2020

人の気配を感じたので私は目を開ける。日向先生がいらっしゃらない日に限っていったい何だというのだろう。耳をそばだてるも、物音ひとつしない。
障子を通して部屋に入ってくる月明かりは日の光より親密で、私はゆるく瞬きをする。
月明かり。
ああ、今日は満月の夜か。ここのところ忙しくしていてすっかり忘れていた。起きあがって戸を開けるとそこにはnameの姿があった。

「こんばんは」

淡くほほえむ彼女の顔に月光が影を落とす。

「こんばんは、久しぶりですね」

桶を持ってくるので待っていてください。私が言うと彼女は濡れ縁に腰を降ろす。
水を湛えた桶に映った満月を乱すnameの白い脚を眺める。そして、うなじを。誘われるようにして指を伸ばすとnameはびくりと肩を揺らした。振り返った彼女は目を細めると、桶から足をあげ手拭いを取った。彼女の肌の水分を吸って、手拭いはくったりと湿ってゆく。
箪笥の奥から着替えを出す。外で着た着物のまま部屋に入ってこられるのは好きではない。心得ているnameは、私が振り返って着物を差し出すときには既に帯を解いている。
あらわれた腰の細い輪郭に触れる。手のひらを重ねられ、着替えは無用の長物となる。
身体をなぞる私の指にnameは切なく震え、赤々とした唇からは吐息がこぼれる。耳元でひと言、ふた言囁くと薄い背が粟立った。不意に雲が月を隠し、部屋が漆黒に染まる。どこからか浮かびあがる青白い光がぼんやりと私達を包む。闇に乗じて私はnameのうなじに唇を付けた。
すこし湿った布団に並んで横たわり、夏の虫が庭で鳴いているのを聞く。庭。家の庭はどうなっているだろうか。

「きのう、庭の草むしりをしました」

nameが言う。時々、自分の思考が彼女に筒抜けているのではないかと思うことがある。聡明な瞳をしているので、胸の内を読むことなど彼女からすれば容易いのかもしれない。私は口下手なので、考えていることを読み取ってもらえるのならそれはそれで構わない。
無論、知られたくないことも少なからずあるのだが、言葉足らずで誤解や齟齬が生じることを考えれば手間が省ける。誤解や齟齬が生じてたとして、その絡まった糸を解こうと思うと端的な言葉などでは到底説明できそうにないうえ、なにか説教あるいは説法じみた語り口になってしまいそうだった。きっと、聞かされる方もたまったものではないと怯むに違いない。私は彼女をそのような目にあわせたくないのだ。

「家のことを任せきりにして申し訳ないと思っています」

「お仕事ですから、気になさらないでください」

そう言ってnameは私の手を握った。「でも、お会いできないのは少しさみしいです」控えめに見上げられ、私はなんとこたえたらいいのかわからない。彼女が私を責めているわけではないことは表情と口調で理解できる。が、やはり妻ひとりをながらく家に置いておくのは後ろめたいというか、気が引けてしまうのだった。

「お痩せになったのではないですか?」

「そうでしょうか」

nameが私の頬に触れる。
私は食事には無頓着なうえ、食べるとしても食が細い。食堂でもいつも少なめによそってもらっているけれど、時々それですら多く感じる時もある。加えて肉がつきにくい体質なので、私の身体は幼い頃より貧相なのだった。
したがって、痩せたのかと問われても首を捻ることしかできない。

「ちゃんと食べてくださいね」

やわらかな唇が言葉を紡ぐ。あなたこそ、と言おうとしたものの、ひとりで膳に向かい食事をとるnameの姿を想像すると胸が痛み、「はい」と頷くことしかできなかった。
ぽつぽつと近況を話し、やがて訪れた沈黙をそっと吸い込んでnameは身じろぎする。私の手を握る指に、力がこもる。
彼女の体温は日なたに似ている。陽射しの眩しさやそれに付随する温度は苦手なのに、彼女の体温はなぜだろう心地いい。私は、世の人々が太陽の光やぬくもりを享受するのと同じ心持でnameの体温を享受する。慣れ親しんだ、暗闇の中で。

「もう行かなくちゃ」

やがてnameはそう言うと、するりと布団から抜け出てしまう。次いで起き上がった私と向かい合い、目元と後ろ髪の先に惜別を含ませてこちらに身体を預ける。私は彼女の髪を梳いてやる。髪が含んだ悲しみを闇に少しずつ溶かしてやるように。
そうして私は、部屋に残された彼女の悲しみの中で日々を送り、それを贖いとする。

「次の満月の夜は一緒に食事をとりましょう」

見下ろしたnameのふっくらとした頬がほの青く闇に浮かぶ。嬉しそうに口の端が持ち上げられ、彼女は無言で肯いた。
ひとり残された部屋。
私が彼女を家に残しているはずなのに、私は自分が取り残されたように感じている。暗闇の中、手の平を眺める。そこには彼女の孤独が張り付いていた。視認できない忌むべき汚れとはまったく異なる水のような孤独は、やがて私の皮膚にすうっと浸透してゆく。
時を待たずしてやってくるであろう夜明けの気配から逃げるように私は目を閉じる。
皮膚の内にあるnameの孤独と自らの孤独を混ぜ合わせながら。部屋を満たす闇と悲しみを吸い込みながら。
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