「どうだった、あの少年」
「碇くんのことかい?」
「それ以外に誰がいるのよ」
のらりくらりと質問の本質をすり替え論点をはぐらかすカヲルに苛立つ私は、のせられているとわかりながらもつい語気を荒げてしまう。
隠しきれなくなった苛立ちを見て、カヲルは大層面白そうに目を細めるのだからたちが悪い。
「混乱しているみたいだ。仕方のないことさ」
「ふぅん……」
「name、なにが言いたいんだい」
「別に、なにも」
「嘘をつく時に視線を外すのは、君の悪い癖だね」
私の座るベッドにカヲルは仰向けに倒れこむと、その赤い瞳でこちらを見上げ微笑んだ。
そうやって私をわざと苛立たせるのがあなたの悪い癖って、いったいいつになったら気付くのかしら。
なんの香りもしない部屋の中で、私たちはちゃちな玩具のように白々しい灯りに照らされていた。
とうとう例の少年がここへやって来た。
昼間、ふたり並んでピアノを弾いているのを私がなんとなしに見ていたことを、きっとカヲルは気がついていたはずだ。
朽ちかけたコンクリートの合間を縫って吹く風に乗り遥か頭上に腰掛ける私の元に届くピアノの音色は、今まで聞いたことがないぐらい楽しげに弾んでいた。
たどたどしく鍵盤を叩く碇シンジの指とは対照的に、カヲルの指は鍵盤の上を滑るように移動していた。
リズムに合わせて踏まれる踵や、風にそよぐ銀色の柔らかな髪。
そしてなにより、ふたりで奏でる音に心地よさそうに閉じられたまぶた。
あんなにも間近で彼を感じている碇シンジに嫉妬めいた感情を抱いていたのは確かだったけれど、それをカヲルに茶化されるのはどうしても癪に触る。
「知っているよ、そういうのを“嫉妬”っていうんだ」
「……」
「いいじゃないか、碇くんに嫉妬なんてしなくったって」
僕たちはいつまでも一緒なんだから。
首をぐるりと回してカヲルは言う。
彼がここにやって来るのは何度目だろう。
私たちは世界を何度巡っただろう。
カヲルは何度死に、私は何度死にゆく彼を見送っただろう。
私たちふたりの記憶はそのままに、抗えない世界だけが変わってゆく。
そうしてまた14年が経ったのだ。
「彼が幸せになればいいと思う」
「そして世界も」
私に続いてそう言ったカヲルは、やんわりと私の腰に腕を回す。
「僕たちは?」
「私たち?」
「うん」
「私たちに幸せなんて、あるわけないじゃない」
「悲しいことを言うね」
儚く笑った彼は、くしゃりと髪をかきあげた。
今現在、点としての、一瞬一瞬の幸せならばあり得るけれど、その点をつないだ先に幸福などあるわけがない。
どう目を凝らしたところで、そんな物は見えはしないのだ。
なんて刹那的なのだろう。
いつ終わるかもわからない永遠の中に(永遠というものに、終わりなんてないのに)閉じ込められた私たちは、世界の傍観者として身を寄せ合う他ないのだった。
それでも私はカヲルに出会うたび彼に惹かれ、赤い瞳を愛さずにはいられない。
小さく身じろぎをするたびに鳴る衣擦れの音が、無機質な部屋に大袈裟に響く。
「僕たちにはそれを望むことさえ許されないのかな」
「さぁ」
「でも僕は今こうしてnameと一緒にいられることが、心から幸せだと思っているよ」
「今は、ね」
「いいじゃない、今だけだって。幸福な未来なんて、万人に約束されたものじゃないんだから」
「幸福な、未来……、」
手の届かない尊いものの名を呼ぶように口にした言葉は、震えながら静寂へと溶けていった。
幸福な未来とは、いったいなんなのだろう。
たとえば愛する人と結ばれ子を成すこと?
真っ先に浮かんだあまりにもチープな考えに、うんざりした笑いがふつふつと込み上げてくる。
リリンの思想に毒されすぎている、そう思った。
入れ物はリリンのそれであっても、中に詰まっているものはそうではないのだ。
時折その事実を、忘れそうになってしまう。
なにも知らずに生きて死ぬことができる存在であったのならば、どれだけ幸せだっただろう。
また“幸せ”、か。
ゆっくりと覆いかぶさってくるカヲルの身体を受け止める。
耳朶を食まれながら、私は碇シンジでもなく世界でもなく、カヲルの幸せを願わずにはいられなかった。彼の幸せが、彼ひとりでは成し得ないものだとしても。
カヲルの幸せはつまり、碇シンジの、世界の幸せなのだ。
惨い、悲しいほどに。
どうやったって汗ばむことのない彼の身体も、こういう時はうっすらと汗を滲ませる。
白い肌を覆うしょっぱい汗は、私の肌に彼がぶつかる度に弾けてシーツへと吸い込まれていった。
鼻の頭に浮かんだ汗に唇を寄せれば、私が触れるよりもはやく彼の唇に呼吸を奪われる。
形の整った長い指が身体を撫でる心地よさにうっとりと吐息をはき出した私を、真上からカヲルが見下ろしていた。
「気持ちいいかい?」
「うん」
「幸せ、かい?」
「……うん、」
そう、よかった。
カヲルはそう言って私をきつく抱きしめた。カヲルの首筋に顔をうずめて、私は必死に彼を感じる。カヲルの香りを、体温を、存在を。心に、身体に、記憶に刻み付けるようにして。
「カヲ、ル……」
「そんな切ない顔、どうしようもなくなりそうだよ。ねぇ、name……、」
白い頬はほんのりと上気し、あまい熱に赤い瞳が潤んでいた。
単純に、彼を美しいと思う。
境界となる皮膚なんかいらない、魂をひとつにして混ざり合ってしまいたい。
いつしかそう強く願うようになっていた。
どれだけ肌を寄せ合ったとしても埋められない隙間があるとわかっているはずなのに、私の腕はきつくカヲルの背中に回されている。
薄い皮膚の向こう側でわずかに動く肩甲骨が、彼の存在を確かに私へ伝えてくれた。
【永遠の片隅で】
なんどだって、きみをあいする
(世界がループしていたらという妄想)
20140705
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