげることもできた。
でも心の奥底にあったのは、プラターヌ博士から逃げたいという身勝手さ。仕事に励み、昼夜研究に没頭してもどこか後ろめたかったのはそのためだ。
どこまでも青い海を眺め、波音に耳を傾けても、すぐ背後には身体を包み込む熱気を孕んだジャングルがあった。手足を海水に浸し、それでも足りなくて私は誘われるように海に潜った。べったりとまとわりつき、私を息苦しくさせる熱帯の空気から逃れたくて。そして水中で見る少し歪んだ景色は、不思議なぐらい私の心を落ち着かせてくれるのだった。
ただ、プラターヌ博士を頭の中から締め出すべく闇雲に仕事に向かう私の態度が、さらなる悲劇を生み出したのだから救いようがない。
あの人は、優しすぎた。
まるで、あの地の海と空を体現したみたいな寛大さと包容力。いいな、と思った。あぁ、素敵な人だな、と。
薄く色づいた憧れは、私がミアレシティに戻るちょうど1週間前にあえなく海の藻屑となった。彼には妻がいたのだ。

「きみは鈍いからね。過剰に愛情表現しないと気がついてもらえない」

「べつに、鈍くなんて」

「現にククイくんが妻帯者だと気がつけなかったじゃないか」

容赦ない発言に私は唇を噛み締める。反論の余地なし。なにも言えないでいる私に向けられる得意気な顔に腹が立った。

「ククイ博士は、誠実な人です」

「まるで誰かと比べているような言い方だね」

楽しそうに言うので「そうですよ。軽薄で不誠実などこかの誰かとは違うんです」と皮肉を言い放って背を向ける。

「仕事に戻ります」

「待ちたまえ。きみは私のことをそんなふうに思っていたのかい?心外だな」

腕を掴まれて身体を固くするも、傷付いたような、寂しさの滲む声に思わず振り返ってしまう。

「そうじゃなくて、あの、」

「そうじゃなくて?」

首を少しかしげた博士に見つめられ言葉に詰まる。そうじゃなくて。そうなんだけど、そうじゃない。

「私はあなたの優しさが怖かった。博士は、誰にでも優しいから」

「うーん、そこを否定はしないよ……。でも、それはつまり、私がきみだけに優しくすればいいということかな」

引き寄せられて、私はまばたきをする間に腕の中に閉じ込められてしまう。大きく開いた胸元から香水が間近にかおる。半年間会っていなかったことなんて嘘みたいに肌のぬくもりがよみがえり、頬が火照るのがわかった。
違います、と否定しても、それはただの肯定でしかない。
手の甲で目元をなぞられ、我儘をあやされている気分になる。薄くひきつれた傷跡のある手の甲。昔、ここに来たばかりのフカマルに噛まれたのだ。

「あなたの優しさがポケモンだけに向けられればいいのに」

見えない糸に絡めとられてゆく。そしてそれは繭のように私を包む。羽化なんてできもしないのに。私は永遠に閉じ込められたままだ。

「帰ってくるなり我儘かい?アローラ行きだって、私はあまり賛成していなかったんだ 。それをきみは……」

博士はため息をつく。一方的な私の主張はやや感情的ではあったけれど筋が通っていたので、話し合いの末受け入れられたものの、博士は浮かない顔をしていた。それでも最後は笑顔で送り出してくれた。
顎に添えられた手に上を向かされる。顔が近づいてきたので「お仕事中です」と身体を離そうとすれば額に唇を落とされるのだった。
出発までの私の葛藤も、半年間の私の思いも、改札口から出た時の憂鬱も、全部知らないふりをして、なんでもないようにキスをする。
酷い人。
博士の優しさは苦しくて、そして残酷だ。
洗練されていて、隙なんてなさそうなのにどこか間の抜けているところも、無造作な髪型も、無精髭も。目をそらしたいのに、考えたくないのに、そう思えば思うほど身動きが取れなくなる。香水のにおいに思考が霞む。胸が、苦しい。

「アローラの海はとても綺麗でしたよ」

「それはよかった。もしまた行くことがあれば、私も一緒に行こうかな」

「……そうですね」

またあの場所に、行くことはあるのだろうか。遠くを見るような目になってしまう。

「それはそうと、今晩は空けておいてくれたまえよ」

「え、」

私の髪をひと撫ですると、博士は身体を離してデスクに戻る。モニターに向けていた視線をこちらに寄こしウインクをする。しかめっ面でそれを避けると楽しそうに笑った。笑顔になると、急に幼くなる。ポケモンに対する好奇心に溢れた少年が見え隠れするようだった。

「今度新しく本を出すんだ。きみの意見も聞いておきたいと思ってね」

「そうなんですか、おめでとうございます。……私の意見なんてとてもじゃないけど参考になんてならないと思いますけど」

無意識のうちに肩にかけている鞄に触れている。中にはプラターヌ博士の著書が入っている。いつも、持ち歩いているもの。私の必需品。
フカマルが博士を噛んだあの日、彼のフカマルを見る優しい眼差しに私は恋に落ちた。彼の記した本の随所に見られる細やかな記述は、ポケモンを研究対象として冷静に分析するだけではない、愛すべきものとしての慈しみの目で常に書かれていた。流れる血など意に介さずフカマルを撫でる博士の姿を目の当たりにして、あぁ、この人だからこそあの論文を書くことができるのだと得心がいったのだった。

「まぁ、それはきみを誘う口実みたいなものだから」

「……そうですか」

「じゃあ、楽しみにしているよ」

脱力している私に歯を見せると博士は手元のノートとモニターに目を走らせる。もうすっかり研究者の顔なのだからズルいと思わずにいられない。だって、それは、私の好きになったあなたそのものだから。
しばらく博士の横顔を眺め、私はそっと部屋を出た。扉を閉じれば廊下には静寂が満ち、足元からはひんやりとした冷気が立ち上る。
顔だけを私の影から覗かせたゲンガーの頭を撫でる。私の周りだけわずかに低い温度が心地いいのは、私の体温が高くなっていたからだ。頬を手のひらで包んで目を閉じる。暗闇の彼方から聞こえてくる波の音は、目を開けると消えていた。
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