さようなら

昼間だというのに雨降りの今日は酷く薄暗く、どんよりと重たい灰色の雲が日を遮っている所為で室内は冷え冷えとしていた。
合鍵を使って(nameが団長の部屋の合鍵を持っているのはあくまでも「団長補佐」の立場だからである、というのが表立った名分だった)入ったエルヴィンの部屋には、初冬の透明な冷気が床から天井まで隙間なく満ちていた。
nameはそれを掻き分けるようにして暖炉に向かい火を焼べる。パチパチと薪が爆ぜ、赤い火の粉を散らし始めるころには漸く首元辺りまでが暖かくなってきた。
今日は本来ならば屋外で陣形の確認を兼ねた小規模な予行演習が行われるはずだったのだが、この雨では流石に雨天中止となり銘々日常の職務及び残務処理をする日と相成った。
nameはエルヴィンから渡された書類の確認と、それに対するリヴァイの考察を書類に書き加え清書する為に、珍しく一日をリヴァイの執務室で過ごしていたのだった。
炎をちらつかせながら赤々と燃える暖炉の火を見ながらnameは大きく伸びをした。やはりいつもと異なる部屋に一日缶詰めでは知らず知らずの間に疲れが溜まったのだろう。暖かく変質した空気に重たくなる瞼を擦りながら、ソファから立ち上がると窓際に歩いてゆく。
薄っすらと結露の浮いた窓ガラスを指先で擦り、どんよりとした日没手前の空をnameは眺める。
慌ただしい一日で顔を合わせる機会も殆どなかった為、何時頃エルヴィンが部屋に戻るのかをnameは聞かされていなかった。しかし、何時でもいいか、とnameは思う。待つことにはもう慣れっこだ。
暖かくなった部屋とは対照的に窓の近くはやはり寒い。薄い冷気の膜が張ったガラスに触れないように気を付けてビロードのカーテンを半分引くと、蝋燭を点けて回ろうと思い身動ぎをする。
それと同時に、ドアノブが音を立て扉が静かに開いた。
nameとエルヴィンの視線がガラス越しに重なり合う。そうしてゆっくりと振り向いたnameを抱き寄せたエルヴィンは、彼女の温もりを確かめるかのようにして頬擦りをした。

「団長、早かったんですね」

「急いで終わらせてきたんだよ」

腕の中でぴったりと身を寄せるnameの髪を指先で遊びながらエルヴィンは含みを持たせた笑顔を浮かべる。そしてnameを抱いたまま窓際に寄ると、ガラスに自身の背を預けて彼女の額にキスをした。困り顔にも似た恥ずかし気な表情をしてエルヴィンを見上げるname。
たまらないな、とエルヴィンは思う。恐らく彼女は気付いていないだろうが、その顔はベッドの中で彼を見るそれにそっくりなのだった。

「何を考えていた?」

「えっ?」

「窓の外を、眺めていただろう」

「見てたんですか」

気配を悟られないよう細く扉を開けて自分をエルヴィンが見ていた事に気が付かされたnameは「声をかけてくれればいいのに」と唇を尖らせた。

「今日は」

ぎゅっとエルヴィンの服の腕辺りを握るとnameは話し出す。

「兵長の部屋に一日いたので、少し疲れちゃったなと思って」

「……」

いつもであれば彼女の言葉に相槌を打つエルヴィンがなんの反応も示さないのを不思議に思ってnameは真上を見上げる。しかしそれよりも早く動いたエルヴィンはnameの両肩を掴んで身体の位置を入れ替える。背中をガラスに預ける格好になったnameは急な出来事にぱちぱちと瞬きをした。

「name、」

言うが早いがnameの顎を掬って口付ける。予想外の熱っぽいキスにnameは上手く息が継げないのだった。合間合間に涙目になりながら空気を吸うnameをエルヴィンは執拗に追い立てた。

「だんちょ、…くる、し…」

小さな手がエルヴィンの胸元を掴み、やっとnameは解放される。力の抜けた身体はエルヴィンの支えなしでは今にも膝から床に崩れ落ちそうで、その瞳には薄っすら涙の膜が張っていた。

「私の部屋で、リヴァイの事を考えていたのか」

「いえ、それは…そんなつもりじゃ…」

「そうやって、わざと私を妬かせているんだろう」

「ち、違います!」

窓ガラスに腕をついたエルヴィンの胸の中でnameが必死に首を振る。何故だかどうして、この男は殊の外嫉妬深い性分なのだった。自分のあずかり知らぬ場で、他の男に声を聞かせたり笑顔を向けることを心の底で酷く嫌った。仕事なのだから仕方が無いと割り切るものの、本来であれば日が登り沈んでもなお自分の側から離したくなどないというのが本心なのだ。
不穏な彼の表情を見てとったnameはどうしようかと途方に暮れ、そろりと両腕を伸ばすと手の平でエルヴィンの頬を挟む。

「私はいつも…団長のことを、」

「…ことを?」

「かっ、考えて…」

います…。今にも消え入りそうな声でなんとか言い終えたnameは逃げ出したい気持ちでいっぱいになりながら、それでもなんとか誤解(酷く不当な誤解であるが)を解こうと背伸びをする。
ふるふると震える爪先の割りに届かない唇がもどかしく、nameはエルヴィンに助けを求める視線を送った。

「どうした、name」

「どうしたって、あの…えっと」

キスを、あの…。顔を真っ赤にして言いよどんでいるnameを前にエルヴィンの我慢はとうに限界を超えていた。「name…もういい、何も言わなくて」腰を屈めて耳元で低く囁いたエルヴィンはnameの鼻先にキスを落とすと、軽々とその身体を抱き上げた。
落ちないようジャケットを掴むnameは小さな声で「下ろしてください!」と抗議する。しかしエルヴィンは彼女の言葉など意に介さずに足を進めるのであった。

「さっきの続きはベッドでしてあげよう」

ほんの一瞬、足を止めたエルヴィンは腕に抱いたnameを見下ろして言う。反論の言葉が見つからないnameはただ、彼の首に残っている昨晩の爪の痕を赤面しながら見つめることしか出来ないのだった。
雨はまだ降り続いている。世界が僅かに狭くなった、そんな夕暮れの一幕である。

(141126)
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