2020

終わらん終わらん終わらん終わらんという焦りと終わらせる終わらせる絶対に今晩中に終わらせる明日こそは寝てやるという決意を頭の中で戦わせながら算盤を弾く。仙蔵は明後日まで実習でいない。今夜中に終わらせることかできれば明日はゆっくりと眠れる。そしてまた翌日から忍者のゴールデンタイムをギンギンに過ごしてやろうではないかとほくそ笑んであと数行で終わる数字の列を追う。よし、これでこの帳簿は合うぞ、あぁ、終わりが見えてきた。最後のひとはじきをしようとした俺の目の前に音もなく何かが降ってきた。飛び散る墨、舞い上がる紙。そこから姿を現したのはnameであった。でんと俺の膝の上を陣取るnameにこんな時間になんのようだ、そもそもなんで勝手に人の部屋に忍びこむのだ、というか膝の上に乗っている理由を説明しろさもなくばこの惨状を今すぐどうにかしろと怒鳴ろうとするとバツンと両の頬を叩かれた。意味がわからない俺が何をしたというのだ。鍛錬を我慢し山積みの帳簿と真面目な態度で向かい合っているだけではないか。このような仕打ちを受ける覚えはない!しかしどうやら叩かれたのではなく頬を挟まれたようだった。お前、手冷たいぞ。いや違うそうじゃない。言うべき言葉はそれではない。しかしnameは何も言わないどころかひどく憮然とした顔で俺の顔をまっすぐ見ている。そしてなんの前触れもなく唇を押し付けてきた。
は?
あたたかくやわらかな唇の感触を俺の頭が認識したころ、ようやくnameは唇を離す。これは、そのようにされるものなのか。そうではないような気がする。だってお前、そんな目も開いたまま、歯を磨くような顔で口付けられた俺の気持ちにもなってほしい。挙句の果てに「キスってこういうものなの?」と訊ねられ、10キロ算盤でぶん殴られたような衝撃に包まれる。

「知らねーよ!」

叫んだ俺を一人残してnameはさっさと元来た天井裏に姿を消した。「帳簿……」と部屋に広がる惨状を呆然と眺めていると俺の大声に何事かとほか二部屋の奴らがやってきたが相手をする気も事の次第を説明する気も全く起きず、何もかもが嫌になり俺は散乱した紙の上に仰向けで大の字になった。
翌日学園の片隅でnameを見つけた俺は昨晩のことを問い詰めるべく一目散に走り寄っていったのだが、なりふり構わなかったせいで普段ならば絶対に落ちないであろう綾部喜八郎の掘った落とし穴にはまった。しかもnameの目の前で。災難続き!ろ組の部屋を通り越してい組にも伊作の不運の魔の手が忍び寄っているというのか。俺を巻き込むのはやめてほしい。だークソと額を土に叩きつけると穴の中に差し込んでいた光が一瞬遮られる。

「どうしてお前まで来るんだよ」

nameがまたしても俺の膝の上に乗っている。穴に入るのではなく落ちた俺を引き上げるとかなんとかしろよバカタレ、の「バカタレ」の部分だけが溜息とともに声に出た。馬鹿じゃないし。と目を眇めたname。その顔をしたいのは俺の方だよ。

「昨晩のあれはどういうつもりだ」

「授業で習ったことを確かめたかっただけ」

「……はあ」

授業というのは恐らく色事のあれそれなのだろう。女は怖い。とくにくのたまは。バケモノ、いや、化け猫だ、と思う。
最高学年である六年生は女子のほうが数が少なく四人しかいない。少数精鋭とはよく言ったもので、四人とも実に優秀であり見た目こそ美しいがその内実は。ひとたび忍務にでると化けの皮を剥がすような真似はしないが、学園内では皮をかぶろうともせず本性を曝け出しているので忍たまの面々にはある意味で先生方よりも怖れられていると言っても過言ではない。我々六年生も一年の頃から苦い思い出を積み重ね今に至るのだ。
今となっては合同実習あるいは忍務の際にしか関わり合いになりたくないと六年生全員は口を揃える。何かにつけて高飛車で見下ろすような発言ばかりされれば致し方なかろう。
俺とnameは実習や忍務でペアを組むことが多かった。三年の頃からなんとなくそれが普通になり危ない橋も幾度となく共に渡った。nameはいつも飄々としていて、そのさまは仙蔵にどこかしら似ているところがあるのだが仙蔵のほうがよほど人情味がある。人形のような見てくれなのだから――これは褒めているのだ、俺なりに――もっと愛想よくしたらいいものの、母親の腹の中に感情を置き忘れて生まれてきたんじゃないかと疑いたくなるほど無表情なのだ。笑うとしても、花開くだとか鈴が鳴るだとかおおよそ女が笑うのに使われる表現とは全くかけ離れた、唇を僅かに持ち上げるだけのいわば冷笑しかこれまでこいつがしたのを見たことがない。それも、無論楽しくて笑っているのではない。俺を小馬鹿にして笑っているのだ。
しかもたちが悪いことにそのよしみを利用してしばしばnameは俺をパシリに使う。外出許可をもらってきたことを何処からか嗅ぎつけてはやれあの店の団子を買ってこいだの新しくまんじゅう屋ができたらしいから寄って見てこい(と言うのはつまり買ってこいという意味なのだ!一度、仕方なく寄って見てきた店の様子を事細かにnameに話してやったら便所虫を見るような目を俺に向け「で、おまんじゅうは?」と手を出され、見てこいと言っただけじゃないかと抗議したら鳩尾に拳をくらわされて以来俺は忖度というものの存在を知ったのだった)だのと言付けられる。たまったもんじゃねーよとこぼせば「いやそれはお前が甘やかすからつけあがってるんじゃないのか」などと留三郎にド正論をかまされて正にそうなのだがと悔しく思うもnameを怒らせるのも七面倒であるし、かといってもし留三郎が俺の立場だとしてnameの頼みを断れるのかと問えば「無理だな」と即答するのでぶん殴ってやった。だいたいお前だってパシられてるじゃねーかということは、右手に趣味じゃない可愛らしい包みを持っている留三郎には言わないでやった。

「勘弁してくれ」

「なにを」

「なにをって、全部だよ」

お前の目茶苦茶加減にはいい加減疲れた。その言葉は湿った土に染みこんでいった。穴の底は無駄に静かで、俺の膝の上を陣取っているnameの重みと甘い香りだけがはっきりと俺に届く。

「潮江はなんにもわかってないんだよ。まぁ私もなんだけどさ。だから教えてよ」

要領を得ないので何をだよと聞き返そうとすると、nameの手のひらが俺の目を塞ぐ。けれどnameの小さな手では俺の視界の全てなど覆いきれるはずもなかった。

「……またすんのかよ」

うん。と囁かれた言葉は濡れていた。そっと押し当てられ、離れる、と思うとまたささやかな圧が唇を押す。昨日の夜よりずっとしめっぽい口づけだった。

「どう?」

「いやどうって聞かれても困る。逆に聞くがお前はどうなんだよ!」

落とし穴の中で俺たちはいったい何をしているんだ。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。nameは口元に手を当て考えている。左右に視線が揺れるたびに長いまつ毛の先が淡く光る。しばらく考えこんだ挙句nameは「唇と唇をつけることによって心地よくなり胸が高鳴りときめきを感じる。これは相手に情欲を起すきっかけとなる
」と教科書に書いてあることを読むような調子で言った。って、山本シナ先生がおっしゃっていた。と付け加えてもああそうかよという感想しか出てこない。

「心地よかった?」

「落とし穴の中で無理やりされて心地いいもクソもあるかバカタレが」

「潮江は健全な男子じゃないんじゃない?」

「あぁ?そんなもんお前のやり方が悪いんだろ。ちゃんとそれなりにされたら俺だって心地よくなるし情欲だって湧くに決まってんだろうが」

「ふーん」

売り言葉に買い言葉でいらんことまで言ってしまったと気づいた時にはnameの重みは消えていて、穴の中には俺ひとりと、nameの首筋から立ち上っていたあまやかな香りだけが残された。なんとか落とし穴から這い出て拝んだ陽の光が目に染みて涙が出た。これ以上厄介なことになりませんようにと御天道様に手を合わす。
その翌日の夜、俺は自分の願いが御天道様に無事却下されたらしいことを知る。穴に落ちた当日はビクビクして過ごしていたのだがあれからnameの姿を見ることはなかった。
何だ諦めたのかと気分もいくらか軽くなりその夜は帳簿もまとめ終わって安眠を貪った。翌朝の目覚めもよく、実習から帰ってきた仙蔵にことの顛末を愚痴れば「押し倒してやれば良かったのだ」とあまりにもな言葉を返され、じゃあもし今度あいつが部屋に押し入ってきた時はソレお前がやれよと食って掛かると仙蔵は涼しい顔で構わんがと言うのでさっきまでの清々しい朝の目覚めもどこへやら黒雲が心を覆いだすような気分になるのだった。
その夜のことである。衝立を挟んで入口側の仙蔵は書物を読み、奥の俺は机に向かって算盤を弾いていた。さすがのnameも仙蔵のいる部屋に押し入ってくるような真似はしないだろうと心安らかに指を動かす俺はともすれば鼻歌なんかも歌ってしまいそうで、なんならこの仕事が終わったら夜の鍛錬にでも繰り出すかなんて思っていた矢先に案の定というかなんというか部屋の扉がガラリと開かれた。扉に背中を向けているので誰が来たかはわからない。わからないしわかりたくもない。衝立があるからもしかしたら気が付かれないかもしれないと思って俺は机にめり込むぐらいの勢いで身体を伏せる。

「どうした」

「立花」

声をかけられて初めて仙蔵の存在に気付いたとでもいうように仙蔵の名を発したnameはそのままじっと固まっている。

「入らんのか?用があるのではないのか」

「立花」

「なんだ」

自分の言ったことをそっくり無視された仙蔵は若干のいらつきを声に滲ませているが、残念だったな仙蔵そいつはお前の感情の変化などこれっぽっちも気にかけるような女ではないのだ!ということでnameは次なる攻撃もとい発言を静かに呈する。

「立花なら?」

「……」

nameの言わんとしていることを汲み取ったらしい仙蔵はふむと考える素振りをして「試してみるか?私は構わんぞ」と愉悦まじりに言う。いやまて確かにけしかけるようなことを言ったのは俺の方だがまさか本当にするとは思わないではないか。最悪唇を噛みちぎられるぞ。なんとも言えない嫌な気持ちを胸の中にわだかまらせている俺などお構いなしに聞こえてくるのは戸を締める音と、かすかな衣擦れの、音。音だけで判断するにはあまりにも状況が状況であり、見たいのだが見たくない気持ちのほうが勝り、と思えばやはり怖いもの見たさの好奇心が俺の身体を動かしてひょこりと衝立から俺は顔を覗かせてしまう。なんて間抜けな絵面!間男にでもなったような気分で俺は息を潜める。
nameは座っている仙蔵のところへゆくとストンと腰を下ろして向かい合う。

「お前からするといい。授業ではどう習ったのかしらんが」

「わかった」

ゆっくりと顔を近付けそれ以上は無理だというところまでいくとnameは動きを止めた。そうして俺にしたように顔を離そうとしたnameの後頭部を仙蔵が掴む。一瞬びくりと肩を上げたnameはしかし抵抗することはしなかった。無理だ俺には無理だ同室の男が女に口付けている光景など直視に耐えん。俺は顔を引っ込め膝を抱えた。そのまましばらくの間無音だったというのにいつの間にかなにやら濡れたような子犬がぺちゃぺちゃと乳を飲むような音が聞こえてくる。のみならず「っ」だとか「っは」だとか湿ったような熱いような吐息まで聞こえてきて、それは他の誰でもないnameのもので、俺はnameがそんな声を上げるのなんて聞いたことがないので驚いた勢いでそのまま振り向きざまに身を乗り出してしまった。仙蔵が、力の抜けたnameの後頭部と腰を支えながら実に手際よく、実に自然な動作でnameを押し倒してゆく。下ろしている髪が帳のようにふたりの顔を隠していた。邪魔そうに仙蔵が髪を耳にかけると、床に広がった二人の髪が絡みあって波のように揺れていた。

「どうだ」

額と額をくっつけたまま仙蔵がnameに訊く。nameが無言でいると仙蔵はまた唇を合わせるが今度は桃を齧るようなやり方だった。なぁおいもうやめてくれ、頼む、やめろ、やめてください。ずるずると衝立を背にへたり込んだ俺は耳を塞いだ。

「わかった」

「それはよかった」

「でも、情欲は湧いても胸は高鳴らない」

「ならばあとは文次郎に頼め」

塞いでいても聞こえる会話に巻き込まれた俺は耳を塞いだまま「断る!」と叫ぶも「私は伊作に用があるのでこれで失礼する」とあっさり部屋を出て行った。無音。先に動いたら負けだと思って俺は身動ぎひとつせず膝を抱えたままでいる。このまま気配を消していたら本当に身体が透明になってどこかここではない場所に移動していたり、なんてことはねぇよなハハハと胸の中で乾いた笑いを漏らす。
nameがこの部屋から出ていかない限り事態は収束しない。では俺が出て行ってはどうだ?留三郎と予算の話があるとかなんとか理由をでっち上げて仙蔵のようにサラリと部屋を出て行けばいいのでは?そうだそれがいいそうしよう。俺がいなくなれば流石のnameも自分の部屋に帰るだろう。帰って寝たらこんな事など朝起きるころには忘れているだろう。夢だったと思うに決まってる。そうだそうに違いない。ひとり部屋に残されたnameを思うと胸がチクリと痛まないでもないが、これしか残された道はない。
意を決して立ち上がろうとした俺は衝立越しに背後からnameに腕を回された。伸びてきた両手は小平太が後輩にするように俺の顔を無理矢理上に向けてくる。頭がもげる!と怒鳴る前にnameの垂れた髪が俺の顔をくすぐった。そうして、ああ、結局こうなるのか。

「なぁお前、さっき仙蔵としてたやつと全然違うだろコレ。学んだんじゃねぇのか」

「さっきのなんて、忘れた」

色気もクソもなく衝立を飛び越えると(横着にもほどがある)、nameは俺の顔の両わきに手をついて「だからさぁ、潮江が責任持って教えてよ」と勝ち気な目を潤ませて言うのだった。
後からつべこべ言うんじゃねーぞと睨んでやったけれどnameの瞳に映る自分の顔は凄みの欠片もない顔をしているので、さっさとこいつが目を閉じてしまえばいいのにと思って俺はnameの唇を塞いだ。

「ねぇ潮江、心臓が壊れそう」

「馬鹿、お前の心臓がこんなことで壊れるかよ」

心臓が壊れそうなのは、こっちだっての。
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