2020

図書室にやってきたnameはそそくさと私の隣に腰をおろす。宿題、難しくて。と眉を下げているので彼女の持ってきた本を開いてみる。「ここの、これがね、」と指差した箇所はなるほど確かに難解だった。ふむ、と考え込む私の横顔を傍らのnameがじっと見ている。それに気づかないふりをして、というのも意識するとどうしてもnameの方に視線が向いてしまいそうで、そのようなことを考えている時点で意識しているということに変わりないのであるから私の意識は本の表面をふわふわと漂うに留まる。難しい問題ということは理解できても、思考がnameに吸い寄せられてしまい解を導くのに大層な時間を要してしまった。
「これで、合っていると思う」nameを見ずに言うと、それでもnameは私の目をきちんと見て「ありがとう」とはにかんだ礼を述べ、これで山本先生に怒られずに済むと机に覆いかぶさった。
長次くん、長次くん、と小さな声で名前を呼ばれた。もう少しここで本を読んでいってもいいかと訊ねられるものだと思っていた。いつもそうであるように。わずかに身体を傾けるのを返事の代わりにした私の耳に唇を寄せたnameは、まったく予想していなかった言葉をあまやかに囁く。

「いま、図書室にいるのって、長次くんだけ?」

そうだ、と答えたら何かが起こるのだろうか。予感していることとそうなってほしい気持ちと、自分がそうしたいという願望がない混ぜになり鼓動を早める。無言で肯くと、視界の隅でnameの手がきゅっと握られるのが見えた。
そうしてひと呼吸。身体の左側に、衝撃を受ける。衝撃というにはあまりにも控えめでささやかなものだったにもかかわらず、私の身体はそれを衝撃として認識していた。小平太に食らわされる突撃とは何もかもが違う。そのへんの者であれば吹き飛んでしまう小平太の落石のような抱擁をいつも難なく受け止めている自分が、たった今、nameによる春風に吹かれた程度の抱擁で明らかにぐらついた。いや、違う。ぐらいついたのは身体ではない。心、だ。
開こうと思い手にしていた本の表紙が汗で湿ってしまいそうなのに、指がうまくいうことをきかない。これほどまでに自分の身体に不自由を感じたことなどなかった。
昔から本が好きで、どのような種類であれ活字があればひと通り読まねば気がすまなかった。色恋について書かれている本もそれなりの数を読んだけれど、活字が私に与える男女の間の出来事はどれだけ緻密に描かれていても紙の上の出来事でしかなく、たとえ心震えようとも本を閉じてしまえばいつの間にか記憶のどこかに紛れてしまうものばかりであった。つまり耳年増であったのだが、嗚呼なるほどと知識で知っていたのみの恋情というものを実際に体験してみると、書物に記してあるとおりにすればどうなるということはわかっていても、心も身体も思うように動いてくれず、これまで蓄積されてきた知識のみならず積み重ねてきた鍛錬によって鍛えられた精神と肉体など無意味極まりなく、己などまるで嵐の中に灯された一本の蝋燭のように心許ない存在と成り下がるのだった。
空いていた右手でかろうじてnameの頭を抱き寄せる。艷やかな髪の感触に、がさついているであろう自分の手で触れていいものなのかわからなくなり触れたばかりだというのに手を引っ込めたくなる。けれど、一度nameに触れたが最後、さっきまでのぎこちなさが嘘のように私の腕は滑らかに動き両方の腕でnameの身体を抱き締めている。「わぁ」驚いたような声が腕の中から聞こえてきて、身体の中心から桜吹雪がわっと吹き出したような錯覚を覚える。まだ桜には早いというのに。外にはうっすらと雪すら積もっているというのに。
喉のあたりに花筏よろしくわだかまるものの正体がきっと恋なのだ、と思った。苦しくても取り除けず、意識すればするほど苦しくなる。それでいてどこまでも芳しく甘い。

「今日と明日、小平太は実習で留守にしている」

自分が言った言葉の意味を理解したのは、それを耳にしたnameよりも後だった。私は、何を言った?なんのつもりで?

「……うん、」

たっぷりの空白の後、腕の中でnameの頭がこくんと頷いた。うん、とは。その意味を聞きたくても聞けず、そもそも自分が「そういう」つもりあるいは意味で誘ったのかすら自信がなくて。もとより「そういう」覚悟が私にはあるのか。ふわふわと小さく、こうしてそっと抱きしめているだけでも壊れてしまいそうなnameを、組み敷いて抱くことなど私にはできるのだろうか。
不埒な想像にざあっと血の集まる音がして、あ、と思った時には手遅れの状態だったので、私はできるだけ自然なふうを装ってその状態の自らをnameに悟られないよう身体の向きを変え、ひたすら先週読んだばかりの老子を心の内で諳んじた。
幸いにも気が付かれず、熱が引いたことに安堵の息をついたのもつかの間で「あの、それって、そういう……」と顔を真っ赤にしたnameにみなまで訊かれ、これまでの人生において読んできた本の山に火が放たれ、ぼうぼうと燃え盛る煙が耳の穴から立ち昇っているような気がするのだった。
百聞は一見に如かず、という言葉が天からはらはらと灰の山の上に落ちてくる。熱を持った手のひらが熱い。どころか、身体中が熱かった。
どれだけ難しくとも解の定まった問題の方がよっぽど気安い。nameの髪に頬を寄せ、「そういう、ことだ」と囁いた声は震えていただろうか。扉の向こうで誰かが床板を踏むギシリという音で私たちはふたりして肩を跳ねさせた。
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