さようなら

待てども待てども、どれだけ待ってもその日とうとうミケは帰ってこなかった。

「エルヴィン、ミケが帰ってこない」

ふらふらになって辿り着いたエルヴィンの部屋、その扉に鍵はかかっていなかった。

隔離された104期生達とともに本部を離れていたミケと、珍しく行動を別にしていた。
本部で終わらない書類に埋れていた私の元に嫌な知らせが入ったのは既に朝日が登り始めた頃だった。
まさかね。
不安はあったものの、あのミケがそう簡単にやられるわけがないだろう。
ナナバやトーマだって一緒なのだから。
自分に言い聞かせるようにして書類を片付けることに没頭した。
しかし、結果としてミケは帰ってこなかった。
彼は永久に失われてしまったのだ。
突然に色を失ってしまった世界の中で、私はただ一人膝を抱えて蹲ることしかできなかった。
どれだけ時間がたったのだろう、部屋は暗闇に満ちていた。
星も、月すらも出ていない真っ暗な夜だった。
行かなくちゃ。
何かに導かれるようにして部屋から出た私が辿り着いたのはエルヴィンの部屋だった。
ソファに腰掛けているエルヴィンが、ちらりとこちらを向く。

「どうした、幽霊かと思ったぞ」

よろよろとふらつく足取りでエルヴィンの元へ行き、彼の足下にしゃがみこんだ。

「ミケが、」

「ミケは死んだ」

「エルヴィンあのね、ミケがね、」

「name、」

あいつは人類のために最後まで戦い抜いたんだ。
しんとした部屋に低く静かに響いたエルヴィンの声は、決定的な何かを私へともたらした。
あの笑顔も、あの優しさも、あの体温も、あの声も、全ては過去になってしまったのか。

「ひどいね、エルヴィン」

「……」

「それでも私は生きなくちゃいけないなんて」

「お前は死んではならない」

「もう死んだも同然よ」

「それでも、だ」

「本当、あなたも大概ひどい男」

気道を直接縛られたような息苦しさに焼けるような熱さが胸の内を襲う。
泣いてはいけない。
泣いたってもう抱きしめてくれる人はいないのだから。
ぎゅっと握りしめた手のひらに爪が食い込む。
苦しくて喘ぐようにして息を吸い込めば、びっくりするぐらいの勢いで涙が溢れ出した。
一度流れ出したそれはとどまることを知らず、自分が泣いているという事実に狼狽するうちにますます喉が張り付き、鼻の奥はツンと痛い。

「あれ、っ…あは、は…可笑しい、っなぁ…」

いくら手の甲で拭っても後から後から零れ落ちる水滴が情けなくて、いつしか嗚咽までもが漏れていた。

「ミケがさ、っ…言ったんだよ?…うっ、…帰ってくるから、って…。なのに、…こんなの、変だよ…っ。あんまり、だよ…」

最後に見たミケの笑顔が、引き伸ばされた絵のようにして脳裏に浮かぶ。

ーname、行ってくる。

目尻に皺を浮かべたいつもの優しい笑顔で、大きな手で私の頭を撫でて、そうして彼は。
私に背を向けて、そして。
気がつけば私はエルヴィンの脚に縋るようにして泣いていた。
身体を丸めて、大声をあげて。
エルヴィンは何も言わなかった。
エルヴィンが椅子から立ち上がる気配、その後に私を包む腕。

「ああそうだ。私はひどい男だ」

「…う、っ……」

ぐちゃぐちゃに濡れた顔。
汗と涙と鼻水にまみれた額や頬に好き放題張り付いている髪をエルヴィンがそっとかきあげる。
後頭部に回された手の平は、それこそ男の大きく分厚いそれだというのに、私が慣れ知ったものではない。
違う。
私が欲しいのは。
額に押し当てられたエルヴィンの唇は、ひんやりと湿っていた。

「生きろ、name」

呪いにも似たその言葉が、熱で澱んだ頭の中で焦げついた。
虚ろな瞳で見上げれば、いつの間にか姿を現した白い月がぽっかりと夜の空に穴をあけていた。

(20140526)
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