さようなら

目覚ましをかけずに寝られるということのこの上ない幸せについて、まだ開ききらないまぶたの奥で私は思いを巡らせる。
今日はなんといっても週に一度のミケさんの家でのお泊りなのだ。
恋人のベッドで目覚められるときめきにも似たワクワクを噛み締めて私は布団から顔を出す。
とっくの昔にカーテンは開けられて、休みの始まりを告げる朝陽が燦々と部屋の中に降り注いでいる(素晴らしい!)。
隣で寝ていたはずのミケさんはもう起きているらしい。
扉の向こうから朝食の香りが漂ってきて、ぐるるとお腹が大きい音で鳴る。

「おはよー」

「おはよう。丁度起こしに行こうと思っていた」

「いい匂いしたから起きてきた」

「顔を洗っておいで」

「ほわーい」

あくび混じりに返事をした私に背中を向けてテーブルにサラダを運ぶミケさんの、その大きな背中に抱きつきたい気持ちを堪えて洗面所へ向かった。
ミケさんの作る料理は美味しい。
特別繊細な味付けなわけではないけれど、舌の上にいつまでも美味しさが残る優しい料理なのだ。
目玉焼きの白身のふちは香ばしい薄茶色のフリルで飾られ、その横では厚切りのベーコンがまだじうじうと油をあげている。

「塩!」

「胡椒は?」

「いらない」

ミケさんはそうか、と言うとトーストの入ったバスケットを置き、ソルトシェイカーで私の目玉焼きの上にガリガリと塩を挽いてくれる。
調味料に意外とうるさいミケさんは、このシェイカーをいたく気に入っている。

「いただきまーす!」

目の前に置かれた美味しそうな朝食につい、わぁっと両手をあげて喜んだけれど、ちょっと子供っぽい振る舞いだったかなと恥ずかしくなる。
感情が行動に直結するのがお前の短所でもあり長所だな、といつかミケさんは私に言った。
子供っぽくなんかないです、私は大人のレディです。
そうムキになった私に「そういうところがだな、」と言いかけたミケさんは確か続きを言わずにキスしてくれたっけ。
昔の出来事を思い出して赤面してしまい、何となく正面に座るミケさんて視線を合わせづらくなった私は目玉焼きの黄身にナイフを突き立てる。
テカテカした薄い白身の割れ目から、輝く黄金色の黄身がとろりと溢れ出す。
その下には程よく焼けてパサついた黄身が土台となっていて、私はミケさんの作る目玉焼きに毎度ながら感動してしまうのだ。

「幸せそうな顔だな」

「幸せですよー。朝からこんなに美味しい目玉焼きが食べられるんですから」

「はは、」

ふんわり笑ったミケさんはナイフとフォークをテーブルに置くと「だったら、」と言葉を続けて私の顔をじっと見た。
口に卵が付いてたかな、と私は手の甲で口の端をゴシゴシとこするけれど、どうやらそういうわけでもないらしい。

「name」

「……?」

「目玉焼き、美味いか?」

「それはもう、世界で一番美味しいですよ!」

「もし毎日この目玉焼きが食べられたら?」

「嬉しいです!」

毎日朝起きてこんなに美味しい目玉焼きが私を待っていてくれるなんて、考えただけでも頬っぺが緩んじゃうよ。
ダルダルになった口の端を持ち上げて冷めないうちに目玉焼きを頬張れば、幸せの味が口いっぱいに広がってゆく。

「name、」

「んー、?」

ベーコンと格闘し始めた私をミケさんが呼ぶ(待って、ベーコンも熱いうちに食べたい!)から視線だけを上げれば、何やら小さな箱をミケさんが私にちらつかせている。

「なに?それ?」

「結婚してほしい」

「ん?」

事態が飲み込めない私、フォークの先からポトリと落下するベーコン、そして開かれた小さな箱の中からは。

「ゆび、わ…」

「ああ、お前に似合いそうなものを選んだんだが…」

「あ、あの…これって…」

「まぁ、プロポーズ。だな」

舌の上で踊っていた目玉焼きの余韻は一瞬にして消え失せ、口の中は砂漠みたいにカッサカサだった。
目を白黒させている私のナイフをきつく握った右手を解くと、ミケさんは優しく手を取ってキラキラ光る石の付いた指輪を箱から取り出した。
太くて節くれだった彼の指は、摘まんだ小さな細い指輪なんかたやすく潰してしまえそうなのにそうはせず(当たり前なんだけど)、この世で一番壊れやすいものを扱うみたいにそっとそっと指輪を私の人差し指にはめてくれる。

「わぁ…」

綺麗。
完全な美しさでカットされたダイヤモンドは、白い太陽の光を受けて無限の虹を中に閉じこめたみたいにキラキラと輝いていた。
はぁ、とか、うひゃあ、とかその美しさにテンションが上がる私はこれがプロポーズの指輪ということをしばらく忘れていたようで、しびれを切らしたらしいミケさんはくるくると動き回る私の右手を掴んで「で、nameの答えは?」と真剣な瞳で尋ねてきた。

「ミケさんの目玉焼きが毎日食べれるなら、オールオッケーです!」

「目玉焼きがなかったら?」

「この世から卵が消えたって、勿論ミケさんがいてくれるだけで私は幸せです」

へへ、と照れ隠しに笑った私に、身を乗り出したミケさんは軽くキスをする。
画面の向こうで起こるドラマチックなプロポーズなんかより、こういうさりげない感じのプロポーズの方が、私は、いい、…かな。
これから過ごすであろう幸福な日々を思うと、あれよあれよという間に鼻の奥から熱が溢れて涙となった。

「わだじ、じあわせ…っ、でず…」

涙で滲んだ視界の向こうで、ちりちりとダイヤモンドが輝いていた。
やっとのことで泣き止んだ私は(だだ流しだった鼻水はミケさんが拭いてくれた)、すっかり冷めて硬くなった目玉焼きもベーコンもトーストも全部全部お腹の中に収めて、はめてもらった指輪が夢なんかではないということをひとしきり確かめた後で(頬っぺ抓って!と言ったらミケさんに笑われた)ぺこりと頭を下げた。

「不束者ですがよろしくお願いします」

「こちらこそ」

仰々しく頭を下げ合った私達は、顔を上げて目が合った瞬間に吹き出しそうになる。
目尻に皺をうっすら寄せたミケさんが照れ臭そうに首を傾げたのを見て、私はまた少しだけ泣きそうになった。

「着替えたら買い物に出ようか」

「うん」

食べ終わった食器を流しに下げるミケさんの腰に纏わりつく私に邪魔なそぶりも見せない彼の指、そんなところが大好きだ。

「ケーキ、買おっか」

「ああ、そうしよう。今日は特別な日だからな」

抱き寄せられてミケさんの大きな身体が私を包む。
あったかい毛布みたいな、やさしい体温。
頭のてっぺんにキスをされながら、まだ慣れない薬指の重たさに私は気恥ずかしさが溢れて唇をかむのだった。

(20140627)
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