2020

「あなたといると疲れます」

いつも行くパン屋さんで山盛りのパンを買って、家まで待ちきれずにメロンパンを袋から取り出した私は七海先輩の言葉を聞き流し、目の前のメロンパンに集中する。

「やっぱりここのメロンパン最高ですね。中の生地がしっとりしていて口がパサパサにならないから飲み物なくても余裕です」

「歩きながらものを食べるのは行儀が悪いですよ」

「先輩も食べますか?」

「私の話を聞いていましたか?」

「先輩は私といると疲れるんですか?」

めいっぱい頬張って訊くと、先輩はこれ見よがしにため息をついて「そういうところがですよ」と眉間に皺を寄せた。そういうところと言われてもピンとこなくて、でも、パンをのみ込んだら美味しさで全部どうでもいい気持ちになり「お疲れさまでーす」と言おうとしたらパンが喉に詰まって涙目になる。
先輩が鞄から小さな水筒を取り出して私にさしだす。「知り合いだと思われたくないのですが」なんて言いながら、それでも背中を叩いてくれる先輩の大きな拳。

「死ぬかと思った……」

「くだらない死因ですね。まあでも、本望でしょう」

「あそこのパン屋さんのシーズンごとの新作を食べ尽くすまでは死ねないです。もし死んだら絶対に呪いになるんでその時はよろしくお願いしますね、先輩」

「……丁重にお断りします」

私の手から水筒を取り上げるとキュキュッと音をたててふたをきつく締める。「先輩、そのお茶なんですか。ウーロン茶ですか」と訊くと「ルイボスティーです」と慇懃に返された。ルイボスティーをマイボトルに入れて鞄に忍ばせる七海建人という男の隙のなさに私は内心舌を巻く。
パンくずのついた手を適当に払うと明らかに嫌そうな視線を眼鏡の奥から寄越されたので、もうひとつの私のお気に入りであるクリームパンを今ここで食べるのはやめておいた。

「労働するとお腹減るんですよね」

「それに関して異論はありませんが、だからといって路上で食べ歩く行為を私が是認したわけではないということを肝に銘じてください」

「ナナミン怖ーい」

「……喧嘩を売られている、そうとってよろしいですか?」

中指で眼鏡を持ち上げて先輩が静かに凄む。

「よろしくないです。ただの戯れです。いうなればいちゃついてるんです」

じゃれれば「シャツが油で汚れるのではなしてください」と冷たい声が降ってくる。

「そんなこと言っても、無理矢理振り払わないじゃないですか。私、先輩のそういうところ大好きですよ」

あはは、と笑えば先輩が足を止めたので、不思議に思って右上を仰ぐ。

「そういうところが、疲れるんです」

わからないでしょうけど、と随分と投げやりな言い方をされて私が黙っているはずがない。そもそも私といて疲れるのは先輩の問題であって私には関係がない。私は先輩といるのが楽しい。心の底から。

「じゃあもっと疲れさせてあげますよ。覚悟してくださいね」

お断りします、と言われると思った。言われたら、抱き付いてやるつもりだった。それだというのに、先輩は腰をかがめて顔を近づけてきた。予想外の行動に私は驚いて仰け反ってしまう。

「覚悟をするのはあなたの方だと思うのですが」

「……え、」

「あれだけ好き放題振舞っておいて、よもや無事で済むとは思っていないですよね」

どうやら話は遡り、今日の任務の内容について言及しているらしい。好き放題、とまではいかないのではなかろうか、と反論したかったけれど、ここで言葉を返すのは得策ではない。

「で、でも私が好き放題できるのは先輩が一緒だからですよ。ペアが先輩じゃなかったら、今日の任務を完遂させてた自信ありません。私は先輩じゃなきゃダメなんです」

できるだけお説教が長引かないであろう言葉のチョイスをする。けれど嘘じゃない。ぜんぶ、本当のこと。

「少し、黙ってもらえますか」

先輩は私の両肩に手を置くと腕を伸ばして私を遠ざける。がら空きの胴のシャツの皺が私を誘う。ためらったら負けだと飛び込むと、反動でパンの入った袋がしたたか先輩のわき腹を叩くのがわかった。

「黙るので、手繋いでください」

「ので、の意味を理解しかねますが、ではまず私から離れてください。話はそれからです」

鼻を押し付けるように抱き付いているので声が間近で聞こえるし、それにシャツ越しの体温の心地よさといったらない。離れられません、と正直に言うとため息の分だけ押し当てている胸が上下した。「公衆の面前ですので」と私を引き剥がし、私の右手とる。ゴツい腕時計が手首にあたる。それはひんやりと冷たい。

「先輩、帰ったら野菜スープ作ってください」

「……」

「パンだけじゃ栄養バランスが偏りますので」

「……」

「私、先輩のお料理大好きです」

「好きや大好きをみだりに使うとその価値が下がる、とは考えないのですか?」

「いえ、まったく。だって好きなんだから仕方ないじゃないですか。むしろ価値が上がるといってもいいぐらいです」

私が胸を張ると先輩は「ではお好きなようにしてください」と心底呆れたといった表情で突き放したような言葉を口にするのに、歩調だけはきちんと私にあわせてくれている。そういう気遣いが嬉しくて、私はおもわず頬が緩んでしまう。先輩の作る野菜スープのことを考えたら今にもお腹が鳴りそうだった。


【おいしく食すテーブルマナー教本】


おおよそ私の知り得る、あるいは私の中で定められた社会規範から所々逸脱したあなたの、その、理解のできない力に私は圧倒されるのだ。後に残るのは間違いなく疲労感で、けれどそれはひどく心地いい。相反するふたつに挟まれ理不尽極まりない、もはや暴力的ともいえる愛情に疲弊しつつ、それでも私がnameを拒絶できないのは、おそらく、自分が彼女を愛しているからであって、しかしその事実を認めるだけならまだしも、愛しているなどというしようもない一言を口にすることは絶対にできやしないのだ。
「愛しています」
だから私は、自分の口からその言葉が飛び出すたびに驚愕する。いっそ笑いだしてしまいそうなほどに。自分に対する裏切りだ、こんな言葉は。
そして、私の言葉を聞いたnameが浮かべる表情に、今度は無性に遣る瀬無さを抱くのだ。たったこれだけであんなにも満足そうに笑むなどとは、私には到底信じられない。

私の左手に指を絡ませ鼻歌交じりのnameの頭の中は、帰ってから食べるパンの順番をああでもないこうでもないと並べ替えているに違いない。なんというお気楽な思考なのか。そして帰宅した私(同様に任務をこなしてきた身だというにもかかわらず)に料理を押し付け、あまつさえ調理の邪魔をしながら「せんぱーい、お腹減りましたー」と呑気な声を私の背中で出すのだろう。
私たちのアパートは、もうすぐそこだ。
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