さようなら

季節の変わり目には必ずといっていいほど体調を崩し、気圧の変化やその日の天気によってもすぐに調子が悪くなる。
そんなnameに俺が始めて出会ったのはとある道端だった。強い日差しに石畳が焼かれ、陽炎が立ち上る中でnameはひとり蹲っていた。手ぶらで格好も白のワンピース一枚というラフなものだった。家出少女か、それとも。一度は通り過ぎたものの何か心に引っかかるものを感じて俺は道を引き返した。姿勢を変えずに膝を抱えているnameの肩を揺さぶった、あの体温を今でもはっきりと覚えている。「おい、大丈夫か」そう尋ねた俺をnameの瞳が捉える。うふふ、とも、あははともつかない表情で笑った顔は驚くほどに儚かった。「ちょっと、目眩がして」しばらくこうしていれば大丈夫ですから。細めた目を縁取る長い瞼が揺れていた。放っておけばよかったのだろうが、俺にはそれがどうしても出来なかった。「車がすぐそこに停めてある、知らない男の車でも良けりゃ乗っていけ。送ってやる」どうする、と問えばnameは「すみません、お願いします」と言って小さく頭を下げた。
そうして俺たちは出会ったのだった。まだ暑さの残る秋の出来事だった。それ以来、どこかで少しずつ狂っていた俺の中の歯車はカチカチと音を立てて正しい噛み合わせの位置に戻り、nameと関わることによって正常な時間の中で真っ当な一人の人間として生きていくことができたように思える。
nameの誕生日に俺が花を贈ったこと、心配よりもnameを愛しいと思う感情の方が心を多く占めたこと、身体が弱いくせに両親と離れて暮らすnameを心配して同棲を提案したこと、あまりにもこれまでと掛け離れた自分の気持ちと行動に、数少ない友人はおろか、なによりも自分自身が一番驚いていた。
しかしそれらはあくまでも自然な流れだった。川の水が海へ流れるように、雪が静かに降り積もるように、俺とnameはゆっくりと関係を深めていった。
季節が変わり始める頃には細心の注意を払って彼女の身の回りの世話をした。それでも体調を崩して寝込むnameは、微熱で頬を子供のように赤くして「ごめんね、リヴァイ」と言うのだった。細くて小さな手が俺の指を握る。その頼りなさと、水分が足りないのか少しかさついた皮膚の感触に、俺はいつも胸が詰まって何も言えなくなってしまう。加湿器の低いモーター音だけが響く部屋の中で、nameは御伽噺に出てくる登場人物のようだった。けほけほと咳き込むnameの薄い背中を撫でながら、いつか交わした約束を俺は思い出す。
海を見に行きたいの。俺たちの住んでいる町は海岸から大分離れた場所に位置している。車を持っておらず、電車での長旅にもむかない身体のnameは本物の海を今まで一度も見たことがないと言っていた。その時のnameは両手を広げ、あたかも乾いた海風を感じながら海鳥の囀りを楽しんでいるような風であった。閉じられた瞼の裏には太陽にきらめく白波がどこまでも広がっていたのかもしれない。いつか、絶対に連れていってやる。そう約束したのは結婚式を挙げた夜だった。純白のウェディングドレスに身を包んで溢れるような笑顔を浮かべたnameは、冗談なんかなしに世界で一番美しくそして可愛かった。
絶対に、なんていう言葉は嫌いだった。しかし、nameに出会った俺には「絶対に」nameに見せてやりたいものや一緒に行きたい場所、叶えたい夢なんかが、まるでクリスマスツリーの下にプレゼントの箱が積み上がるかのようにしてみるみると増えていったのだった。
誰かが隣にいることが、いや、nameが隣にいることがもはや俺の生きがいであり、彼女は俺の幸福そのものだった。そんな話を酔った勢いでエルヴィンについ漏らしたところ、一笑に付されるかと思いきや、なんとも優しい眼差しで隣のミケとともに頷かれ、こそばゆいような気恥ずかしい気持ちになった。「よかったな、リヴァイ」「聞いてるこっちまで嬉しくなるな」互いに顔を見合わせて笑った二人の横で、俺は滅多に飲まないとろりと甘いアルコールを煽ったのだった。

そして今、俺達は海にいた。
無理はするなと言ったにもかかわらずnameは朝早くに起きて手の込んだサンドウィッチを作り、水筒に温かな紅茶をたっぷりといれていた。昨晩楽しみすぎて寝られない、と高揚したnameを寝かしつけるのは一苦労であったし、なにより睡眠不足でまた体調が悪くならないかが心配だった。しかしキッチンに立つnameは普段の病弱ぶりなど微塵も感じさせない動きと明るさで、テーブルに着いた俺に湯気の立つティーカップを差し出した。ニ時間弱の道のりも何事もなく過ぎ、小高い丘を越えようやく海が見えた時、nameは歓声をあげるかと思い気や、はっと小さく息を飲んだ。「リヴァイ、海だよ」助手席に座っているnameの幸せそうな表情に、俺は果てのない幸福を感じずにはいられなかった。
裸足になって波打ち際を歩くnameを俺は少し離れた場所に腰を下ろして眺めている。たっぷりと海水を含んだ水際、点々と残されていたnameの足跡を寄せては引く白波が消してゆく。足が浸るか浸らないかのところを歩いているnameは、時折ざぶんと音を上げて砂浜を叩く大きな波に驚いては、それでも逃げることはせず砂浜に足を踏ん張っていた。海風に薄いクリーム色のワンピースが翻り、白い太腿が露わになる。しかしそんなことを気に留める様子もなくnameはただひたすら、足の裏を包む浜辺の砂粒と足首を撫でる波の感触を楽しむようにして渚を歩いていた。
そろそろ呼び戻さないと万が一風邪でも引いたら大事だ。それでなくとも砂に紛れた硝子や貝殻の破片で足を切らないかだとか、波に足を取られて転ばないかだとか、俺は内心穏やかではなかったのだ。「name」名前を呼べばこちらに背を向けて地平線を眺めていたnameが振り返る。戻って来いと手招きをすれば、名残惜しそうに二、三度波を足で蹴り、ようやくこちらに戻ってきたのだった。
太陽に暖められた砂は人肌のような温度だった。ざざ、ざざ、というあの海の潮騒に包まれて、俺とnameは二人肩を寄せ合った。「寒くはないか」尋ねれば、「大丈夫だよ」と返ってくる穏やかな声。耳に当てた巻貝から聞こえてくるように小さく遠い声だった。こんなにも近くにいるというのに、誰よりも近くにいるというのに、抱きしめた腕から一瞬で消えてしまいそうなname。砂浜に置かれた彼女の手に自分の手を重ねる。血の通った温かさがそこにはあった。「name」なんとなく、名前を呼んだ。砂浜には俺達以外に人の姿はなかった。nameは「なに」と言った後でしばらく考えるような素振りをすると、とびきりの秘密を打ち明けるような含み笑いをしながら「リヴァイ」と俺の名を呼び返す。あのね。俺の耳元に手を当てて、こしょこしょと告げられた彼女の秘密。本当か、そう聞くよりも前に身体が動いた。「苦しいよ、リヴァイ」困ったようなくぐもった声が左肩のあたりから聞こえてきた。幸せの洪水に思考が押し流されて、言葉が見つからなかった。額と額を寄せ合えば、波に紛れたnameの拍動と、彼女の中にいるもう一人の小さな命の音すらも聞こえるような気がした。
穏やかな午後の光に照らされた白波は、何万もの魚群の光る鱗のようだった。命の祝福を受けながら、俺はこみ上げてくる涙を必死になって押しとどめる。身体の中があたたかな水で満たされている、そんな不思議な感覚に包まれながら。

(141030)
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