さようなら

「ミケ、大好きだよ!」

上半身を捻って此方を振り向く動作を追うようにして柔らかな髪が揺れる。
待て、行くな。
叫んでいるはずなのに声は出ない。
走りたいのに足は泥沼をかくように重たく前に進まない。
追いたい背中はゆっくりと遠ざかり、やがて光の中へと消えてゆく。

また同じ夢を見た。この世では会ったことがない、前世では自分の隣にいた女。name、とミケは呟いた。
時計は深夜3時半を指していた。

午前10時、店の扉にかけてある札を「open」にする。煙草を咥えながらショーウィンドウの硝子を拭くミケは欠伸を噛み殺した。
以前にも増してよく見るようになったあの夢。頻度が増えたことは何かの兆しなのだろうか。自分がこうして記憶を引継ぎ今の世を生きているように、nameもどこかで生きているのだろうか。
会いたいと思う。ただ、その願いが叶う見込みは限りなくゼロに等しいだろう。奇跡的に会えたとしても、nameが自分を覚えている保証などどこにもないのだ。
それでも、一眼でもいいから彼女をと思わずにはいられなかった。しかし前世の記憶があるというだけで、他に何も手がかりはない。ましてやnameが再びこの世に生を受けているかどうかすら不明なのだ。従ってnameを探す手立てなどどこにもなく、起こるかも分からない奇跡を待ちながら神に祈りを捧げるぐらいしかミケにできることはないのだった。
硝子を拭き終えると店内に戻り窓際の机に腰掛ける。狭い店内には皮を加工して作られた鞄やコインケース、財布などが並べられている。深く優しい香りを吸い込んで肺を満たすと、不思議と心が落ち着くのだ。
パチン、と手元のランプを点けて作業の続きに取り掛かる。鞣した皮はしっとりと手に馴染み、たちまちミケの意識は指先に集中するのだった。
ドアのベルが鳴ることもなく(それは特に珍しいことでもなかった)時計が12時を指す頃、軽い空腹感を感じてミケは顔をあげる。
机に向かった時よりも幾分か店内が薄暗くなっていることに気が付いて外を見れば、真っ青だった空はいつの間にか乳白色の雲に覆われ、西の方角からはどす黒い雨雲がもくもくと腕を伸ばしていた。
ひと雨きそうだなと思ったミケは椅子から立ち上がり固まった腰を拳で叩きながら、大きく開けていた窓をほんの少しの隙間を残して閉めておく。これならば多少雨が降ったところで降り込むまではいかないだろう。
熱いコーヒーを淹れて適当に作ったサンドウィッチを頬張りながら、朝刊を流し読みする。
つるが緩くなっているのか下を向くたびにずり落ちる眼鏡をかけ直すのも面倒で、しかし不安定な視界のまま細かい文字をしばらく追うと案の定目の奥が重たくなってしまうのだ。
新聞をたたんで空になった皿を机の脇によける。ひどく肩が凝っていることにミケは気が付いた。一度外の空気を吸った方がいいかもしれない。雨が降り出す前に酒と缶詰、あと幾らかの野菜も買っておきたかった。
眼鏡を外して机に置くと、椅子の背にかけられているくたびれたジャケットを羽織る。ポケットに煙草とライターが入っていることを確認してミケは財布を手にとった。
扉を開けると今にも雨が降りそうなひんやりとした風が吹き込む。これは傘を持っていった方がよさそうだなと考え直し、ミケは一度奥に入ると焦げ茶色の傘を手にして再び出ようとする。すると先ほどまでは降っていなかったはずなのに、今や表通りは雨に煙っているのだった。
石畳を打つ強い雨はむっとする土の匂いを立ち上らせる。突然降り出した雨から逃れるようにして道ゆく人達は銘々軒先に逃れて雨宿りをしていた。
やれやれこれでは買い物に出られないではないかと溜息をつき、ミケはくしゃくしゃになった煙草の箱をポケットから取り出すと最後の一本を咥えてライターを鳴らす。
身体中に紫煙と雨の香りが染み渡る。長々と煙を吐き出しながら、さてどうしたものかと扉を足で抑えたまま入り口に背中を預ける。
雨で白く霞んだ街並み。目を閉じれば記憶がひとりでに首をもたげはじめた。

ミケが最後に見たnameは笑っていた。「死なないで。じゃあ、また後で」と、そう言って彼女は馬を寄せてミケの背中をぽんと叩いた。自由の羽を翻し馬を離反させたミケは、後ろを振り返ることなく一直線に隊からひとり抜けていった。巨人(今の世界でこんなことを口走れば間違いなく変人扱いされるだろうが)に食われる直前まで、ミケは闘志を絶やさなかった。折れた何本もの骨が肉を裂き、燃えるように身体は痛んだ。しかし彼は命の炎が消える直前の事をよく覚えていない。正気を失い命乞いをしたかもしれないが、それは今更確かめようのない事だった。ただ、nameとの約束が果たせないことだけが悔やまれた。もう永遠に訪れることのない「また」を、nameは待ち続けたのだろうか。そのあと、世界はどうなったのだろうか。

長い長い記憶のトンネルから抜けたミケはゆっくりと瞼を開ける。相変わらず雨は降り続いていた。それどころか些か雨脚が強まっているような気さえする。買い物は中止だな、短くなった煙草を足で揉み消し店の中に戻ろうとした矢先だった。
曲がり角から現れた少女が一直線に此方の方へやってくる。傘はさしておらず両腕を頭の上にかざしながら俯き加減に走るその少女の髪は、雨に濡れて顔や首筋に張り付いていた。
こんな雨なのだから軒先ぐらい、いや、タオルぐらい貸してやろうかとミケは少女に声をかける。

「大丈夫か?よかったらうちの店で…」

少女の腕が顔から退けられたその時だった。
世界が停止した。
あれだけ激しかった雨音は彼方へと遠のき、幾千もの雨筋は止まった時の中で無数の球体になって宙に浮く。
一瞬にして意識は暗闇の中に吸い込まれ、ミケはあの時の約束の場所に引き戻された錯覚に陥った。
瞬き。
そして再び現代に意識が戻る。
少女の瞳が、大きく見開かれミケを仰ぎ見ていた。二人には、それだけで十分だった。往来から人の気配は消え、流れ出した時間に溶かされた土砂降りの雨が石畳を打ち、流れていった。

二人はミケの店の二階、彼が自室として使っているアパートの一部屋にいた。店の札は「close」に変えられていた。どうせ困る人はいない。

「もう一度聞くが、name…で、いいんだよな」

「…うん」

ミケに手渡されたタオルで濡れた髪や服を拭いたnameはソファに腰掛けていた。ミケは向かいのベッドに座りnameを眺めている。記憶の中のnameよりも幾らかふっくらとして肌の血色もいいような気がする。髪の長さも心持ち長くなっただろうか。
それでも彼の目の前にいるnameは、かつてミケが愛した彼女の面影(ふんわりとした愛らしさだとか、柔らかそうな頬だとか)を色濃く纏っているのだった。
先ほど淹れたコーヒーを手に、二人は今世における自分たちのこれまでや近況について語り合った。nameは親元から離れ、最近隣町に越してきたらしかった。
nameもミケ同様前世での記憶を持っており、どうにかして彼に会いたいと思っていたものの、やはり手立てなどなく今日までの日々を過ごしていた。

「ミケ……」

「なんだ?」

「ごめん」

「何がだ」

「約束、守れなかった」

拳を握る小さな手には傷ひとつなかった。震える白い手。nameの目から涙が落ちる。訳が分からずミケは困惑し、無言で彼女の言葉の続きを待つ。もしかして、やはり。

「ミケと別れた後、ナナバさん達と最後まで戦ったんだけど、結局…」

「そうだったのか。俺もあの後巨人に…、」

ミケの発した巨人、の言葉にnameは耳を塞いで身体を折った。薄い肩が震えていた。
ベッドから立ち上がったミケは、ソファで丸まっているnameの身体を抱きしめる。
辛かっただろう、怖かっただろう、側にいてやれなくてすまなかった。
かけてやりたい言葉はたくさんあった。しかし彼の口から言葉は出てこなかった。嗚咽を噛み殺したような音が喉から響く、それだけだった。

「会いたかった、ずっと、ずっと」

「ああ、俺もだよ」

ずっと、その言葉の重みがミケの胸に深くのし掛かる。最後の別れから一体どれだけの時が経ったのか、あれから自分たちのいた世界がどうなったのか、何もかもわからないまま二人はまた巡り合ったのだった。それでもいい、ミケは思う。
あたたかなnameの身体。鼻を寄せた首筋からは懐かしい香りが仄かに薫った。細胞から立ち上るような甘く愛しい香りに、ミケは胸が詰まる。

「…私ね、死ぬことよりも、ミケにもう会えないことの方が怖かった」

「……」

「死なないで、なんて…。また後で、なんて…私、わた、し…」

嗚咽を漏らすnameの背中に手をあてる。約束を守れなかったのは彼も同じだった。常に死を覚悟していたとはいえ、誰にも知られず孤独に迎えた死は絶望でしかなかった。同じように彼女も命を失ったのかと思うと、nameや他の仲間たちの死に様を思うと、心がギリギリと締め付けられた。

「助けてやれなくて、すまなかった」

「…っ、」

「お前に怖い思いをさせて、すまなかった」

「ミケ、…」

「一人で逝かせて、…すまなった」

時を超えた自責の念が涙とともに溢れ出す。変えられない過去を、自分たちが生きた世界を、恨んだことは数知れず。平和な現世において時折顔を出す過去に何度苦しめられただろう。しかしそれはnameも同じだったのだ。果たせなかったミケとの約束を胸の奥に抱きながら彼女もまた生きてきた。

「もう、絶対にお前を…。今度こそ、離さない」

「うん、」

「name、俺はお前を愛していた。そしてこれからも、お前だけを愛している」

身体の奥深くに眠る心の、一番柔らかで優しい場所に届くようにとミケは願いながら口にした。ゆっくりと耳から言葉がnameの中に染み渡ってゆく。つめたく冷えていた指先にあたたかな熱が灯る気がした。
ようやく見つけ出した。もう何があってもひとりにはさせるものか。
触れ合った唇から生まれる感情の渦。全てを分かり合える、二人の間に言葉はもう必要なかった。唇と身体、交わる視線。失った時を取り戻すかのような長い長いキスをして、そうしてようやく二人は微笑んだ。

(140912)
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