さようなら

見ろよ、ただ飯食いがどの面下げて歩いてやがる。
ただでさえ少ない食糧を食うだけで何にも産みだしゃしねぇ。
ちょっと、聞こえちまうよ。

通りを歩く私たちに投げつけられるのは町の人間の冷たい言葉。
隣を歩くエルヴィン団長をちらりと盗み見るも、彼は眉ひとつ動かしていなかった。
仲間たちの大多数は聞こえてくる悪態に怒りをあらわにする者や申し訳なさそうに顔を伏せる者ばかりだった。
けれど私は違う。
まっすぐ前を見て私は思う。
怒りも憤りも、ぶつけるべきは人類の敵である巨人なのだ。
私を拾ってくれたのは他の誰でもない団長だった。
土埃にまみれ、泥水を啜り、ぼろ布にくるまって眠っていたゴミ溜のようなあの場所では、人も犬も命の価値に変わりはなかった。
そんな場所から救ってくれた。
私がこの人に全てを捧げるのに、理由なんてそれだけでよかった。
それ以来私は昼も夜もないほどに学び、鍛錬を積んだ。
だれよりも強くなり、誰よりも近くで団長を守るために。
軋む筋肉や潰れた血豆が身体に与える痛みですら、肉体が団長に仕えるという歓喜に湧いているのだと信じて疑わなかった。
盲信的ともいえるほどの忠誠心のみを糧に、私は他の追随を許さないスピードで今の地位まで上り詰めた。
どうせ死ぬのなら緩慢な死を待つのではなく、意義ある死を。
走れと言われればどこまででも駆け、殺れと言われればどれだけだって殺る。
死さえも厭わず全ては彼の命じるままに、私の心臓は既に団長に捧げてあるのだから。

「団長、次回の壁外調査の件ですが」

「なんだ?」

「私に班をひとつ任せてもらえないでしょうか」

「それはできない」

「何故です」

「君が私の隣にいないと困るんだ」

「……」

私の内心を見透かしている団長に上手く要求をかわされ、私は黙りこむ。

「リヴァイのことは気にするな」

「気にしてなんかいません」

「だったらいいじゃないか」

地下街から引き抜かれてきたリヴァイという男は噂に違わずかなりの実力者だった。
ろくな訓練も受けていない癖にあっという間に昇進に次ぐ昇進を重ね、いまでは誰もが一目置く存在となっていた。
けれどどこの馬の骨ともしれない(この際自分のことは棚にあげておくとしても)男にこの地位を奪われたくないのだ。
血の滲むなんてものではない努力を重ね、私はここまでやってきた。
私がこの場所を守るには、戦功をあげるしかないのだ。
団長の横に立ち続けるためには。

「団長、お願いします」

「だめだ」

「私は、」

「name」

知らぬ間に力が入っていた肩に団長の大きな手が置かれる。
青い瞳に射抜かれて、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。







あっという間に時は過ぎ、壁外調査当日の朝。
やかましく鳴り日々く鐘の音と人々の雑踏を背に、私たちは馬にまたがっていた。
団長を先頭にして後方にミケ、右手に私、左手にリヴァイという配置での小隊であった。
壁外へ出る高揚感と緊張感に、手綱を握った手に汗がにじむ。
前方の門を見つめ、大きく息をはいた。

「name、無茶はするなよ」

「……」

「name」

「…はい」

振り返って声をかけてくれる団長に、私は渋々返事をする。
白馬のひと際大きな嘶きの後に団長の号令があがると、それに続くようにして地鳴りとも咆哮ともつかない声が湧きあがった。
それを受けて門が低い音を立てながら巻き上げられてゆく。
登り切っていない陽の光が斜めに差し込み、開いた門の向こう側には自由の世界が広がっていた。

「進めーっ!」

白馬の前足が空をかく。
出発の時。
石畳をかける高らかな足音はやがて、大地の土を蹴る力強い音へと変わっていった。
後ろへ後ろへと流れてゆく景色の中、張り詰めた馬の筋肉のしなりを馬上で受け止める。
隣を走るリヴァイを見れば、前方のみを涼しい顔で見据えていた。
殺気立った瞳で私が見ていたのに気が付いたのだろう、こちらを一瞥して「よそ見してんじゃねえ」とその薄い唇が動く。
ごうごうと耳元で鳴る風の音が雑念をかき消してくれそうな気がして、私はほんの少しだけ馬のスピードを上げた。

「エルヴィン、右後方から来るぞ!」

背後のミケが声をあげるのと同時にその方向から次々と赤色の煙弾が上がる。
一瞬にして隊列に走る緊張に、額に汗がにじむのを感じた。

「左に進路を変更!」

そう言った団長は腰もとに付けられたピストルを抜き引き金を引くと、緑色の煙弾を左方向に高々と打ち上げた。

「大丈夫かなぁ」

「走り抜ければ無理に戦う必要はないんだ、足だってこっちのほうが速い」

右後ろを振り返る私にミケが言う。

「速度を上げろ!振り切るぞ!」

手綱を握り直し前傾姿勢をとると、全員一気に加速する。
耳元で唸る風に混じって聞こえてくる巨人の足音。
恐怖など感じない。
先程まで肺を満たしていた空気をすべて吐き出し、進行方向に目を凝らす。
どうやら被害は出ていないようだった。

「このまま森へ向かう」

ある程度走りぬいた後に速度を落として団長は言うと、後方をぐるりと見回した。

「目立った被害はなさそうだな」

「ああ」

「そうだといいが」

取り立てて騒がしいこともない様子からして、無事に巨人をまいたのだろう。
しばらく走った辺りで馬を休憩させるため、川べりに陣を張る。
各班の班長が状況を報告しに来るなか、私は水面に鼻先をつける馬の傍らに腰をおろしてぼんやりとしていた。

「おい」

「なによ」

背後から馬を引き現れたリヴァイに話しかけられ、答えた声はどうしても不機嫌そのものだった。
大人げないとは思いながらも、そうなってしまうのだから仕方がない。

「ひとりだけ突っ走ろうとするな」

「そんなことしてないでしょ」

「焦りが馬に伝わっているのが丸わかりだ」

私の馬に並んで水を呑む青毛の愛馬の鼻先を撫でるリヴァイ。

「功を焦ったところで何にもならねぇだろ」

「うるさい、あんたには関係ないでしょ」

「なんだ、もう少し利口な女かと思ったが思い違いだったようだな」

「はぁ?!」

ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向くリヴァイに殴りかかろうと握った拳を、いつの間にかそばにやってきていたミケに掴まれる。

「name、冷静になれ。らしくないぞ」

「……」

体内で渦を巻いていた熱が、ミケの一言によってするすると抜けてゆく。
先程までは見渡す限りの青空だったというのに、今や空はどんよりとした灰色の雲で覆われていた。

「この雲は降るぞ」

「酷くならないうちに帰らないと」

そう言う内にもぽつりぽつりと雨粒が落ちてくる。

「ちっ、降ってきやがった」

「リヴァイのせいだよ」

「name、いい加減にしろ」

ぱしんとミケに頭をはたかれた。
自制心の利かなくなった己に嫌気がさして、深々とフードをかぶると私は逃げるようにして愛馬に跨る。

「ミケ、巨人の気配はどうだ」

「この雨だ。かなり近くまで来ない限りは判別できない」

尋ねた団長にミケが渋い顔をした。

「そろそろ発ったほうがいいんじゃねえか」

「そうだな」

ますます強くなる雨脚は一帯を乳白色に煙らせ、周囲の音すらもよく聞こえない。
このままでは巨人の格好の餌食となることは明白だった。
一刻も早く壁の中に戻らねば命も危ういだろう。
各班長を集め素早く指示を伝達すると、団長は白馬にひらりと飛び乗った。

「お前たち、すぐにでも戦えるようにしておけ」

「はい」

「ああ」

「わかった」

先程までと一変して逼迫したこの状況に、気持ちが引き締まる。
全班の準備が整い、いざ出発をしようというその時だった。
ミケの鼻がピクリと動き、勢いよく背後を振り返る。

「来るぞ!」

ミケの怒号が飛ぶのと同時に霧の向こうから巨体が姿を現した。

「おい、奇行種じゃねえか…」

「さいっあく」

ものすごいスピードで走ってきた奇行種はその巨体を避けるために散った兵士たちを蹴散らし、蛇行しながらこちらへと向かってくる。
目測でおおよそ4メートル級、それほどまでに大きくなかったのは不幸中の幸いと言ってもいいだろう。

「下がってろ」

右手でブレードを逆手に持ち手綱を引き寄せたリヴァイ。
こいつ、本当に私のことなめてるでしょ。

「私が行く」

ごちゃごちゃ言ってる暇、ないから。
「おい待て」と制止するリヴァイを振り切り、彼が馬を出すよりも早く私は馬の腹を蹴りトップスピードで走りだす。
奇行種特有の予測のつかない動きゆえ、一定の距離を保つのが難しい。
ましてやこんな雨なのだ、絶えず顔面に降り注ぐ滝のような雨が容赦なく視界を阻む。
顔を拭う一瞬でさえ命取りになるこの戦場で、この豪雨は致命的だった。
しかし泣き事をいっている時間なんてない。
やらなければこちらがやられるのだ。
逃げまどう新兵たちに向かってゆく奇行種の背後に回り、脚だけでバランスをとり両手で首筋めがけてトリガーを引く。
乾いた音とともに射出されたワイヤーは目標よりも多少下方にずれたものの、右肩甲骨のあたりにアンカーが突き刺さった。
重力から解放されて宙に浮く身体。
ゆっくりとコマ送りになる視界。
目に映る世界が瞬間、時間の概念から逸脱する。
反らせていた上体を一気に丸めてワイヤーを巻きあげ巨人に接近し、背中のあたりに足をつけると一気に肩まで駆け上がる。
いける、そう思った。
振り落とされないよう細心の注意を払いながら刃を足元に突き立て、うなじへと向かうために態勢を整える。
そして巨人が動きを止めた一瞬の隙をついてアンカーを放つ。
今度こそ狙い通りの場所に刺さったアンカー目掛けて移動した。

「もらった!」

心の中でガッツポーズをした私は、刃を振りかぶり項へと突き立てた。
がしかし、突然尋常ではないスピードで身体を反転させた巨人が勢いよく走り出したのだ。
降りしきる雨で足元が滑り、しまったと思った時にはすでに身体が空中に投げ出されていた。
アンカーを抜きワイヤーを格納した後だったため、私は巨人の項に突き立てられたブレードのグリップだけを命綱として握りしめる。

「この…っ」

汗と雨でずり落ちそうになりながら、己の腕力だけでしがみつく。
悔しいが一度間合いを置くほかはないと判断し、なんとかブレードの刀身を解除して落下する中で受け身の態勢をとる。
落ちるさなかに、リヴァイの姿がちらりと視界を掠めた。
まだ負けたわけじゃない。
着地の衝撃を和らげるためにガスを噴射しながら、苦虫をかみつぶしたような気持ちになった。

「name!」

ミケの叫ぶ声が聞こえたのと同時に、黒い影が頭上に落ちてくる。
次の瞬間、みしみしと骨が軋む音が体中に響き渡っていた。

「う、…あっ」

勢いよく身体を持ち上げられ、胃の中身が逆流しそうになる。
悪あがきをしようにも、全身を握られているため手も足も出ない。
食べられる、そう思った。
団長すみません、お役に立てなくて。
閉じた瞼の裏に、団長の顔が浮かんでいた。

「おい、諦めてんじゃねぇ」

豪雨の立てる雨音に混じって聞こえてきたリヴァイの声に瞼を開ければ、そこには彼の残像しか残されてはいなかった。
気持ちの良い噴射音を響かせてリヴァイは宙を舞い、目にもとまらぬ速さで巨人の背後に回ると勢いよく首筋の肉を削いだ。
もうもうと蒸気をまき上げながらゆっくりと巨人の巨体が崩れ落ちる。
その手に握られたまま地面にたたきつけられた私は、そのまま意識を失った。

混濁していた意識の霧が晴れ、目を開ければそこには見慣れた自室の天井が広がっていた。

「起きたか」

「……」

「気分はどうだ」

「最悪」

「だろうな」

むすりとした表情を浮かべるリヴァイが私の顔を覗き込んでいた。
朝、なのだろうか。
眩しい光に目を細める。
確か巨人に食べられそうになって、そしたらリヴァイが助けてくれて…。

「戻ってきたんだね」

「なんとかな」

ふい、と背中を向け部屋から消えたリヴァイに変わってミケが現れる。

「痛いところは?」

「骨はたぶん大丈夫だと思う」

「そうか、ならよかった」

心配そうな顔をしたミケに頬を撫でられ、申し訳ないようなこそぐったいような気持ちになって私は顔を伏せた。

「ごめん」

「謝るな」

「でも…」

「お前が生きていたならそれでいい」

軽く抱きしめられて、鼻の奥がつんと熱くなる。
私が出すぎたまねをしなければ、こんなことにはならなかったはずだった。
リヴァイの言うとおりだった。
焦る気持ちが隙を生んだのは言うまでもない。
弁解の余地もなかった。
もしも団長に申し出ていた通り班をまかせてもらっていたら、どうなっていただろう。
その先を想像するだけで冷や水を浴びせられたような気持になった。
団長…。

「団長は?」

「いつものごとく書類の山に埋もれている」

「そっか」

失望されたに違いない。
あれだけ偉そうなことを言っておいてこのざまだったのだ。
掛け布団を握りしめている私の鼻孔を、どこからか漂ってきた紅茶のいい香りが擽る。

「飲め」

「あ、…」

ずい、と差し出されたのは温かな紅茶がなみなみと注がれたティーカップだった。
言葉をつづけられずにいる私の拳を解くと、リヴァイは無理矢理私にカップを押しつけた。
どうすればよいかわからずティーカップとリヴァイとを交互に見る。
何と言おうか迷いながら中途半端に唇が開いたままの私を見たミケが、ぷ、と小さく噴き出した。

「リヴァイ、ありがと」

「……ああ」

「本当に、ありがとう」

勝手に敵対心を抱き意地を張っていた自分が情けなくて恥ずかしくて、視界が徐々に涙でぼやけていった。
泣くな泣くな!
そう思えば思うほど溢れてくる涙。
ぽたりと顎を伝った涙が一滴、紅茶の表面に落ちてさざ波を立てた。
涙をこぼす私に今度はリヴァイが言葉を失い、面倒臭そうに頭をかきながらソファへと腰掛ける。
そっと口をつけて飲んだ紅茶は、喉を通るたびに身体を温めてくれるような気がした。
身体の中心から、じわりじわりと手足の先までほぐれていくような。
全てを呑みほし、は、と息をつく。
団長にどんな顔で会えばよいのだろう。
下を向き、情けない嗚咽を漏らしながら手の甲で涙をぬぐっていると、誰かの手がティーカップを取り去った。
リヴァイ?ミケ?
ともかく礼を言おうと顔をあげればそこには。

「だ、だんちょ…」

「お目覚めのようだな」

「あ、の…すみませんでした!」

ベッドに腰掛けた団長は私から受け取ったティーカップをサイドテーブルに置くと、震える私の手をとった。
深々と首を垂れる私に頭をあげるように言う団長の声が優しくて、ますます自分がみじめになった。

「私がひとりで無茶したせいで、申し訳ありませんでした」

降格されるだろうか。
処罰は辞さないつもりだった。
これまで自分が積み上げてきたもの、過ごしてきた時間を無にするような行いをしてしまったのだから。

「無茶はするなと言ったはずだが」

「…どんな罰でもお受けします」

「name」

強めの語気で呼ばれた名前にハッとして面をあげれば、真剣な面持ちでこちらを見つめている団長に視線を掴まれる。
次にどのような言葉が発せられるのか想像もつかず、私は身を固くした。

「私の隣には、nameが必要だと言ったのを忘れたか?」

「それは…」

「お前の代わりはいないんだ」

「……」

私の、代わり。
身に余る言葉に思考が停止する。
頭の中に木霊する団長の言葉に、視界は再び涙に曇っていた。
泣き顔を見られたくなくて、俯く私を包む温かな腕。

「え、…あ、だ…だんち…ょ」

「勝手な行動は以後慎むと誓ってくれるな?」

リヴァイとミケに見られているのではと焦って辺りを見回そうと首を伸ばすも、伸びてきた手によって胸の中へと沈められてしまう。
何が何だかわからないまま、ただ体温だけが上昇して思考回路は完全に焼き切れていた。
なんで団長が私を抱きしめているの?
変わりがいないというのはどういう意味で?
必要だってそれは…。
だめだ、もうなにも考えられない。

「はい」

泣いたせいで熱をもった瞼をおろし、私はそう答えるので精いっぱいだった。

「お前はいつも独りで頑張りすぎだ。もう少し周りを頼るということを覚えたほうがいい」

優しく頭を撫でてくれる手の平から伝わる体温に、ぐらりと揺らぐ意識。
そうだ、私は…。


「リヴァイ、突出しすぎ!」

「るせぇ、お前に言われたくない」

「なに?喧嘩売ってるの?」

風が気持ちいい。

「リヴァイ、name、もう少し速度を落とせ」

馬を寄せ競うように走り出す私とリヴァイの背中にかけられるミケの声。

「ミケ、好きにさせてやれ」

「エルヴィン…お前は甘すぎるぞ」

団長とミケの会話を後ろに聞きながら尚も速度を上げ続ける私たち。
蹄が土をかく衝撃すら心地よかった。

「おい!前方注意しろ!」

木々の向こうに現れたのは見慣れた巨人の愚鈍な顔。
こちらの存在を確認するや否や方向を変え走り寄ってきた。
地面を揺らしながら醜い手足をばたつかせる巨人に、私とリヴァイはひるむことなく向かってゆく。

「あんたは左」

「右はいらねぇな」

「右を頼むって、泣きつかないでね」

「はっ」

リヴァイの顔に薄く浮かんだ笑みに私は小さく口角をあげた。
合図はそれで充分だった。
響く乾いた音、宙を舞う身体。
仰いだ空には燦燦と太陽が輝いていた。
私は世界をあきらめない。
この命は彼の為に、自分の為に、そして仲間の為に。
グリップを握った拳は硬く、かたや心は驚くほどに軽かった。
はるか下から見上げる団長と交錯する視線。
動きの止まった世界の中で、彼の瞳に映る己を見た気がした。
なんだ、いい顔してるじゃない。
青い空を背負い、私は力の限り刃を振った。

(20140602)
- ナノ -