さようなら

休日だというのにいつも通りの時間に目を覚ましたミケは、ベッドから静かに起きてスリッパをはく。
深い茶色のそれは昨年nameが誕生日プレゼントとして贈ってくれたものだった。
一年経ってだいぶ足に馴染んだボア生地が、ふんわりと彼の足を包み込む。
nameを起こさないように気を付けながらリビングのカーテンを開けて透明な朝の光を存分に浴びると、窓際の観葉植物の鉢植えに水をやる。
さやさやと土に水がしみこむ音に耳を澄まし、リビングを一望する。
昨晩仕事が立て込んで帰宅時間が遅かったにも関わらず、もうやめなさいと言ったミケを振り切って、リビングからキッチンからピカピカに磨きたてていたnameは案の定未だ夢の中だった。
「お誕生日をうっすら埃が積もった部屋で迎えるなんてありえない」と主張した彼女の掃除が終わったのは、結局ミケの誕生日を迎えた時刻から三十分ほど経ってからのことだった。
ケーキとご馳走は明日買いに行こう、一緒にシャワーを浴びて倒れるようにして潜り込んだベッドの中でしかし、nameは不満そうな顔だった。
「ケーキもご飯も私が作るのに」と尖らせた唇を塞ぐと、ミケは「それはまた来年頼むよ」と優しく言ったのだった。
コーヒーの豆を挽きながら、冷蔵庫に貼られた買い物リストをぼんやり眺める。
オリーブ、アンチョビ、チーズ三種、シャンパン、バゲット、スモークサーモン、リーフレタス…。
軽くつまめるものがずらっと並んだ後に幾つか甘い菓子の名前が連なっているのを見つけてミケはひとり、小さく笑った。
コーヒーを二杯分淹れると、すやすやと寝息を立てているnameの枕元に腰かける。

「name、朝だぞ」

顔を隠している髪をどけ、眩しいのだろうか寄せられたnameの眉根をミケは親指でそっと撫でてやる。

「あと…五分…」

「買い出しにくんじゃなかったのか」

枕に顔を伏せてしまったnameを、ナイトテーブルにマグカップを置いたミケが抱きかかえる。
起き抜けの子供のようにミケの首に腕を回し、nameはむにゃむにゃと聞き取れない何かを口にした。
あまりの幼さに笑いそうになるミケであったが、年齢差のことを気にしているnameがまた拗ねてしまうかもしれないと思い直す。
小さな背中を撫でながら、「コーヒーをいれておいた」耳元で諭すように言うと、寝ぼけ眼のnameがようやく顔を上げた。
乱れた髪を梳いてやれば、気持ちよさそうに目を閉じるname。
首がぐらぐらしだしたnameの髪から手を離し、両手で彼女の頬をぱちんと挟むと、今度こそ目が覚めたらしい。

「いい匂いする」

「まだ冷めていないから、飲んでから着替えるといい」

「ん」

ミケに抱かれたままベッドから降ろされると、nameはペタペタと足音を立ててキッチンへ向かう。
人にスリッパを贈っておきながら自分はいつも裸足のnameを彼女らしいと思いながら、冷えは女の敵という言葉を思い出したミケは今年の誕生日プレゼントに室内履きを贈ってやろうと心に決めた。
冬用のパジャマから小さな手を覗かせてコーヒーを啜るnameを横目に見ながらミケはベッドを整える。

「天気がいいから掛け布団を干そうか」

「そうする」

「やっておくからその間に着替えを済ませておくんだよ」

腕に羽毛布団を抱えたミケに向かってnameはこっくりと頷くと洗面所へと消えていく。
年下扱いされることをあまり好まないnameは、そうあろうとすればするほどミケの眼には幼く映った。
遠ざかる背中を眺めながら、あの手がティディベアを引きずっていても不思議ではないと密かにミケは思うのだった。
エルヴィンと同じ会社で働くnameの仕事ぶりは彼からよく聞かされていた。
自分が見ることのできないnameの姿をエルヴィンが見ていることについては多少の嫉妬を抱かざるを得ないが、彼女が優秀な評価を得ていることがミケには誇らしいのであった。
年の差など埋められるものではないのだし、ましてやそれに引け目を感じることはないとミケは思うのだけれど、nameにとってはどうやらそうではないらしい。
「おいで」と言えば「子ども扱いしないで」とそっぽを向かれ、「行くぞ」と手を差し伸べれば「ひとりでも大丈夫だから」とはねのけられる。
それなのに。
ベランダに布団をかけながらミケは口元を緩ませる。
仕事で失敗してしょげこんでいるときには抱きかかえた腕の中で身じろぎもしない。
出かけた先ではぐれた時にやっと落ち合えれば、なんでおいていくのと口を尖らせ小さな手で指を握ってくる。
それを子供っぽいと思わずにどうしたらいいのだろう。
部屋に戻ったミケにnameは「ミケまだパジャマなの?おいてっちゃうよ?」と肩を竦める。
薄く化粧をしてグレイのざっくりとしたニットワンピースを着たnameは「はらほら早く」と言ってミケの背中を押し、鏡の前に立たせるのだった。

買い物リストを一通りなぞり、その上さらに各々食べたいものを「誕生日だから特別」という大義名分のもとにカートに投げ込んだ。
そうして山盛りの食材を抱えて、二人がアパートに戻ったのは昼過ぎだった。
どさどさと買い物袋を床に置き「ちょっと休憩」と菓子をつまみ出したnameを他所に、ミケは食品を収めるべき場所に収めてゆく。
前後逆向きに椅子に腰かけたnameはてきぱきと動くミケを眺めながら板チョコをぱきんと噛み折った。

「お布団いれてくる」

「それはやるから、nameはそこにいなさい」

「でも、」

憮然とした表情を浮かべたnameは椅子から立ち上がるとミケの持っていたアスパラガスを奪いとる。

「今日はミケのお誕生日なんだから」

「だから?」

「だから私がやるの」

唇を噛んだnameの手を解いてミケはアスパラガスをキッチンカウンターにそっと置く。

「name」

なに、と口にせず視線でそう言ったnameをミケは抱き締める。

「お前は昨日も遅くまで頑張っていただろう?どうしてそんなに全てを一人でやろうとする」

「だって、」

「だっても何もない。俺たちは二人なんんだから一緒にやればいいだろう、違うか?」

「それは…」

「それにな、name」

そこで一旦言葉を区切るとミケは抱き締めていたnameの肩を掴んで身体を離すと、腰をかがめて彼女を覗き込む。

「俺だって男なんだから、たまには頼ってもらいたいのだが?」

「……」

「というわけで、今日が誕生日の俺をぜひとも頼ってほしいものだな」

「ミケ…」

うっすらと赤くなったnameの鼻先に口づけをしたミケに、nameは腕を回して抱き着いた。

「ミケのお料理食べたい」

「仰せのままに」

「ジャガイモのスープがいい」

「なんでも作って差しげましょう」

おどけたようにお辞儀をするミケに、nameは「もう」と肘をぶつけた。
二人並んで立つキッチンには音と匂いがあふれていた。
nameが皮をむいたジャガイモ(手を切るなよ、とミケはつい言ってしまう)をミケが乱切りにして、スライスした玉ねぎの入った鍋に入れて火にかける。
その間にバゲットを切り、サラダを作り、テーブルをセッティングし、その合間に生ハムとピクルスを食べさせあったりしながらシュニッツェルを温めた。
食卓の中央にバースデイケーキを乗せて、ようやく完成した料理を前に二人はシャンパングラスをカチンと鳴らす。
皿の上の料理が減っていくのに比例して酔いが回るnameを微笑ましく思いながら、ミケは最後の一杯を喉に流し込む。
完全に酔っぱらってしまったnameをソファに寝かせ、さて片付けでもしようかとキッチンに向かおうとしたミケの服の裾をnameの手が掴んで引き止めた。

「やだ、行っちゃやだ」

「どこにも行かない、洗い物をするだけだ」

「それでもやだ」

nameはむくりと身体を起こし、立ったままのミケの太ももに顔を押し付ける。

「一緒にいて」

「……」

わかったわかった。そういってぽんぽんと頭を軽くたたくとミケは洗い物を諦めてソファへと上がり、脚の間にnameを納める。
ミケの胸に頭を預けるname。
その背中を何度か撫でてやれば、じきに腕の中からは規則正しい寝息が聞こえてくるのだった。
やれやれ、ミケはひっそりとため息をつく。
猫のようにツンと気ままで、それなのに時折困ったように見上げる目は雨に打たれた子犬のようで。
そんなnameに振り回され続けて何度目の誕生日だろうか。
テレビの横に置かれたリビングボードに並べられた幾つもの写真を眺めながらミケは思う。
微かに上下する腹に手を乗せ、つむじに顔を寄せれば柔らかな髪が鼻先をくすぐった。
ふと、背中にひいたクッションの裏に何か堅いものの感触がある気がして腕を伸ばせば、深緑のリボンがかけられた小さな箱が隠されていた。
おおかた食後にサプライズで出そうと思って仕込んでおいたのだろうがこの有様である。
リボンを解いて中身を確かめたい気もするけれど、見なかったふりをするのが賢明だろうと、ミケは再びそれをクッションの裏に戻すのだった。
きっと夜中か、もしくは明日の朝に、「渡しそびれちゃった」と大きな黒目を揺らしながら伏し目がちに言うのだろう。
そんなnameの姿が頭をよぎり、ミケはひとり笑みを浮かべた。
大げさに喜んでも、気にするなと慰めてもきっとnameは機嫌を損ねるに違いないから、だからぎゅっと抱きしめてやろう。
柔らかな唇が自分の名前を形どるのを眺めながら、nameに回した腕に力を込めた。

(141101)
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