2020

夜間訓練は嫌いではない。肌が荒れるからと他の女の子たちは嫌がるけれど。木の枝に腰掛けて堀の向こうの見張り櫓に目を凝らす。うろうろと数人が眠たげに歩いているだけで、今私がこうして監視の目を光らせていることなど露とも知らない様子であった。暇を持て余して枝にかけた膝で逆さ吊りになっていると木の葉が一枚頬を掠め、次いで仙蔵が姿を顕した。

「さぼるなよ」

「暇で暇で身体がなまっちゃうよ。むしろその前に凍えそう」

「甘えるな、とい言いたいところだが同感だ」

手のひらを握ったり開いたりして感覚を確かめている仙蔵はふむと鼻を鳴らすと「確かに今宵は冷える」と指先に息を吹きかけた。
月は細く、したがって明かりもほとんどないというのに仙蔵の顔はぼんやりと闇に浮かんで見える。色白め。
城内にさしたる変化は見られず、ここのところ小競り合いもないがため城兵の士気はそう高くない。密書を櫃に忍ばせるという課題もおそらく難なくこなせそうだった。無論、敵を侮っているわけではないけれど。
接近して様子をうかがいに行ったらしい仙蔵はぽつぽと仔細を語り、けれど私は話半分、仙蔵の綺麗な横顔を淡い月明かりの中で眺めていた。「というわけなのだが、聞いていないだろう」じとりと睨む切れ長の眦までもが美しく、「うん聞いてなかった」と肯くと頬をつねられた。

「仙蔵に見惚れてた」

「それは勝手にすればいいが話はきちんと聞け。私の労力を無駄にするな」

「はぁい」

気の抜けた返事をして、よっ、と腕を振り身体を回転させふたたび枝に座り直し、幹に寄りかかって腕を組んでいる仙蔵の足にもたれかかる。邪魔だと足蹴にされるかと思いきやそうされなかったのは意外だった。
仙蔵のことが好きだ。刀の切っ先みたいな危うい美しさを持つ仙蔵のことが。これまで何度となく彼に好きだと言っているけれど相手にされないのは、私の言う好きが男女間で交わされる情愛混じりのそれといささか異なるものだと仙蔵が判断しているからだった。そして彼の判断は間違っていない。
そもそも、仙蔵が間違えることなどないのだ。だから私は安心して彼への好意を口にできる。
仙蔵の美しさは彼だけで完結している。私の入る余地はない。だから、良い。彼は気高く、そして、正しく忍びであるのだ。

「文次郎たちうまくやってるかな」

「心配いらん。いざとなったら加勢するまでだ」

ふふん、と微笑った仙蔵はまるでそうなればいいとでも言うように、懐に右手を差し入れた。隠し持っている焙烙火矢を遊んだ指先は、きっとかすかに火薬のにおいがすることだろう。その指を唐突に欲しいと思った。仙蔵の手首を無遠慮に掴んで手のひらを自分の頬にあてると、やはりふわと一瞬だけ鼻先を掠める。

「どうせなら首筋にしろ。その方があたたかい」

「ん、いいよ」

どうぞ。と顎を上げると私の頸を仙蔵の両手が包んだ。ひんやりと冷たい手。親指で筋をなぞられ思わず声が出た。

「こうして触れるとお前が女であることを思い出す。たやすく手折ってしまえそうだな。私にはむしろnameがそれを願っているようにも思える」

仙蔵が喋るたびに喉仏が上下する。私の喉にはない突起。

「仙蔵に殺されるのかぁ。だったら死ぬのも悪くないなぁ」

むしろ今でもいいんだよ。そう言って自分に浮かんだ笑みは心からのものだった。仙蔵なら綺麗に殺してくれそうだから。迸る私の血しぶきで赤く染まる彼はさぞかし艶やかなのだろう。だって、唇や眦に引く紅は仙蔵によく似合うから。
見上げた彼のうら白い顔に空想の紅を引いていると、仙蔵に唇を塞がれた。そんなことをされると思っていなかったので私はぽかんと目を開いたまま、視点のあわない視界いっぱいに映る仙蔵を阿呆のように眺めてしまう。呼吸をすることさえ忘れ、唇が離れてしばらくしてようやく大きく息を吸うことができた。

「心臓、止まった」

「当然だろう、殺してやったんだからな」

結んだ唇を持ち上げて仙蔵は言う。
そうか、私は今殺されたのか。じゃあここはあの世ということでいいのだろうか。さっきまで見ていた世界と同じだけれど、少しずつ何かが違う。夜の輪郭は濃さを増し、しじまの無音がはっきりと耳に届いている。真夜中だというのに世界は極彩色で、なるほどこれが極楽浄土かと思いきや、私のようななんの徳も積んでいないどころか人を殺める作法ばかりを日々学んでいるような人間が極楽浄土にゆけるはずもなく、それではここが地獄かと言われればそうでもなさそうで、あぁでも仙蔵が一緒にいてくれるのならどこだっていいかとどうでもいい心持ちになり私は「仙蔵、好き」と馬鹿のひとつ覚えみたいなことしか言えないのだった。
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