さようなら

ふと、額を掻こうとして上げた腕に、nameがビクリと肩を震わせた。nameは硬く瞑っていた目を恐る恐る開けると、ハッとした表情を浮かべてこちらを見た。何かを恥じ入るような、後ろめたいような、バツの悪そうな顔をしたnameは俺の手を引きベッドへ誘う。
いつもであれば脱がされるまで待つ癖に、今晩はいやに積極的だった。足を投げ出してベッドに両手をつく俺の膝の辺りに頬をすり付け、脹脛からするすると手を内腿に向かって伸ばしてゆく。
薄い皮膚を撫でられて背筋が粟立つ。細く息を吐き出した俺を見上げると、nameはベルトに手を掛ける。
美しい手だった。飾り気はないが皮膚や爪、関節の皺、どれをとっても彼女の手は作り物のように小さく、控え目にその存在を主張していた。手と同様にnameは華美な種類の女ではない。そのような女がこのような場所で自分に対して行っている行為を、自分でさせておいて言うのもなんなのだが、俺は酷く不思議に思っていた。
両手の指では数え切れないほど男を前にしているだろうに、それでもまだ慣れない様子で性器に触れるnameをじっと見下ろす。なんとなく、髪に触れたいと思って手を伸ばす。目を伏せて先端に舌を這わせていたnameは、頭上にかざされた俺の手の気配を感じるや否や動きを止めて身体を強張らせる。先ほどといい今といい。成る程な。合点がいって俺は翳した手をそっと髪に滑らせた。

「売られてきたんだろう」

「……」

不思議そうに俺を見上げたnameに向かって俺は言う。

「金目当ての育ての親に売り払われた、違うか」

日の光が当たる世界とは別の理で物事が動かされる地下街において、人身売買、特に子供や女が売り払われることはさして珍しいことではなかった。俺自身、何度も目にしたことがある。実の親に泣く泣く売られてゆく者、好き物の貴族に横流しをするために集められ頃合いが来たら売り払われてゆく者、勝手に拐われてゆく者。そんな人間など後を立つことはなかったのだ。
nameもそうなのだろう。太陽の下で暮らすことができて良かったなお前は。そんな恩着せがましい言葉を吐かれ、限りなくタダ働きに近いような賃金で昼夜を厭わず男に抱かれる。泥水を啜りながら痩せさばらえて死んでゆくのとどちらがマシなのだろう。結局のところ、地下から這いずり出て来たところで俺たちみたいな人間は、太陽の下で胸を張って生きてゆくことなど始めからできないのかもしれない。切り開くことのできる運命と、そうでない運命。抗うことが必ずとも是であると、そんなことが誰に言えようか。
一対の瞳がじっと俺を見る。怯えた少女の体をしたnameの瞳は奥行きに乏しい。それでいて気を緩めた一瞬に吸い込まれてしまいそうな、そんな危うさを秘めていた。

「私は…」

言いかけたnameはその先を口にすることなく、唇で俺の性器の先端を啄ばんだ。影の落ちた眼窩で睫毛の縁が淡く揺れているのが見てとれた。あたたかな口内に性器を包まれて、吐息が漏れる。つるりとした上顎とは対照的にざらついた舌はまるで猫のようだった。くぐもった呼吸と、顔が上下するたびに響く唾液の音はまさに真夜中の路地裏にはおあつらえ向きだった。

「上に来てから誰かに殴られたことはあるか」

「殴られた、こと?」

顔を動かすのをやめ、舌先で裏側をつつきながらnameは考えている。いや、考えているふりをしているだけかもしれない。

「どうでしょう、忘れてしまいました」

そう言ったnameのあまりに寂寞とした笑顔に、性器が半分萎えかけた。それに気付いたnameは再びそれを口に含んで舌を這わせる。先ほどよりも熱っぽくなった口内と舌に弄ばれ、硬さを取り戻した。射精に導きたいのかそうでないのか、意図を図りかねる緩慢な動作で性器を舐めていたnameの髪で手を遊ばせていた俺は、彼女の顎先に指を添える。
ふっくらとした唇は勃起した性器を咥えているせいで引き伸ばされ、従属の表情をそこに浮かべていた。口の右端から零れた唾液が白い肌を濡らしていた。
ある種、特徴のない女は特徴のある女と同じぐらいに需要があるというのが真夜中の世界の常摂だった。金を出しても隣に置きたい女と、適当な金を払って一夜限りの性欲の捌け口としたい女。前者も後者も求める者は後を絶たない。
可もなく不可もなく、nameは後者として男達に毎夜抱かれているのだろう。俺だってその一人なのだから。誰かと特別な関係を築こうという気持ちなどとうに失っていた。煩わしいことに、それでも身体は女を求め、体内に蓄積された精液は放出を望むのだった。自分の手で処理してしまえばいいのだろうが、毎度それではさすがの俺も虚しくなるというのが、やはり自分もただの人なのだと痛感する瞬間でもある。硬貨数枚で手頃な女が後腐れなく抱けるこの場所は、俺のような人間にはうってつけなのだった。
何度も性交がしたいわけではなかったので、性器を口の中で行き来させているnameの頭を掴んで動きを止めさせる。言わんとしたことを理解したのか、nameは卑猥な音を立てて口からそれを引き抜いた。
俺の上に跨がろうとするnameを制して仰向けにベッドへ倒す。薄い下着からわざと乳房をはみ出させその先端に指先を添わせれば、眉根が寄せられ、ぎゅっと瞼が閉じられた。
取り立てて話すことも無いため行為は無言で進んでゆく。これ見よがしに卑下した言葉を吐きかけるのがいいんだよと、以前に言っていた男がいたが、そんなことをするまでもないだろうと秘かに内心呆れ返ったことを思い出す。
ああ、そうか。俺はこの女になにをしても許されるのか。例え犯し殺したとしても、金さえはずめば歯牙にもかけられないはずだ。
身体の根底で未だに渦巻く暴力を、ふと人間に向けたくなる瞬間がなかったわけではない。ただそれが無意味に行われた場合、往々にして人は悪となる。無論俺だって意味のない暴力をふるいたい訳では無い。しかしそれがベッドの上での行為ならばどうなのだろうか。胸の頂を摘まむ指に力を込めれば、「痛い」と告げるものの、その声は甘かった。
腹の奥底に沈殿していたはずの、煮詰められた生糸のような闇がするすると解けて身体を締め付ける。俺はそれを酷く心地いいと思った。
「なあ、name」名前を呼べば、びくりと肩が跳ね上がる。完全に思考回路が被虐者のそれに切り替わっている。違う、俺はお前を単に痛めつけたいんじゃない。「あなたもそうなのね」と、見上げる瞳が言っているような気がして俺は弁明をする。お前を脅かす力を快感に。するり、喉元から這い出した闇色の糸がnameの首に掛けられた。音もなく閉じられる瞼。完全に閉じ切る直前に、あの奥行きの無い瞳に俺は吸い込まれた。まるで日没の瞬間に世界が緑色の光に染まるように、俺は自分の内に渦巻く闇色に包まれる。
暗闇の中、首筋に手が添えられた。

「いいのよ、」

あなたの望むがままに。星の瞬きのような声だった。この女は全てを知っていた。嵌められたと思いながらも、俺は乱暴に、それもかつてないほどの乱雑さでnameの中に押し入った。そこは十分に濡れ、柔軟に俺を受け入れた。柔らかな乳房を鷲掴み、荒々しく唇を犯した。腰を打ち付けるたびにnameは笑い声のような嬌声をあげる。何かの印を描くようにしてnameのつま先が跳ねていた。
一度だけで十分と思っていたはずなのに、全てを出し切った側からふつふつと湧き上がる欲望は一体何処かやらってくるのか。獣のように唸りながら性器を引き抜けば、閉じきらない割れ目からは何度となく放たれた精液が泡立ちながらどろどろと溢れ出す。額を伝った汗が目に染みる。気が付けば夜の闇に幾らか白が混じり出していた。様々な体液でしっとりと湿ったシーツに身を投げる。うつ伏せになったnameの腰が汗ばんでいた。
おい、と呼ぶ代わりに腰に腕を回して身体を反転させる。ぐったりと力の抜けた四肢は頼りない。ゆるりと伸びた指先に萎えた性器を掴まれて、まだ乾き切っていない愛液と精液の混ざり合ったものを塗り込められた。
尽きることの無い性欲は、糸を手繰るような手付きで腹の底から容易く引き上げられる。

「お前は、何者だ」

掠れた声で尋ねたが、答えは返ってこなかった。その代わりに与えられる熱。nameの奥底に渦を巻く熱もまた、尽きることを知らないらしい。俺の身体を跨いだnameの脚の付け根からは、つうっと糸が垂れ落ちていた。それは、まるで。塞がれた唇に視界が暗転した。

(141119)
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