さようなら

溶けた蝋燭が受け皿にどっぷりと溜まっていた。
その先に灯る明かりは今にも消えてしまいそうに細く揺れていた。
ろうそくを消すのも忘れて、この部屋の主は珍しく深い眠りに落ちているようだった。
革張りのソファに身を預け(さほど身長が大きくないせいか、彼の身体はすっぽりとソファに包まれているように見えた)、肘をついて寝息を立てている兵長に忍び足で近づいてゆく。
ぎ、と空気を読まずに鳴る床板にひやりとしつつも、なんとか彼の元へと辿り着く。
閉じた瞼を縁取る黒い睫毛は、時折何かを思い出したかのように細かく震えた。
薄い涙袋には濃い隈が浮いていて、私はそこをそっとなぞる。
あまり寝なくても大丈夫な身体の作りをしているのだ、とそうは言われても、日々の激務に追われる彼には十分な睡眠をとって欲しいというのが本心だった。
こんな寝顔を見てしまっては尚更のこと。
兵長の唇は乾いていて、今にも切れてしまいそうだった。
大変なのだろうなと、改めて思う。
彼の立場だとか、重圧だとか。
私なんかの代わりはどれだけでもいるけれど、この人の存在は人類にとって唯一無二なのだ。
自分の代わりなんかいくらでもいる、なんて言ったらきっと兵長は嫌な顔をするだろう。
お前はお前だろう、代わりなんかいない、と。
冷たいようで部下思いなのだ、この人は。
それが彼が好かれる、或いは支持される一因なのだ。
だからこそ、もう少し自分を大切にしてもいいのではないかと思う。
睡眠も食事もろくに取らずに働き詰め、暇さえあれば身体を鍛えている。
そんな生活をしていればそのうちガタがきてしまうだろう。
額に掛かった髪を除けて、薄明かりに兵長の顔を晒す。
綺麗な造形に私は見惚れ、少しだけ顔を近づける。
起きませんように。
唇、は無理。
頬なら、万が一見られたとしても冗談だと済ますことができる、かもしれない。
息を潜めてそっと触れるか触れないかのところで唇を止める。
唇の、ほんの先っぽで触れただけなのに、こんなに胸が苦しくなるとは思っておらず、思わずぎゅっと目を瞑った。
早く離れないと、というかむしろ早くこの部屋を出ないとおかしくなってしまいそうだ。
顔を背けて踵を返そうとした瞬間だった。

「っ、!」

後頭部をがしりと捕まえられて、心臓が口から飛び出したのではないかというぐらいに驚いた私は、足をもつれさせて後ろにひっくり返った。
けれど床に尻餅を着く一歩手前で兵長に支えられ何とか転ばずに済んだものの、まだ私の修羅場は終わらない。
息がかかるほどの近距離から兵長に見つめられ(恥ずかしくないんですか?!)、顔をそらすことすらできずに固まったまま動けない。

「おい」

はい、と返事をしようと思ったのに声が出ない。
声を出す動作をしているのに、喉からかさついた音が聞こえてくるだけだった。

「何をしていた」

「……そ、れは」

まさか正直に頬っぺたにキスをしようとしていました、なんて言えるわけがない。
どうしよう、いっそ逃げてしまおうか。
とりあえずこの場を逃れれば、後日なんとでも言い訳を考えればいいのだから。
そうと決まれば。

「逃げるな」

ですよね…。
私を掴む腕を振り払って脱兎の如く逃げ去ろうとするけれどやはりそれは無謀であり、単に兵長の機嫌をさらに損ねる結果に終わっただけだった。

「ごめんなさいっ!」

「何についての謝罪だ」

「え、あ、その…それは、」

言い淀んで俯けば、突然に押し倒された。
床が冷たい。

「唇に、しなかったからか?」

「…、え?」

「どうして唇に、しなかった」

「そ、れは…」

落ちてきた兵長の髪の束が頬にあたる。
鼻先が触れ、今にも重なってしまいそうな程の距離で囁くように問われ、私はどうしていいかわからなくなった。
なにも、考えられない。
寝起きのせいか(いつから目が覚めていたのだろう、この人は)白目は僅かに赤く染まり、声は掠れていた。
色気、やば…。

「答えろ、name」

でないと。
そう続けた兵長の声は夜に溶けていった。
それ以上目を開けていたらどうにかなってしまいそうで、私は咄嗟に目をつぶる。

「おい、」

離れた唇が耳を喰む。
まさかこんなことになるなんて思わなかった。
このまま朝になるまで目を閉じていよう、そうしよう。
もしかしたらこれは夢なのかもしれない。

「抵抗、しねえんだな」

瞼の向こうで、く、と兵長が喉で笑う。
やっぱり目は開けられそうにない。

(140921)
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