さようなら

父は昔、調査兵団に所属していた。母も昔、調査兵団に所属していた。だから私もいずれは調査兵団に所属するつもりだった。それはもはや私の命運であり、生きる目的であった。
周りの子供達が花を摘み棒切れを持って走り回る間、私は父に戦い方を学び、母に兵士としての女が生き延びる術を学んだ。
訓練兵時代、私は常に首席だった。父も母も私を褒め、そして同僚たちに自慢していたそうだ。将来が楽しみだよ、と。
そして父も母も死んだ。私を残して。朝に見送った父と母は薄っぺらい胸ポケットのエンブレムになって帰ってきた。
いずれこうなることは何処かでわかっていた。これも私の運命の一つなのだと。
「エルヴィンという奴はまだ若い、だがいずれ大物になる」「彼についていけば間違いはない」生前に父と母は私によくそう言っていた。会ったこともないエルヴィン・スミスという男に、私はいつの間にか心惹かれていた。
私がその男に初めて会ったのは調査兵団に入団したまさにその日だった。各分隊長が集会所の壇上に上げられ順々に紹介されてゆく。
三番目の男が「分隊長のエルヴィン・スミスだ」と自己紹介をする。俯いていた顔を咄嗟に上げた私が目にしたのは長身で碧眼金髪の男だった。見た目に何か光っているものがあるわけではない、けれど彼の瞳には揺るぎない決意が宿っているような気がした。父さん、母さん。この人が。亡き父母を思い出し、私は唇を噛んだ。
最前列からじっと無遠慮に見ていたせいか、私の視線に気がついたエルヴィン分隊長と目があった。一瞬にして逸らされたものの、重なった視線に胸の奥の一点が焼かれてしまったように熱くなる。それは何かの予感みたいなものだったのかもしれない。

それから数日後の事だった。厩で馬達にブラシ掛けをしていると先輩団員の一団が此方にやって来るのが見えた。その中にはエルヴィン分隊長の姿もあった。ばれないように盗み見ていたというのに、入団式の日と同じく再び彼に視線を捉えられた。一団に何かを手短に告げると彼らから離れてエルヴィン分隊長は一人で此方にやってくる。
私はどうして良いかわからずにブラシ掛けをしていた手を止めて直立し、緊張しながら敬礼のポーズを取る。

「楽にしてくれて構わない。ところで君がnameだね?」

「はい」

自分の名を知っていることに驚きつつ首を縦に振る。

「噂は聞いているよ、今年は優秀な女の子が入ってきたと」

「いえ、そんな」

「父君と母君の事は残念だった」

「両親の事をご存知なのですか?」

「ああ、生前にはお世話になったからね」

分隊長はそう言うと、昔の記憶の引き出しを開けるみたいに遠くを見て暫らくの間口を噤んでいた。

「君が入団したら私の下に付けてくれと、そう言っていたよ。その時の君はまだ小さかっただろうに」

「両親はあなたを大変評価していました。あなたについて行けば間違いはない、と」

「そうか」

例え結果的に命を失ったとしても、兵士としての本懐を遂げたのであれば悔いはなかったに違いないと私は子供ながらに信じたかった。

「それで、だ。きみを私の隊にぜひ配属させたいと私個人は思っているのだが、きみの意見を聞かせて欲しい。きみは優秀だし、重要な戦力にもなるだろうからね。むろん無理強いはしないよ」

「私なんかが…よろしいのですか?」

「ああ、きみのご両親の遺志と私の希望を汲んでくれるのならそれ程嬉しいことはない」

「も、勿論!喜んで…」

「こちらこそ。よろしくな、name」

差し出された右手を恐る恐る取ると、しっかりと握り返される。大きくてゴツゴツとした手の平は肉刺が幾つもできていた。自分とは全く違う使い込まれた大人の男の手に戸惑いながらも、エルヴィン分隊長の元で刃が震える喜びに私はただただ打ちひしがれていた。
それからというもの、日々は目まぐるしく過ぎていった。季節の移ろいなど気にしている暇も余裕も私にはなかった。私の場合、民に、王に心臓を捧げるのは建前であり、その実身も心も委ねているのは他の誰でもないエルヴィン分隊長だった。彼とともに過ごす時間が増え、拳を胸に掲げるたびにその思いは増すばかりだった。
何度かの壁外遠征をこなしたころには同期入団した仲間達の三分の一がこの世から消えていた。命があったとしても、兵士として再び刃を握ることができなくなった者も少なくはない。そんな彼らを見るたびに、決して私はと固く心に誓う私を、エルヴィン分隊長はどんな気持ちで見ていたのだろう。
彼が私をどう見ていたかなんてことを気にすることができるのはもっと後々話であり、あの時の私は周囲の人々の目に自分がどんな風に映っているかなんて気にしたこともなかった。ひたすらに自分を追い詰めて、どうしたらもっと彼の力になれるのかというただそれだけを考えて生きていた。
盲信的かつ献身的な私の姿を見て、あるいは私とエルヴィン分隊長との私的な関係を疑った人もいたかもしれないが、私はそのような世俗的な考えでしか物事を関係付けることの出来ない人間達にむしろ憐れみを抱いていた。私にとっての彼は性愛を超越した場所にいる人間なのであり、万が一にも男女の仲になるなんてことはあり得ないと信じて疑わなかった。
女として彼の隣に立つよりも、一人の部下として彼の背中を守る道を自分は歩んでいるのだと、そう思っていた。


「次期調査兵団の団長を打診されたよ」

「それは!おめでとうございます。お受けになるんですか?」

上官の昇進話に色めき立つ私にエルヴィン分隊長は笑顔を向けるも、すぐさまその笑みに複雑な感情が入り混じる。

「そのつもりだが…」

私は黙って言葉の続きを待った。調査兵団団長という重要なポジションなのだ、二つ返事で引き受けられることでもないのは私にでもわかる。

「なぁname、」

「はい」

「もし私が団長になったとしてだ、君に団長補佐をして欲しいと私が頼んだら君は受けてくれるだろうか」

「団長、補佐…ですか」

分隊長の今ですら仕事に忙殺されている彼が団長になれば、その仕事量は計り知れないものだろう。兵団のトップとして王政や他の団との間のやりとりにおいて矢面に立たねばならない場面も多くなるはずだ。従って補佐になるのであれば、私の仕事量も今の比ではなくなる。鍛錬の時間も少なくなるだろう。
いや、それでも。私は。

「もちろんです」

「ありがとう、君のその一言で決心がついたよ」

「一瞬、昔を思い出しました」

「昔?」

「はい。私が入団したばかりの頃、分隊長直々に私を引き抜いてくださった時のことです」

「ああ、懐かしいな。あの頃から君は…」

「?」

「いや、何でもないよ」

俯いて小さく首を振る分隊長を、私は眩しいものを見るような目で眺めていた。これまでの努力は無駄ではなかった。私のたったひとつの生きる意味は、無下にされることなく正しい道を歩んでいたのだ。
顔を上げた分隊長に私は微笑む。幸福な瞬間。たったそれだけで私の心はこんなにも満たされる。先に旅立った父と母に私は心からの感謝を送った。

「提出する書類がありますので、すみませんがこれで失礼します」

「ああ、頼むよ」

一礼して執務室を出ようとした私を、「name」と呼ぶ分隊長の声が引き止めた。はい、と振り返るとこちらに向かってゆっくりと歩いてくる彼の姿があった。なにか言い忘れたことでもあるのだろうかと思っていると、私が戸惑い一歩後退る程に近くまで来て分隊長はやっと歩みを止めた。

「どう、されました?」

「name、すまない」

「何がです?」

突然彼の口から出た謝罪の言葉に私は驚き狼狽えた。次に言うべき言葉が見つからないまま分隊長を見上げる。いつもより距離が近いせいで首筋が攣りそうに痛かった。

「私は狡い男だ」

「……」

「君が私の頼みを断るわけがないと知っていて、」

じり、とまた距離が狭くなる。彼は何を、言っているのだろう。違いすぎる身長と背後からの逆光のせいで、エルヴィン分隊長の顔には暗い影が落ちていた。そこに浮かぶ一対の瞳が宿している光は、私が今までに見たことのない種類のものだった。そしてそれが何を意味する光だったのかも。感情処理がついてゆかない。守られてきた一定の距離が破られたということだけは、何と無く理解していた。

「それでも君を手元に置いておきたかった私を、許して欲しい」

「仰っている意味が、よく…」

心の底をさらうような視線で私を見る分隊長の手が、そっと私の頬にあてられた。

「つまり、そういうことさ」

「……」

何かを言わなくてはと口を曖昧に動かすけれど、言葉はひとつも出てこなかった。これは、この気持ちはなんなのだろう。頭がふわふわとして胸が苦しくなるこの不思議な感情の名前を私は知らない。両親は知っていたのだろうかと、頭のまだ冷静な部分で思う。
小さな時からこの人のためにと思い生きてきた。そして今私は。

「私はどんな形であれ、あなたの側にいられることを幸せに思います」

「……ありがとう」

そう言ったエルヴィン分隊長の瞳に一瞬寂しさの色が浮かんだのはどうしてだったのだろう。「引き止めて悪かったね」と言って扉を開けてくれた分隊長にもう一度頭を下げて私は彼の部屋を後にした。
扉を一枚隔てた部屋の中で、彼が溜息をついていたことなど知る由もなく。

(140902)
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