2020

長い髪をひとつに結んで、頭の高いところでまとめたスクアーロが、ずり落ちた眼鏡を中指で直す。普段のやかましさはなりを顰めて、彼にはそぐわないどころか知的な雰囲気すら醸し出しているのだから笑えてしまう。
背筋は伸ばして、けれど首を左に少し傾け、時々眉間に皺を寄せる仕草は少しザンザスに似ている、と思う。
スクアーロが勉強にいそしむ姿は学生時代から見てきた。変わったのは髪の長さだけのような気がして、おかしくなって私はまた笑ってしまう。もちろん声は出さずに、口元だけで。
しばらくは任務がなくて暇な私たちヴァリアーの屋敷はひどくひっそりとしていた。ベルはここ数日姿を見ていないので、おおかたどこかでナイフ遊びを楽しんでいるのだろう。マーモンもきっと一緒だ。ルッス―リアは部屋に籠りきりでお人形遊び、レヴィは珍しくスーツなんか着てビジネスマンの真似事をしている。我らがボスは相変わらず怠惰なのかストイックなのかわからない日々を送っていて、スクアーロはといえば語学と金融に関する勉強をするのだと言って剣をペンに持ち替え机に向かう毎日だった。
そして私。
ソファにひっくり返るようにだらしなく座って録りためたドラマを見るか、さもなくば使う暇もなかったお給料をここぞとばかりに散財しに出かけるかだったのだけれど、数日でそんな刺激のない生活には飽きてしまい、春の陽気も相まってぼんやりと手持無沙汰なここ二、三日をスクアーロの部屋で過ごしていた。
初日は「暇ならお前も勉強しろ」と椅子をふたつ並べて私を隣に座らせようとしたスクアーロも、私にやる気が全くないことを悟るとそれ以上はなにも言ってこず、自分の向かうべき課題に没頭してしまった。
おせっかいな性格のためかスクアーロは人に物事を教えるのが上手だ。聞けば大抵のことは教えてくれるし、説明も簡潔でわかりやすい。こちらの疑問が解決すれば「よかったな」と理解できたことを喜んでくれさえする。
驚くべきはこの男が見返りを一切求めないということだった。「授業料、口座に振りこんどいてよね」とか「じゃあキスさせろよな」とか「いい男つかまえてきてちょうだい」とか、無言の中に見え隠れする下心やそもそもの無視なんてのはハナから頭にないような顔で、私の手からテキストを取り上げ視線を落とす。思案する横顔はいたく綺麗だ。
午前の明るい日差しが部屋にあふれていて、私は眠たくなってしまう。ベスターとお昼寝がしたいと思ったけれど、午前中は二割増しで不機嫌なザンザスの部屋に行くのも憚られ、私はソファに置いてある大きな鮫のぬいぐるみを抱きしめた。
水族館に行った時に私が買ったこのぬいぐるみは、私の背より少し小さい程度の大きさで中々存在感があるうえに、置いてあるのがスクアーロの部屋ということもあってひどく異質であるにもかかわらず、いまなおこの部屋の住人として存在を許されている。時々姿を現すアーロは適度にデフォルメされたこの愛すべき容貌の持ち主を不思議そうに眺め、鼻先を近づけてはまんざらではないといった態度をみせる。

「寝るなら自分の部屋行け」

「うるさくしてるわけでもないし、邪魔するでもないんだからいいじゃない」

「気が散る」

こめかみをペンの尻で押さえながらスクアーロはぼやいた。「ふぅん」と言った私をちらりと見ると、さっきの発言を誤魔化すようにポットのコーヒーをカップに注ぐ。飲んでいるのかいないのか、長い間カップに口をつけたままなのはきっと、私に「なんで私がいると気が散るの」と訊かれてもこたえないようにするためなのだろう。

「私も飲んでいい?」

かわりにそう言うと、スクアーロはカップからようやく口をはなして私を見る。手に持っているカップにちらりと向けた視線を私に転じるので、「べつに、スクアーロの飲みかけでいいよ」と笑った。細かいところを案外気にする彼の、一種の礼儀正しさのようなものは私の気持ちを安らかにする。ガサツなようでそうじゃなく、むしろ私を扱う時のスクアーロはとても丁寧だ。口とガラの悪さはそういうときに、照れ隠しにしか映らない。
席を立ち無言で私の隣に腰を降ろすとカップを差し出す。「インスタントの味がする」私はべ、と舌を出してみせる。「文句あるなら返せ」そう言ってスクアーロは私の手からカップを取り上げると、残りをひと息に飲みほしてしまうのだった。

「じゃあ今からおいしいコーヒー、飲みに行こうよ」

「俺が今なにやってるのか見えねぇのかぁ?」

「お勉強」

「邪魔しないって言ったのはどこのどいつだ」

「デートのお誘いを断るの?」

ひらりとスクアーロの足を跨いで向かい合う。すぐそこに顔、というかくちびるがあって、触れる前からふんわりとコーヒーの香りがした。
両手を頭の後ろに回して髪をほどく。落ちてきた髪にスクアーロは目を細めた。

「昼からにしろぉ」

「生憎お昼からは先約があるの」

「先約……だとぉ」

怪訝そうに眉を顰めるスクアーロに「そ、先約」と片目をつぶるとじっと瞳の奥を探られる。疑うことを隠そうともしない。だというのに誰と約束があるのか、とか、どこに行くんだ、とかを聞いてくるわけではないのが彼らしい。

「ザンザスとお勉強」

だから教えてあげる。私は親切だ。断じて彼の気を引きたいわけではない。断じて。
私がそう言うとスクアーロは一瞬眉を持ち上げ、そして眉間に少しだけ皺を寄せ、それから何事もなかったかのように「ハッ」と片方の唇を歪めるような返事を寄越した。
立ち上がって机に戻るスクアーロの髪が揺れる。軽やかで、けれど、どこか不機嫌そうな動きで。
うとうとしていると、勢いよく本を閉じる音、次いで閉じた本を乱暴に積み上げる音が響いた。くちびるが、自然に緩んでしまう。
近づいてくる気配。私の顔に、スクアーロの長い髪がかかる。
首に腕を回すと抱き起こされて、そのまま私たちはキスをする。

「ねえ、出かけられなくなっちゃう」

くすくす笑う私に苦々しい顔をすると、スクアーロは「さっさと行くぜぇ」と私の手を取るのだった。
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