2020

眠りから目覚めた私はぼんやりと重たいまぶたをなんとか持ち上げる。隣にはエルヴィンの剥き出しの肩があって、私はその愛おしい丸みにそっと頬を寄せた。
んん、と喉を鳴らしたエルヴィンは腕と足で私を抱く。まばらに生えた不精髭がくすぐったくて逃げようとすると耳を噛まれた。ベッドの中は幸福なぬくもりで満ちていて、私はこの瞬間を永遠に閉じ込めておけたらいいのになんて思ってしまう。
2日間休みなんだ、と絶望的に疲れ果てた顔をしたエルヴィンが部屋に戻ってきたのは時計の針が日付を跨いでしばらくしてからだった。2日間休みっていったってどうせ半日あるかないかじゃない、とまだ話している途中の私を早速ベッドに押し倒したエルヴィンは「だったらその半日は全てnameのために使おう」なんて適当なことを言って私を簡単に幸せにしてしまう。どうしてこの人は、私を的確に幸福に落とす言葉とタイミングをこんなにも心得ているのだろう。

朝食なのか昼食なのかわからない簡単な食事をとって、下着とシャツを羽織っただけのエルヴィンと、裸の上にエルヴィンのシャツを借りて羽織っている私はベッドに並んで腰かけ酒を飲む。
「休みとはいえ明るいうちから飲むお酒は後ろめたいわ」とちびちび飲んでいる私の、まだ半分も減っていないグラスにエルヴィンは2杯目を注いで「いいじゃないか、たまには」と共犯者を作るような笑みを私に向けた。「そうね、毎日馬車馬のように働いてるんだから、咎める方が間違ってるのよ」馬車馬の方がよっぽど労働環境がいいのではないだろうかという疑問はひとまず置いておく。それについて考えると、私たちがありがたがっているこのわずかな休息の時がひどく虚しいもののように思えてしまうから。

「昨日の会議、どうだったの?」

「いつもと変わりなしさ」

「ふうん」

変わりなし、と言ったエルヴィンの眉間にわずかに皺が寄ったのを見て、どうせまた頭の固い居丈高な老人たちにあれこれ揶揄されたのだろうなと察する。まったくひどい話だと、自分の眉間にまで皺を寄せそうになり慌ててまばたきをしたが手遅れだった。

「そんな顔をnameがしてどうする。それにこの休暇だってあのご老人たちがくださったありがたい賜物なんだぞ。で、そっちはどうだった?」

「あなたの机の上にできてた書類の山が崩れてたから直しておいた。この前の壁外遠征のあれこれ、まだ全然片付いてないみたいだけど大丈夫?あと、なんで今回の休暇と上の老いぼれとが関係あるのよ」

「書類に関しては大丈夫ではないが、まあ、なんとかするさ。私があまりにもな顔をしていたのか、二日ほど休むといいと言われたんだよ」

そのときの様子を口真似で再現してエルヴィンは愉快そうに笑った。ようは嫌がらせということか。そうしてエルヴィンが休んだために仕事が滞れば、書面が全然回ってこないだなんだといちゃもんをつけてくるに決まっているし、かといって休まず書類を仕上げたところで今度は「休めと言ったのに休まなかったのか」と言いがかりをつけてくるのだから救えない。ピクシス指令のように話が分かる老人ばかりならいいのにと、思わずにはいられなかった。
そもそも、壁の中のさらに狭い建物の中で数字とお金と相手の顔色ばかりを気にしているような人間に、私たちの成さんとしている功についての理解を得ようとすること自体が間違っているのかもしれない。理解と協力を望むばかりに失望を重ね、何故わからないのかと憤るよりも、彼らには理解するだけの頭と、前例にとらわれない柔軟さを許容する広い心がもとよりないのだと憐れむ方がずっと簡単で気安い。
敵が巨人だけではないなんて、本当に調査兵団は難儀なところだ。

「休暇申請したけど、私も今晩少しでもいいから書類やろうかな」

使用したブレードやガスボンベの本数、人的および物的損失の報告書、今回の反省点と次回への改善変更点、などなど。部下たちから渡された書類の半分以上は目を通したけれど、これからそれをまとめて所見を書かねばならない。毎度のことながら気が滅入る作業だった。けれど仕事は仕事だ。
ごくごくとグラスを飲み乾し、「あー」と大きく息をついた私はベッドに沈む。「もう一杯いるか?」「もういい」「では私がもらおう」「相変わらず底なしね」呆れたように言う私を尻目に、エルヴィンはまるで運動の後に飲む水のようにグラスの酒を躊躇なく身体に収めてしまうのだった。

「晩ごはんどうしよう」

「ああ、腹は減っているが外に出るのも億劫だな」

怠惰を極めた私たちには部屋の外に出ることはおろか、部屋の外に出るために着替えをすることすらできそうにない。とりあえず、と顔を見合わせた私たちは唇を合わせて抱き合う。「ねえ、今この瞬間だけを考えたら私、幸せすぎてどうにかなってしまいそう」剥き出しの胸板に唇をつけて言うと、微笑みに縁どられたエルヴィンの吐息が耳を撫でた。
昨日の後悔も明日の心配も全部忘れて、エルヴィンとこうしている時を切り取って永遠にできればいいのに。そんなことを思いながら耳の中で響く鼓動にしばらく耳を澄ましていたけれど、ふと、それが聞こえなくなってしまったら、という不安に駆られて私はそれ以上聞いていられなくなり慌てて顔をあげる。
幸福に天秤が傾くたびに、反対の皿に同じ分だけの憂いを乗せられていつも振り出しに戻るのだ。いたずらに傾く振れ幅に私たちは成す術もなく揺られている。
けれど、いたずらに天秤を揺らす指先は、決まって私かエルヴィンのどちらかでしかないという事実。
シャツの裾から滑り込んできた手がわき腹を撫でた。不安がっている私を抱こうとしているのは明らかで、なにも考えられなくなるほど頭の中を恍惚で埋め尽くされたいと願う反面、ただ静かに肌を合わせていたいとも思う。
彼の鼓動のもっとずっと奥の方で鳴り続けている音に耳を傾けると、それはずっと昔に失われた世界から聞こえてくる澄んだ鈴のような音をしていて、私の胸のやわらかな部分をものがなしく震わせる。そうして互いがひた隠しにしてきた孤独と共鳴し合い、私とエルヴィンの肌をにわか雨のように濡らすのだった。
目の前の幸福と、肌に感じる体温の尊さに胸が詰まる。背中に腕を回すと、エルヴィンの手が私の後頭部を包んだ。ごく自然に私は安心する。なんの疑いもなく彼の熱を受け入れる。それが実は、自分が最も恐れていることだと知りながら。
軋むベッドの上でエルヴィンにしがみ付きながら、このままどこかに行ってしまいたいなんて考えるのだけれど、すぐさま快楽以外の感情を振るい落とされ、私は声をあげ涙を流すことしかできなくなる。とろとろと絶え間なく流し込まれる睦言は心地よく私の頭蓋を満たす。身体が上下するたびに頭の中でちゃぷんちゃぷんと液体の揺れる音が響き、それは涙となって私の頬をしとどに濡らす。
涙の理由なんて、もうとっくの昔にわからくなっている。エルヴィンの舌先が涙を舐め取る。そうして、涙は彼の舌を潤すのだ。悲しみはゆくあてなく私たちを廻る。

空腹に耐えかねた私たちは結局外に出た。昼間から開いている酒場で酒を一杯ひっかけ、店主が適当に作って出すものをつまんで食べた。ほろ酔い気分で店を出た私たちは夕方のどこか懐かしい匂いのするぬるい風の中をゆっくりと歩く。とりたてて会話を交わすこともないけれど、それがかえって心地いい。繋いだ手の寂しさを私たちは味わっている。
夕暮れの中兵団本部に戻り、藍色の空気が満ちた団長室の扉を開けて私は溜息をついた。

「やっぱりここに来ちゃうのよね」

「休みだというのに、まったく」

「もはや習性なんじゃない?」

「せめて習慣と言ってくれ。それにしてもこれは酷いな。馬鹿正直に二日も休んだらとてもじゃないが捌ききれない」

机の上の書類の山を遠巻きに眺めていたエルヴィンは大きくため息をつくと「まったく、酔いもさめるな」と口にして書類を上から順に検分し、ダメ押しで三度目の「まったく」。を口にした。
私は椅子に座ってエルヴィンの様子を眺める。

「今から取り掛かるなら私もここで一緒にやっていい?蝋燭も節約になるし。そのへんで火もらってくるよ」

「そうだな、頼む」

顔をあげずにエルヴィンは言い、私は蝋燭を台に乗せハンジの部屋まで行って火をもらうと(ハンジの部屋の火はいつもモブリットがつけている。ハンジなんてそのままにしておいたら部屋が闇に沈んでいることにすら気が付かないのだ。そして勿論、モブリットが火を灯してくれたおかげで部屋が明るくなり、文字が書ける状態であることにだって気づかない)団長室の全ての蝋燭に火を灯した。そして自分の部屋から書類をひと抱え持ってきて、壁づけにしてあるデスクの上に音をたてて置く。
適度なアルコールが集中力を高めてくれたおかげか普段よりもスムーズにペンが走り、あらかた片付いても夜はそこまで更けていなかった。もう意識のどこを探してもアルコールの気配はなく、眠るまえにもう少し飲んで寝ようと心に決める。
伸びをして仰け反りざまにエルヴィンを見ると、難しい顔をしていた。
そうなるのも致し方ないだろう。なにせ今回もろくすっぽ成果を上げられないまま戻ってきたのだから。私ひとり分の書類ですら見渡す限り気が滅入るような文章しか並んでいないのに、それが全分隊分となればそれはそれはもう気が滅入るどころか地面にめり込む程であろうことは想像に容易い。そのうえ彼は纏められた報告書を持って次回以降の壁外調査についての折衝も行わなければならないのだ。眉間に刻まれた皺が年々深さを増すのもなんら不思議ではない。
エルヴィンの背後に立って肩を揉んであげると「あぁ、気持ちがいい」と言う。蝋燭の炎のせいで顔に滲む疲労の色が倍に見える。机の引き出しにしまってある酒の小壜を出して口に含んで、エルヴィンの腿に跨り口づけた。差し込まれた舌が酒を舐め取る。

「もう終わりにしたら?いちおう休みっていうことになってるんだし」

「もう少しだけ。nameは先に部屋に戻っていてくれ」

「そんな見捨てるみたいなこと、できるわけないじゃない」

呆れた、と肩を竦めると、エルヴィンは口元だけで笑うのだった。

「やさしいな」

「そうよ、私はやさしいの」

唇を重ねる。「だから、今日は早く寝ること」頬を両手で挟むと伸びかけの髭が手の平にちくちくとあたった。「わかったよ、きみの誘いに乗ろう。だからいい子で待っていなさい」エルヴィンはそう言って私の額にキスをすると私を膝から降ろす。
遠くにぽつぽつと民家の明かりが灯っている。触れるとあたたかそうな、オレンジ色をした家庭の明かり。星を見るのと同じ遠い目でそれらを眺めながら、私は酒を飲んだ。
酔うのに量を必要としないこの身体がありがたい。意識に淡いベールがかかる。
こんな硬いソファで寝たら明日身体がどうなっていることやら。
書類に視線を落としているエルヴィンをぼんやりと見る。時の流れが曖昧で、自分で思っているよりも長い時間彼を見ていたらしい私に、エルヴィンは「眠たかったら寝るといい。あとでベッドに運んであげるから」と言って笑む。

「だから、あなただけを見捨てるわけにはいかないって言ったれしょ」

呂律が回っていない自分がおかしくて私は目を閉じながら笑った。「お前はいちいち大袈裟だな」と楽しそうなエルヴィンに「大袈裟なんかじゃない。私はどんな時だってあなたを絶対に見捨てたりなんかしない」と抗議する。すると突然わけもなく憤然とした怒りのような感情が湧きあがり、ぐにゃりと視界がゆがむ。
激しくふらつきだした天秤の皿から投げ出されないように身体を起こして宙を睨んでいると、「なんだ、酔っているのか?」とエルヴィンは机を離れ私のところにやってくる。

「困ったやつだな」

まったく。それでも口調は楽しそうで、それが余計私の神経を逆なでる。「なにもわかってない」大きな身体に腕を回してしがみつく私をエルヴィンがそっと抱き締める。「わかっている。大丈夫だ」ふ、と吐息が聞こえ、やっぱりわかってない、と思ったけれど今度は口に出さなかった。
唇を可愛がられているうちに、自分の気持ちを持て余す子どもみたいだと恥じる気持ちが膨らんで、私は唇から逃れエルヴィンの胸に額を押し付ける。

「ごめんなさい。酔って変なこと言っちゃって」

「構わないさ」

天秤はまた水平にもどっている。

「やはり仕事はここまでにしておくよ。続きはまた明日やればいい」

私の髪に鼻で触れながらエルヴィンは私の頬を撫でた。これじゃあ結局仕事の邪魔にしかなっていない。

「名目上は二日間休みなんだ、焦ってやる必要もない。それに、いまはnameの相手をしてやりたいからね」

「……」

何も言えないでいると、頬を両手で挟まれる。上を向かされ、皺の寄っているであろう眉間に唇を寄せられ、何度も触れては離れを繰り返されて、今度は情けない顔になってしまう。

「すまないね、本当はもっと可愛がってやりたいのだが、なにぶん忙しくて」

こういう台詞を恥ずかし気もなく言ってのけるからズルい。唇を割る舌を受け止め、私はぎゅっと目を閉じた。
幸福なのにどこか寂しくて、必死に縋ってしまう。
私は彼を見捨てはしない。でも、エルヴィンは私を見捨てるから。
エルヴィンは聡明だから、公私混同をするはずもない。紡いできた赤い糸をばっさりと、躊躇いもなく断ち切るだろう。
そうするとわかっているから私は安心して彼に身体を預ける。そして、心も。
だから、といってはなんだけれど、こんな時ぐらいは縋っても赦されるはず。

「明日は、一緒に早起きする」

キスの合間にそう言う私の目元に唇を付け、エルヴィンは首をかしげた。

「明日のことなんて、今は考えなくていい」

音をたてて触れるだけのキスをして私から身体を離すと、部屋の蝋燭を消してまわる。少しずつ濃くなってゆく夜。扉の横にある最後の一本だけを残すと、エルヴィンは私を抱き上げる。
ふっ、と吹き消される最後の一本。
悲しみと不穏の混じった夜の闇を執務室に閉じ込めて、私たちはほの暗い廊下にひとつの影を伸ばして歩く。無秩序と愛に満ちた場所へ、ふたりで向かうために。

【ウソをすべて呑みこんだ口角】
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