さようなら

あなたは知っているの。私の愛が偽りだということを。それでも私はあなたを愛し、あなたも私を愛してくれる。
背後からエルヴィンを抱きしめた私は唇を背中に押し付けて愛してると言うけれど、空っぽの身体から声なんて出なかった。

憲兵団から調査兵団に移された私に与えられていた仕事はエルヴィンの監視だった。表向きには中央憲兵団の優秀な人材を調査兵団に貸与することによる内部運営の効率化、ということになっている。
それがいったいどう意味を持つことなのか私にはわからない。ただ、新しく就任した調査兵団のトップが王政に仇なす企みを抱えていないかを探ってこい、そう上から言われただけだった。
なぜ私が選ばれたのか、それはきっと以前に私が彼の元にいたからだろう。エルヴィンが、昔なじみの間柄だからといって気安く心を許すような人間ではないことなどわかりきっているのに。
そもそもあの時だって、彼が私に心の内をさらけ出してくれたことなんか。
数年ぶりに会ったエルヴィンは最後に見た時よりも思慮深い皴を目元に刻んでいた。かつての青臭さは抜けおち、トップに立つ者の風格と落ち着きを身にまとっていた。

「久しぶりですね、エルヴィン団長」

「ああ、君は変わらないな」

「どうも」

眩しいものを見るような目つきで私に笑いかけるエルヴィンを少しだけ不憫に思った。

「いい部下が入ったみたいですね」

「王都まで話が届いているとは驚きだな。さすが中央憲兵、耳が早い」

「ごめんなさい、急に厄介になることになってしまって」

「やけに他人行儀なんだな。もとは君もいた場所なんだ、あまり遠慮されてもこちらが居心地悪い」

「だって私は…」

もう調査兵団の人間ではないのだから。そう言おうと思ったけれど口にできなかった。

「さあ、行こうか」

私の背中に腕を回した彼は、「二人の時はエルヴィンと呼べばいい」、そう言って悪戯めいた表情を浮かべた。
その表情の奥に私の目的を見通している一対の眼が鋭く光っていた。わざと隠そうとしないのは牽制のためだろうか。
嫌なものを飲み込んでしまったような重たい気持ちで私は兵舎に足を踏み入れた。
かつての同僚たちとも再会を果たし、何事もなく過ぎてゆく時間は、私に否が応でも昔を思い出させた。夕焼けが満ちるエルヴィンの執務室で交わされた細やかな秘密や、そういった類のことを。
オレンジに滲む太陽は感傷的になるからいけない。目的を遂行するために感情は不要だというのに、それを捨てきれない私はまだまだ素人なのだろう。それともここを離れ、生ぬるい中央憲兵などに身を置いているからだろうか。
ソファに座って渡された内部書類に目を通す(ふりをしてエルヴィンを見ている)私に時折視線をよこすエルヴィンに微笑みを返しながら、ひっそりとため息をつく。
暮れなずんでゆく空。鳥たちが列をなして山際に消えていく。そろそろ終業の時間だ。

「エルヴィン、私どの部屋を借りればいい?」

馬車から降ろしたトランクはここ、エルヴィンの執務室に置かれたままだった。兵舎の空き部屋が適当にあてがわれるだろうと上かは言われていたものの、詳しいことは調査兵団側に一任してあると、なんとも適当な言葉がおまけについていたのを思い出す。

「ああ、そんなもの私の部屋に来ればいいじゃないか」

「それはだめです。そんなことをして、部下たちに示しがつかないじゃないですか」

「相変わらず堅いんだな」

肩を竦めたエルヴィンは立ち上がると私の座るソファへと腰を下ろす。近すぎる距離から感じる熱に動揺しないよう、ゆっくりと瞬きをした。

「いいじゃないか」

「……」

「君のこちらでの処遇は私に一任されていると聞いているよ」

「嫌な人」

「そんな顔をするもんじゃない」

むっとした表情を作った私の頬をエルヴィンの指が撫でる。カサついた親指の腹が、しまっておいた記憶の紐を解いていくようだった。

夜、どこかで梟が鳴いているのを聞きながら私とエルヴィンは同じベッドで横になっていた。こげ茶色のラフなズボンに着慣れて柔らかになった生地のシャツを羽織っただけのエルヴィン。二人して仰向けになり天井を仰ぐ。
残酷なまでに静けさが満ちた部屋に、二人分の押し殺した呼吸音が響く。時折申し訳程度に衣擦れの音がして、そのたびに責められているような気持になった。

「name」

「ん」

「戻るな」

「……」

戻るな、とエルヴィンは言った。戻る、どこに。過去に、それとも。

「君がここへ来た理由の察しはついている。そして中央憲兵に戻った君に待っている結末も」

「ああ、そのこと」

「そのこと、で済まされる話ではないことは君もわかっているだろう」

そう、おそらく私が調査兵団で何かしらの情報を得られようが得られまいが、数日間の任務を終えて中央憲兵に戻れば秘密裏に私は処理されるだろう。
中央憲兵が調査兵団に女を送り込み、情報を不正に入手しそれを中枢機関へ横流ししたなどということが明るみになれば、中央憲兵が他組織や市民から糾弾されることは免れないはずだ。
秘密なんていうものは針の孔ほどの隙間を縫ってでも漏れ出す代物なのだ。流出を防ぐには情報源を絶つよりほかはない。
勿論そんなことは告げられていない。しかしこの壁に囲まれた世界の中で、理不尽に淘汰されてゆく人々が少なからず存在するということは事実であり、また彼の父親もかつてそうして消された一人なのだった。
かつてその話をエルヴィンから聞いたときに大きな衝撃を受けた私が、まさか数年後にはそちら側の人間になっていようとは自分でも想像すらしていなかった。
しかし走り出した車輪は止まらない。もはや私の手でどうこうできる速度を超えて回転をしているのだ。車軸を軋ませ車輪は火花を散らしながら、着実にスピードを上げている。行き着く先が千尋の谷だろうと、一度乗り込んでしまった以上は降りることは叶わない。

「仕方のないことだから。でもよかったです、最後にあなたにまた会うことができたから」

「name……」

がばりと上半身を起こしたエルヴィンがこちらを向く。その顔が驚くほどに真剣で、私は笑ってしまうのだった。どうして私が笑うのか理解できないのか、エルヴィンは不満げな表情で私を睨む。
そんならしくない素振りをしてほしくない。私がここに来た訳を知っていながら、そんなことおくびにも出さずに数日間をやり過ごしてほしかったのに。

「ねぇ、エルヴィン」

私は瞳を閉じてエルヴィンと対峙する。

「抱いてください」

言ってしまうのは簡単だった。王都からここに来るまでの馬車の中、何度この言葉を頭の中で反芻しただろう。せめて死にゆく身であるのなら、かつて愛した男に…。違う。私は今でもエルヴィンを。
愛するふりをしているのだろうか。その方が楽だから?複雑な感情を抱える余裕などないのなら、いっそ「未練」の二文字を銘打つほうが楽だった。
ゆっくりと瞼を開けようとすると、わずかに開いた視界を暗闇が塞ぐ。懐かしい、彼の手。大ききて優しい。奪い、与える。狂気と慈悲を併せ持つエルヴィンの手に世界を奪われ、唇を与えられた。

「エルヴィン、」

掠れた声で名前を呼ぶ。その続きを言おうとしたけれど、空いている片手の人差し指が私の唇にそっとあてられた。それ以上何も言うな。情事の直前に、彼がよくしていたゼスチャー。果てのない暗闇の中で思うのは、昔誓った二人の約束だった。もうそれは決して叶うことのない、約束。

「愛してた」

キスで塞がれた唇からそう振り絞ることしか私にはできない。過去形で愛を伝えることしか私にはできない。それでも記憶の片隅に自分を遺そうと足掻く自分が悲しかった。
エルヴィンのやわらかな舌に犯されながら、ぬるい涙が頬を伝った。

(140915)
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