2020

(※照星⇔name⇔雑渡)

春の朧月夜が美しい夜だった。学園が休みだからと昼過ぎに佐武村に帰ってきた若太夫に夕刻まで稽古をつけ、そのまま夕食をご馳走になった私が村の外れにある自宅に戻ったのは日が沈んでからだった。着替えを済ませ布団を敷く。火縄の手入れが終わっていないが仕方がない。できれば明るい日の光の下で細部まで点検をしながら手入れしたかったため、ぼんやりとした明かりの下で有事の際には使えるだけの最低限の手入れをし、私は愛銃を箱に収めて枕元に置いた。
たまに火縄の手入れを完璧に終えないまま夜を迎えることがある。そのような夜は必ず刀と共に寝ることにしているのだが、普段は使わないこの武器を私は永らく愛せないでいた。そもそも、手に馴染まないのだ。
火縄に比べて圧倒的に軽い刀をすらりと抜くと、心もとなく鈍い光を放った。銃口のおだやかな丸みの代わりにあるのは鋭利な切っ先で、それは私の意思とは無関係に人を殺めそうな酷薄な鋭さを有していた。刀身を鞘に納め、ぼんやりと庭を眺める。庭といってもただの草原で、趣も何もあったものではない。手をかけたところでいつ帰ってこれなくなるかもわからない独り身の仮住まいなのだ。風流を重んじるような性格でもないしな、とひとり小さく笑うと、春の気配が濃くなった。
射るような冬の寒さは薄らぎ、夜の闇の奥のそこかしこからあまくやわらかな春の気配が膨らんではほころんでいる。昌義殿の家の梅が、そういえば見ごろであったことを思い出す。素晴らしい枝ぶりの紅梅だった。もう季節が巡ろうとしているのか。年々その速度が速くなっている気がする。いずれ、季節に振り落とされるときがやってくるのかもしれない。それまで命があればの話だが。
そうして、nameは前触れもなく――いや、前触れはあった、春の気配が濃くなったのは彼女の手に梅の枝が一本握られていたからだ――やってきて、当然のように私の隣に腰を降ろした。

「これ、おみやげ」

梅の枝をぞんざいに差し出して言う。

「丁寧にどうも。しかしこの梅、どこのものだ?まだ折れ口が新しいようだが」

嫌な予感がして訊ねると、nameは「あっちの大きな屋敷の庭でちょうどいい具合に咲いていたから」と昌義殿の屋敷の方を指さした。やはり……。「あそこがどなたの屋敷か知らないわけではないだろう」ため息をつくと「そうだったっけ」としらばっくれる。こんなものを部屋に飾っておいたら私が盗んだと思われるではないか。この女はいつも面倒事を持ってくるのだ。今回の面倒事がこの梅の枝だけでないことは察しているので、それを受け取らず「で、本題は」とこちらから切り出す。

「照星、もう少し手順をきちんと踏んでほしいな」

私だって女なんだから、とわざとらしく科を作って私に寄りかかるnameは手にしていた梅の枝の先で私の頬をなぞる。淡い梅の香が鼻先を掠め、昼間に学園から戻ってきた若太夫と鶯を見つけたことを思いだした。はじめのうちは上手く鳴くことができずにいたのがたった数度それを繰り返しただけでホーホケキョときちんと鳴いたのを見て、私はなんとなくその鶯を若太夫に重ねてしまい密かに感傷的な気分になっていたのだった。

「手順?」

「そうそう、まず最初に私に会えて嬉しいって喜んで、次に抱き締めて、それからキスをして押し倒して、それでやっとさっきの質問をするの。いい?」

「面倒だ」

私はnameの手から梅の枝を取り上げると今しがた彼女が口にしたことを一度に全部してやる。これでいいか、と訊けばnameが私の髪の結び目を解くので髪が鬱陶しいことこの上ない。「雑すぎ」「良い話ではなさそうだな」「話、噛み合ってないし」不服そうな言葉とは反対の顔をして、弧を描いた唇を私の唇に押し当てる。「そのまえに足、洗わせて」囁くように言ったnameを残して桶に水を入れて持ってきてやる。見せつけるように着物の裾をあげるので私は視線を月に向けた。水の揺れる音が夜のしじまに波紋となる。無言で濡れた足をnameが差し出す。私は手拭いで彼女の脚を丁寧に拭いてやる。膝下から脛、やわらかなふくらはぎ、そして足の甲。そこまでゆくとnameは足の指を開いてみせるので、指の先に手拭いを巻き付け、指と指の間のささやかな谷間に溜まっている水を順番に拭う。
つとnameは両足のつま先を揃えて持ち上げると私の顔の前にもってくる。上半身を後傾させているため目線は低く、私を見上げる双眸は誘っているようにも挑んでいるようにも見えた。揃った足を右手で捧げ持ち、左右の順で足の甲に唇を付ける。拭いたばかりの肌はしっとりと湿っていた。せっかくの朧月夜であったのに愛でる間もないのかとやや残念に思いながら、私はnameを抱えて奥に入ると彼女を布団に転がした。

「もう少し丁寧にして」

「注文の多い女だ」

「好きでしょ、面倒なの」

火縄銃とか。とnameの口の端があげられる。「嫌味か?だったら今すぐに黙らせてやる」「照星こわーい」なんて言いながらnameは私の胸元に手を滑り込ませると肩から着物を剥ぎ、剥き出しになった私の胸元にぺたりとくっつき頬を寄せる。じっと、身じろぎしないnameは私の体温を自分自身に取り込んでいるように見えた。肩口に埋めていた顔がこちらを向く。何かを言おうとしたのでさっきの言葉通り黙らせ、ことに及んだ。

「じゃあお待ちかねの本題ね。お察しの通り仕事の話なんだけど」

寝そべって足を揺らしていたnameが頬杖をつき、仰向けになっている私を上から覗き込む。

「寝物語にしては色気がないな」

「そういうの気にする性質じゃないくせに」

私の前髪をいじろうとする手を掴むとnameはその手を私の胸に滑らせた。鎖骨のあたりに唇を寄せ「まぁでも、くのいちだし、お仕事だと思えばやれなくもないけど」とあだっぽく言うさまはろうたけているのだから平素もそのように振舞えばまだ見られるものを、こうも生意気では。「色っぽいの、いっとく?」私の顎を下から持ち上げる細い人差し指。「結構だ」と顔を背けた私に「だよね」と忍び笑いをしながら抱き付いてきたnameのすべやかな腰を撫でる。

「うちの殿が佐武に戦を手伝ってほしいんだって」

「色っぽいのは結構だと断ったのは私だが……対極にもほどがある」

昨日タソガレドキと敵対関係にある城の使者が佐武への加勢要請を記した文をもってやって来たのだ。昌義殿の心情としては評判のあまり良くないタソガレドキにできれば加勢したくないのが本音であろう。なにせあそこは関わると後々厄介ごとに巻き込まれかねない。が、しかし、きな臭さと正反対に金払いだけはいいのだ。城主黄昏甚兵衛は中々の策士として界隈では名高い。したがってタソガレドキから要請があったとならば昌義殿は当初の申し出を断ってタソガレドキに加勢するに違いない。なにせ佐武も生きてゆかねばならぬのだ。大義名分と理想は、時として生きるための足かせとなる。理想だけを掲げて生きてゆけるほど生ぬるい世界ではないことは、他の誰でもない昌義殿が一番理解しているだろう。

「殿、絶対に勝ちたいらしいよ。負けるわけにはいかんのだって、雑渡さんに言ってたもん」

「負けていい戦などあるものか」

「そうなの?私は忍びだからなぁ。よくわからないよ。まーでも、戦がなければ仕事もなくなるわけだし。佐武だって照星だって同じでしょ。忍びなんて、平和になったら商売あがったりだからね。鉄砲隊なんて、なおのことじゃない?」

「……」

「照星、この話、絶対に受けてね」

nameの指が私の首筋を撫でる。

「だからお前を寄越したのか」

nameの指を好きなようにさせたまま訊くと、彼女は含み笑いをして「まさか」と言った。

「知ってる?私は色を使った仕事はしないの」

彼女がどのような仕事をしようが私の知ったところではなく、従って彼女の言葉が嘘か真かを確かめるつもりもなかったのだが、ついnameの目の奥に焦点を定めてしまう。「本当だよ。それに照星が色仕掛けなんかに惑わされないことなんて、雑渡さんも知ってるしね」と言われ、私は極力なんでもないのだという体で視線を逸らした。

「どれだけ値切るつもりだ」

「値切る?まさか。殿はそんなせこい真似はしないもん。出す時には出すの。評判が悪いのはこういう時のために溜め込んでるからであって、今回の戦に勝てるなら報酬に色だって付けると思うよ」

「色、か」

「あ、色っていうのは私じゃないよ」

声をあげて笑ったnameは私の肩に頬をつけた。

「きっとこの話を断ったら、佐武の行く先は暗いものになると思う」

どうであろうか。この話を受けようが断ろうが行く末など誰にわかるものでもない。このご時世時流を見誤れば瞬く間に転落し、時代の波間の藻屑となるのだ。そして、正しいと信じ進んでいったとしても、その道が真に正しかったかどうかを知るときは全てが終わってからなのだから。

「昌義殿には明日私から話す」

「んーよろしくね。ねぇ、もう寝てもいい?」

私に頬ずりしながらnameは足を絡める。

「残念だがそれは無理そうだぞ」

「なんでよ」

「迎えだ」

顎で障子を示すとnameは「げ、」とちいさく声をあげて布団の中にもぐりこんだ。

「はいその通り、お迎えです」

「勝手に開けて入ってくるな。入るならせめて玄関から入ってこい」

断りもなく人の家に侵入してきた雑渡を睨みつける。だからタソガレドキと関わるのは面倒なのだ。「こんなふうに脱ぎ散らかしちゃってまぁ」と抜け殻のようになっているnameの着物を拾って私に寄越す雑渡は「話、聞いたよね。うまいこと言っといて」と目を細めると布団を剥ぐ。

「おい、寒いのだが」

「服着てないほうが悪い」

「お前とは話をする気にならん」

布団を掛け直すもnameは雑渡の手によって引きずり出され、渋々服を着せられている。

「書状持って勝手に出ていっちゃうんだからたまらないよね。照星に会いたいからってこれは駄目なんじゃないの?」

「あ、雑渡さんやきもちですか。男の嫉妬は見苦しいですよ」

「痴話喧嘩なら他所でやれ」

眉を顰めるとnameは「痴話喧嘩?!」と、とんでもないとでもいうように唸った。

「ほら、照星に勘違いされちゃったじゃないですか。それに明日になったら帰るつもりだったんだからわざわざ迎えになんて来てくれなくていいんです。書状だって、どのみち明日届ける予定だったんだし」

「あのね、物事には手順ってものがあるの。わかるでしょ」

やれやれと額に手をあてた雑渡はnameの帯を結び、私をちらりと見る。「照星からもなんか言ってやってよ」と視線で言うので私は頭の下で腕を組みながら口を開いた。

「name、お前、雑渡に似てきたんじゃないのか」

「私が?雑渡さんに?ありえない」

自分は手順や順序など気にもしないくせに、他人にはそれを求める。
「嬉しいねぇ」と口元の布を歪ませ笑う雑渡の手の甲を抓り「絶対、ありえない」とまだ嫌そうな顔をしているnameは、雑渡が結んだ下手くそな帯の結び目を解いて結び直す。その手つきが酷く手慣れていたのも、本来ならば面倒くさそうなそぶりを見せるはずの彼女がそっぽを向いた結び目に不平を言うでもなく結び直したのも、そのやりとりがふたりの間で幾度となく繰り返されてきたであろうことを物語っていた。そんなつもりはないだろうし、そもそもnameと雑渡からしたら気に留めるほどでもないのだろうが、見せつけられているような気がするのはどうしてか。

「はい、じゃあ行くよ。帰ったら私もnameも山本にたっぷり叱られるから覚悟しとくこと」

「なんで雑渡さんまで?」

「だって勝手に出てきちゃったから」

「うわぁ」

「うわぁって、nameも同罪でしょ。そもそもnameが勝手に出ていかなければ私がこんなところまで来る必要なかったんだけど?」

「おい、こんなところとは失礼な奴だな。もう眠たいからお前たちはふたりまとめてさっさと帰れ。うるさくてかなわん」

「やだ、朝まで照星といる」

「はいはい、帰りますよ」

そう言って雑渡はnameを担ぎあげると「邪魔したね、照星」といやにゆっくりとした調子で私の名を口にした。「まったくだ」ため息交じりに返事をする私に「しょーせー!!」とnameが未練がましく手を伸ばすも、既にふたりは春の闇に溶けかけているのだった。
どのみちまたすぐにまみえることになるのだ。のそりと起き上がり着物を羽織り、私は枕元の刀をそっと撫でる。今宵の訪問者がこれを抜くような者でなかったことに感謝せねばなるまい。

タソガレドキの本陣へ向かう私たちが道中足を休めていると、森の奥から殺気のような気配を感じて私は薄暗がりに目を凝らす。昌義殿に断りを入れ、茂みをかき分けしばらくゆくと案の定交戦の真っただ中だった。「や、」と背後から私の肩を叩くのは雑渡で、敵と対峙しているのはnameであった。木立が鬱蒼と茂った森は昼間だというのにどことなく心細くなるような薄暗さで、苦無同士がぶつかるたびにうっすらと火花が散っているのが見えた。

「この前の一件で、佐武がうちの本体に合流するまでの護衛を押し付けられちゃったんだよね」

「ひとりも欠けることのないよう頼むぞ」

「nameが頑張ってるから大丈夫でしょ」

見ての通り、と指さした先など見ずとも戦況は明らかだった。血飛沫の向こうから私を見たnameは、私と目が合うや否や背中の刀を抜いててきぱきと残存者を始末し、疲労を微塵も感じさせない足取りでこちらにやってくる。

「心配してきてくれたの?照星優しい!」

笑顔を見せるが彼女は抱き付いてくるような真似をせず、私と一定の距離を保っている。「私に対する態度と温度差がありすぎじゃないの?」と言っている雑渡を無視してnameは私をじっと見つめる。聡明そうな眼はひと度捉えられると容易には逃げ出せず、自分の思惑とは無関係にいつまでもその奥を見ていたくなる不思議な吸引力を持っていた。

「たまたま通りかかっただけだ」

「どっちにしても会えて嬉しい。でも、もう行った方がいいよ。じきに敵の追手が来るから」

「nameの言う通り。佐武の首領にそう伝えなよ」

nameと雑渡が私を急かした。nameの頬が血で汚れていて、それが彼女から流れ出たものではないとわかっていながらも私はとても不愉快な気分になり、拭ってやろうと手を伸ばす。がしかし、彼女は身を引き私が触れることを許さなかった。

「嫌いでしょう、血も、これも」

手にしていた刀を軽く持ち上げそう言ったnameの顔に影が落ちる。梅の枝を手折るのと同じ気安さでこの女は命を摘むのだ。彼女の背後に立つ雑渡はまるでnameの不吉な影帽子のようだった。背に背負った火縄銃を入れた箱が存在を主張するかの如くことりと音をたてる。そうだ、私は血も刀も嫌いなのだ。
火縄を主な獲物とし、佐武に身を寄せて以来私が刀を手にすることは無くなった。暗器も同様、忍ばせているとはいえ使ったことは久しくなかった。相手と自分との距離感に慣れすぎた私は、刀嫌いが加速の一途を辿っていることをはっきりと自認していた。目的も結果も同じだというのに、相手と自分の間に開いた距離の分だけ罪悪感が薄れるような気がするのはなぜなのか。撃ち損じぬように、ひとおもいに仕留められるように。その為だけに腕を磨いてきた。せめてもの罪滅ぼしのつもりなのだろうが、我ながら浅ましいと思う。狙撃手家業に自負も矜持も持ち合わせているが、しかし、その一方で血飛沫を浴びることも、腕の中で断末魔を聞くこともないこの戦い方をどことなく卑怯だと思わないでもないのだった。
nameが帰った翌朝、枕元の刀を壁に立てかけた時の表しようのない開放感を思い出し、私は伸ばした手を静かにおろした。

「どうだかな」

「……またね、照星」

唇の端をそっと持ち上げてnameが微笑む。と同時に飛んできた手裏剣を雑渡が苦無で弾き落とした。「ほら、行きな」口元を見なくても雑渡が笑っているのがわかる。お前のいる場所はここじゃないと細くなった目が告げていた。ならば私のことなど放っておけばよいものを、なぜこのふたりは捨ておいてくれぬのか。気まぐれに顔を出しては二対の腕が私を誘う。彼らの手に掴まれると自分の身体が腐肉になってしまったような錯覚を抱くのだ。火縄を取り落とした両腕に二十の指が沈み、彼らの指の隙間からは私の残骸がぼろぼろと零れ落ち、やがて一握りの黒色の粉末になって風に舞う。
踵を返すと桐箱の中でことことと子どもの足音のような音がした。
木立を抜けた私に陽の光が正しい分量で降り注ぐ。目が眩みそうな明るさだったが、これが昼間の明るさなのだ。忘れていたのか、と自嘲的に唇を歪ませた私に昌義殿が手を振っている。

「そろそろ出発しようと思うのだが」

「先を急いだ方がいいようです」

私の言葉に軽く肯き昌義殿は馬に跨った。彼の腰にもまた刀が下げられている。
「同じ穴の狢だよ、照星」風に乗って声が聞こえた。雑渡の声だったのか、それともnameの声だったのか。
火縄銃を手に取り不具合がないか触れながら確かめる。火ばさみはnameの鎖骨によく似ていた。つるりとした手触りや、肌に馴染む熱。床尾のなだらかな曲線はふくらはぎを思いおこさせる。「好きでしょ、面倒なの」縄に火をつける。目を閉じ深呼吸をすると嗅ぎ馴れた火薬と煙のにおいが身体を満たし、意識がゆっくりと冴えてゆくのがわかる。合図を待つ私の頬を春の風がいたずらに撫でた。

「好きなのかもしれないな」

身体に染みついた手順で発砲する。揺れる鼓膜は音を遮断し、霞む視界が私を閉じ込める。
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