さようなら

壁の外に出るたびに、世界の色がひとづつ消えていった。
その事に気がついた時、酷く愕然としたのと同時に、当然のことだとも思った。
今年も新兵たちが大勢入団してきた。
憲兵団からあぶれあからさまにやる気のない者、自分こそが人類の一歩を刻むのだとでも言わんばかりに瞳に熱を宿した者。
そんな彼らを他の幹部たちから離れて広場の端の方で眺めていると、私に気づいたミケがこちらにやって来る。

「name、今年はスピーチ頼まれなかったんだな」

「勘弁してよ。あんな熱い演説、私には無理」

「去年のでエルヴィンも懲りたんだろうな」

「お願いだから思い出させないで」

調査兵団において女性団員は多くいるものの、上層部に食い込んでいるのは私ぐらいだ。
女性の意見もたまにはどうだろうか、とのエルヴィンたっての願いで勧誘スピーチをしたものの、しゃべりベタなせいもあり惨々たる結果に終わったのだった。
以降親しい幹部達で集まる酒の場では、こぞってネタに挙げられた。

「どれぐらい入団するだろうな」

「さぁ、巨人のお腹が膨れる程度には来てもらわないと」

「name、」

嗜めるようにミケが言い、パシリと私の腰を叩く。
「冗談よ」、そう言って肩を竦めてミケに背中を向けた。
これ以上ここにいても無意味だったし、デスクの上に山ほど積まれた書類を一枚でも早く片付けねばならない。
言い訳がましく胸の内でつぶやく自分に苛立ちを覚えた。
昔まだ私が新兵だった頃。
壁の外の本当の恐ろしさを、巨人の醜さを、仲間が目の前で食べられる恐怖をまだ知らなかった頃、きっと私も彼らのように輝く瞳を持っていた。
一体でも多くの巨人を倒して人類の役に立つんだと勇み刃を握った手は、呆気なく解かれた。
同じ隊だった仲間も上官も、突如として現れた奇行種に殺された。
次々と仲間達が潰され飛ばされる惨状に足は竦み歯は噛み合わず、取り落としたブレードが小石にあたるカツンという音だけがやけに大きく耳に響いた。
立ち尽くし迫りくる巨人を見上げる私を救ってくれたのは他ならぬミケだった。
風を裂き瞬く間に巨人の項を削いだリヴァイは、仕留めた巨人の体が私の頭上に影を落とす。
退かなければ、そう思うのに身体はその場に縫い付けられたかのように微動だにしなかった。
白目を剥き口から涎を垂らした醜い顔が迫る。
潰される、目を閉じ拳を握った瞬間に、鈍い衝撃が脇腹に走る。
何が起こったのか分からずに恐る恐る目を開ければ、ミケが私を脇に抱えて大木の幹へと移動しているようだった。

「危なかったな」

地上から遥か上空の枝に降り立ったミケは私を下ろして一息をつく。
血溜まりに沈んだ仲間たちは、息絶えた巨人の発する蒸気で彼方に霞んでいた。
ミケが来てくれなければ私も…。
そう思った瞬間脳内に潰された自分の姿がよぎり、猛烈な吐き気に襲われた。
内蔵を捻じ切られるような痛みと不快感に腹を抱えていると、ミケが背中をさすってくれた。

「間に合ってよかった」

「っ、…」

涙がただただ溢れた。
胃の中身を吐き出すような嗚咽とともに。
私の無力を責めない(当然かもしれないけれど)ミケの優しさが辛かった。
何もできなかった、己の身すら守れなかった。

「馬が戻った。俺たちも隊に帰ろう」

「……」

「立てるか」

「…うん」

そう言ったものの足に力は入らず、ミケに手を引っ張ってもらいやっとの事で立ち上がる。
夢の中に立っているかのように覚束ない足元に、眩暈を覚えた。
いっそ夢であってくれればいいのに。

「おぶってやる、ほら」

ミケは屈んで私に背中に乗れという。
自分で降りられると虚勢を張るだけの力があるわけもなく、言われるがまま彼の背中に身を預けた。
ふわりと身体が宙に浮く。
束の間、彼の広い背中に遠い昔の懐かしさと安らぎを感じて、ジャケットを握りしめる。
着地した地面に広がる現実を直視できずに、私は息を止めミケの項に顔を押し付けた。

「連れて帰ってやりたいが、今は無理だな」

「……」

「生きている俺たちだけでも帰らねば」

放り投げられるようにして上げられた馬上。
ふわりと背後に飛び乗ったミケを振り向けば、その向こうに散っていった仲間たちの姿があった。
先ほどまでは決して見たくなかった筈の光景を、私は食い入るように見つめていた。
忘れるものか。
いつしかそうとまで思うほどに。

「行くぞ」

馬の嘶きとともに風が頬を撫でる。
涙はもう、乾いていた。






西日が差し込む部屋の中、山ほど積まれた書類に埋れながら紅茶を飲む。
暫く思い出そうとしなかった過去が唐突に溢れ出したことに疲弊し、仕事に手を付ける気になれなかった。
すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干して何をするでもなく底に沈んだ茶葉を見ていると、遠慮がちなノックの音が響く。
こんな風に私の部屋の扉を叩くのは一人しかいない。

「どうぞ」

「あれから姿を見なかったから心配したぞ」

「仕事、溜まってたから」

「片付いたようには見えないな」

今にも崩壊しそうな書類の塔に手をかけてミケが言う。

「嫌い、この季節」

「まぁそう言うなよ」

「さ、仕事するから出てって。構ってる暇ないから」

「どっちかというと、お前の方が構ってほしそうに見えるんだが」

「子供か猫でもあるまいし」

「お前は今でも子供みたいなもんだ」

俺の方が年上なんだから、とお小言が始まりそうな口ぶりだった。

「からかわないで」

「name」

急に声のトーンが落ちたミケを不思議に思って見上げるけれど、窓を背にして立っているせいで表情がわからない。

「お前は、」

「なに?どうしたの?」

「お前がいつか手の届かない場所に行ってしまいそうで、たまに不安になる」

「……」

影が落ちた顔に丸く浮かんだミケの瞳に心を探られる。
あの日以来、私は全てにおいてがむしゃらに生きてきた。
誰にも心を開かずに、自分だけを信じて。
そうだ、あの光景を忘れていたわけではない、思い出さなかったわけではない。
その必要などなかった。
何故なら常に脳裏にあったから。
血の赤、空の青、そして新緑にも似たミケの香り。
自分でも薄々感じていたことを、ついに目の前に突きつけられたような気がした。
私はどこへゆくのだろう。
本当は誰かの腕の中に留まることができたならと、願っているのに。
叶わないなら、いっそ彼方に。

「だったら繋ぎとめてよ」

「……name」

吐き出すように口にしたその言葉は、酷くゆがんでひしゃげていた。
私の表情同様に。
近づいてきたミケに手を伸ばしたいのに、立ち上がった体は後ずさる。
いつも側にいてくれたミケの優しさを知っていた。
伸ばされた彼の手をかいくぐってきたのは私の方だというのに、今更。
この夕焼けが悪いのだ。
金色を背負った彼はあまりにも神々しく、美しくて悲しい野獣のようだった。
失われた世界の色ですら、彼になら鮮やかに蘇らせることができるだろう。
触れようとして伸ばした手で、私は自分をかき抱いた。

「そうするしか、なかったんだな」

「そうよ!私は、私は…」

弱いから。
いくら巨人を倒しても、いくら地位が上がっても、それに反して私はどんどん弱くなった。
決して壊れてしまわぬように、脆くなった心の壁に泣きながら土を厚く厚く塗り重ねた。
泥で汚れた両の手で涙を拭い、噛み締めた唇からは血が滲んだ。
おくびにも出していなかった筈なのに、ミケは全てを知っていたのだ。
いや、嗅ぎつけていたのかもしれない。
付かず離れずを保っていた私たちの距離が、あの日と同じぐらいに近くなる。

「ミケ…っ、」

力なく握った拳で彼の胸を叩く。
あの日、私はこうするべきだったのだ。

「お前はここにいる」

身体から千切れ吹き飛ばされていきそうだった魂が、するすると戻ってくる感覚。
ぼろぼろと剥がれ落ちた土の代わりに魂の壁たる存在として、私の心を肉体ごと守る人。
巻き戻せない時を思い、今いる腕の中のあたたかさを思い、私は泣いた。
見上げた世界はきっと、鮮やかだ。

(140730)
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