さようなら

彼が私を抱く理由は、最も手身近に抱ける女が私であったからということ以外に他ならない、と思っていたのです。いつも通り歩いていた道に人知れず張り巡らされた蜘蛛の糸に絡め取られるように、あるいは突然現れた底の見えない縦穴に吸い込まれるようにして私は彼へと堕ちてゆきました。
彼はこれまで受けたことのないような辱めを私に与え、それと同時に私の人間の尊厳たる根本をゆっくりと破壊したのです。
初めはそれが怖くて怖くてたまりませんでした。しかし彼は、彼の行いとは真逆の心底優しい笑みを浮かべて私に言うのです。「大丈夫だ、心配はない」。そう言われてしまえば私の頭はもう、そうとしか思えずに、ひたすら彼の行うありとあらゆる恥辱に満ちた行為を容易く受け入れてしまうのでした。
彼の声には、いえ、彼の目、手つき、仕草、振る舞い。つまり彼の全て、全身、身に纏う空気全てが私を従わせる術を持っている、そんな気がしてなりません。勿論それは、私にだけしか分からないものです。何故なら表向きの彼はその蠱惑的な術を巧みに薄衣に包んで、素晴らしき指揮力を以ってして一兵団を統率し、そして率いるためのツールとして操っているのですから。
ある種の研ぎ澄まされた刃のような色気が私に向けられた時、私は私であることを放棄し、彼の素晴らしく澄んだ目を瞼の向こうに感じながら肌に当てられたひやりと冷たい感覚に神経を集中させます。すう、と躊躇いなく差し入れられた刃は私の薄皮を剥ぎ、その奥に潜んだ桃色の肉を晒します。痛みはありません。彼はそれに長けていますから。滲み出した赤はとろりと甘く、やがて一筋の線になった雫を彼は優しく舐めとります。
不思議なことに、彼が私に優しくすれば優しくするほど私の心は恐怖に震えます。まるで極刑をうけるその直前に、食べたい物をなんでも言ってみろ、たらふく食べさせてやるから、と言われたような気分になるのです。
ですから、優しい舌は凶器となって、私の心を千々に裂くのです。そこから長い夜が始まります。
私を打ち、縛り上げ、髪を掴む彼はお気に入りの玩具で遊ぶ子供のようでした。自尊心を失った私は喜んで彼の玩具として身を捧げます。もはや私は汚されることが喜びとなり、増えてゆく痣を己の勲章としていたのです。
ある時、同期の女の子達が彼について話しているのを聞きました。「独身なんだよね」「やっぱりストイックそうっていうか」「あの誰も寄せ付けなさそうなところが」「さすが団長、って感じ」たわい無い女の子同士のお喋りでした。ねぇ、nameはどうなの?団長補佐のnameなら私達の知らないあれとかこれとか…。
どこまでもたわい無いお喋りなのです。私は静かに微笑みながら「みんなが言う通りの人だよ」と、そう言いました。いいなぁ。羨ましい。私も団長のそばで…。たわい無いのです。本当に。
私は衣服の下に潜む痣を指先で押しながら彼女達の話を聞いていました。じくじくと、滲むような痛みに口の端をほんの少しだけ歪めながら。そう、まさしく彼がするように。きっと彼女達にはそれが微笑みとして見えているのでしょう。
団長の大きな手が私の足首を掴んで開かせる時、決まって私は目を開いたままにしています。彼が目を閉じることを私に許さないのです。
ですから私は開かれた自分の両脚の間から、まるで貴族が優雅にはためかせる扇のような視界の中に彼を見るのです。大概は夜の闇を背負い、極稀に昼間の光に表情を翳らせています。
「どうして欲しい」「何が欲しい」「今誰に何をされている」投げ掛けられる問いのひとつひとつに私は答えます。羞恥に頬を染め、恥じらいながら、歯切れの悪い言葉達で。そうすることによって私の自尊心は、石臼で挽かれた小麦のようにさらさらと音もなくベッドの下へと落ちてゆきます。私は擦り潰されて床に積もった己の残骸を巻き上げながら、彼にがくがくと揺さぶられます。
白く霞んだ視界の中で、やはり彼の一対の瞳は青く光り、私の行き先を照らしていてくれるのです。
お前にはもう俺しかいないんだ。酷くされて糸が切れた人形のようになった私をその腕に抱きながら団長は言います。切迫した、泣きそうな声で。誰にも見せたことなんてなかった奥の奥まで曝け出し、暴かれ、犯されて、それでも足りないとでも言うように私をボロ布のようにひっくり返して。これ以上ないほど深くまで彼は私の中に入ります。
与えられる悦びは私の受容体の許容量を遥かに超えて、溢れ出してはシーツを汚します。涙となり、汗となり、唾液となり、体液となり。あらゆる水を滴らせながら、私は時折悲鳴を混じらせながら、ひたすら喘ぐのです。
押しつぶすように抱かれ、上になるように言われれば彼に跨り腰を振り、押し倒され背後から犯され、果てのない快感に咽び泣く私を、彼は抉り、貪り、粗雑に扱い、そして最後に向かい合わせにして抱き締めるのです。
力無くしなだれかかった私に腕を絡ませ、愛している、こんなでも私は君を愛しているんだ。そんな滴るような甘い言葉の数々を私に向かって囁くのです。
その時の彼の顔といったら。私を組み敷いて意のままにしている時のそれとはあまりにもかけ離れていて、私は返事をすることすら忘れてしまいます。焼き切れた思考の向こう側で、すまないすまない、そう繰り返す彼に曖昧な笑みを浮かべることしかできないこの無力さ!
私はあなたの、団長の補佐でありたいのです。言葉通り、心身共に。私はあなたを救ってあげたい。あげたい、だなんておこがましい言い方は慎まなければいけません。ただあなたのそばに在りたいのです。私という存在が、あなたのせめてもの助けになればそれでいいのです。私はいつもそう思っています。
私を酷くすればするほど、あなたの目が曇ってゆくのを知っていますか。私は心の中で問いかけます。
熱く濡れた胸板に頬を押し付けながら、彼の拍動に耳をすませていると、何故だか無性に悲しくなってしまうのです。私を罰することを通して、私の中の団長を、いえ、エルヴィン・スミスという男を彼が罰しているような気がしてならないのです。どうして彼がそのようなことをするのか、私にはわかりません。何が彼をここまで突き動かすのか。どのような過程を経て、このように歪んだ感情を他人にぶつけるに至ったのか。
知ったところで私に何ができるわけでもありません。ただ、そうだったんですねと頷き彼の頭を抱いてあげたい、それだけなのです。
name、name。ああ、また彼が私を呼んでいます。底のない泥濘に沈む私達を止める術はもう、ただの一つしか残されてはいないのです。それはあまりにも眩しく、甘美な…。ねぇ、団長。

(141217)
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