さようなら

あなたが生まれてきてくれてありがとうと、せめてそう思うことを許してください。
顔を真っ赤にして頭を深々と下げるnameを前に、リヴァイは何といえばいいのかわからずただ押し黙っていた。俯いた肩が少しだけ震えていた。そこに彼は触れたいと思うのだが、薄い空気の膜のようなものが邪魔をしてどうしても触れることはできなかった。だからリヴァイは触れる代わりに言うのだった。「好きにしろ」と。拒絶でも容認でもないその言葉に、nameは下げていた顔を上げると「ありがとうございます」と小さな声で言い、彼に背を向けその場から走り去った。

「ねーリヴァイ、追いかけた方がいいんじゃないのー?」

「覗きとはまた相変わらず悪趣味な野郎だな」

「たまたま通りかかっただけだよ、人聞きの悪い」

曲がり角から頭の後ろに腕を組んだハンジが姿を現した。じろりとハンジを睨んだリヴァイは、しかしnameが去っていった方向とは反対の方向へと歩き出す。そんな彼の姿にハンジは無言で肩を竦めるのだった。

「素直になればいいのに」

そう言ったハンジの言葉は冬の空気の中へと消えていく。

部屋で一人書類に目を通しているリヴァイは寒さに眉をひそめて襟に顔をうずめる。カタカタと小さく鳴る窓枠が、冬の寒さをより一層際立たせている気がした。
ハンジが言った通り素直になれればいいのだろう。しかしそうできないのが自分なのだとリヴァイは思う。栗鼠のように自分の周りを忙しなく動き回り、少しでも手を出そうとすれば大急ぎで巣穴の中に潜っていってしまうname。手の平に乗せて存分に愛でたいという気持ちがないわけでもなかった。が、もうこれ以上何かを失うことについて、リヴァイは考える。
守りたくとも守れないものがあるということは痛いほどその身で学んでいた。自分の心の中へ誰かを入れるということは、去った時にその分だけ空白ができるということを意味している。それを埋める術を、彼は知らなかった。チーズのように穴だらけの心を抱えたリヴァイは、一人それを消費しながら日々を生きてきた。
だからこそ、もう誰も心の中には入れたくなかったのだ。適切な距離を保ち、あくまでも傍観者として他人と関わることが、この世界を生き抜いてゆくための唯一の術なのだった。
畜生、リヴァイはひとり舌打ちをする。感傷的になるようなタマじゃねぇだろ。わざとらしく大きく息を吐くことで胸元のわだかまりを身体の外に押し出した。これが区切りだ、とでもいうかのように。何故なら扉の外に誰かの気配を感じたからだ。こんな遅くに誰だ。ちら、と扉の方に視線をやり身構える。そして聞こえるノックの音。

「兵長」

くぐもって聞こえてきたのは他でもないnameの声だった。

「入れ」

失礼します、と言って部屋に入ってきたnameの手には銀の盆にのせられたティーセットが載せられていた。

「紅茶を持って来いと頼んだ覚えはねぇぞ」

「まだ明かりがついていたので…。少し休憩した方がいいかと、思って」

視線を合わさずに「すみません」と理由もなく謝りながらnameは盆をリヴァイのデスクの上に置く。何も言わずに自分の動作を眺めているリヴァイの視線に緊張しているのか、nameの手は少し震え、カチャカチャと陶器が触れ合う音がした。相変わらず俯いているせいでnameの表情は見えない。少しだけ、唇を噛んでいるように見えるのは気のせいだろうか。リヴァイが脚を組み替えるのと同時にnameが注ぎ終わったティーカップをリヴァイの前に差し出した。

「それでは失礼します。夜分にすみませんでした」

「待て」

待て、と言うつもりなどなかったリヴァイは、自分の口から飛び出した言葉に一瞬僅かに目を見開いた。引き止められたnameはどうするべきか逡巡し、困ったようにジャケットの袖を掴んでいた。

「昼間、なぜあんなことを口にした」

「え、」

問いただすなんて馬鹿げている。リヴァイは思う。それなのに言葉は彼の意志とは無関係に口から零れ落ちてゆく。

「何故、俺にわざわざあんなことを言った?心に留めておくだけにしようとは思わなかったのか」

「それは…」

言いよどむnameにリヴァイは椅子から立ち上がる。ず、と椅子の足が床板を擦る音が響いた。あたたかそうな尾を翻して巣穴に消えようとする栗鼠を引きずり出すように、リヴァイはnameの腕をとる。自分よりも少し背の低いnameの潤んだ眼に見上げられ、リヴァイは言葉に詰まってしまう。

「悪かった、今のはナシだ」

「兵長、」

nameの腕からパッと手を離して言うリヴァイの腕を、今度は彼女が掴む番だった。

「兵長とこうして一緒にいられることが、私は嬉しいんです」

矢継ぎ早に捲し立てたnameはそれだけを言うと強い瞳でリヴァイを見る。頬が食べごろの林檎のように色づいていた。

「ただ、それを兵長に知っていてもらいたかったんです」

伏せた視線を彷徨わせて、消えそうな声で言うname。

「……そうか」

リヴァイはそう言うのが精いっぱいだった。言いたいことは沢山あった。しかし舌の付け根が喉に張り付いてしまったかのように言葉は詰まり、何一つとして出てこないのだった。「失礼します」と、逃げるようにして踵を返したnameは足早にリヴァイの部屋を後にした。残されたリヴァイは、今さっきまでnameの手が掴んでいた己の右手首を左手で掴む。まだ、ほんの少しだけ彼女の熱がそこにはあった。自分の低い体温より、幾らか高いnameの体温の名残を少しでも感じようと何度も何度も指を這わせる。やがてその温もりが自分の体温の中にすっかり溶け込んでしまうと、リヴァイは机の上に灯っていた蝋燭を吹き消して部屋を後にするのだった。

nameは戻った自室で後悔の念に苛まれ、枕に顔をうずめていた。勢いに任せるにしても、言っていいことと悪いことがあるではないか。あんなことを言ったところで、兵長を困らせることになるのはわかりきっていたではなかったか。しかしいくら後悔したところで時間は巻き戻せない。明日の朝一番で謝りに行こう。妙な興奮と後悔とがない混ぜになって未だ心臓が早鐘を打っているnameは、無理矢理に瞼を瞑って眠ろうとする。しかし寝ようとすればするほど、先ほどのやり取りが鮮明に静寂の中で蘇る。
好きという気持ちを伝えたいわけではなかったし、この気持ちを好きという二文字で完結などさせたくはなかった。他人と薄い壁を挟んで接するリヴァイを、その壁の向こう側で感じることができればそれでよかった。触れられなくてもいい。硝子越しに視線が合って、声を聴くことができればそれで。nameは寝返りを打つ。特別になりたいわけではない。なれるとも思わない。大勢の中の一人でいい。それでもいいから、彼の隣にいさせて欲しかった。確かに生きるものとして。失われた過去としてではなく。
どうか来年も、こうして彼の誕生日に同じ空の下で同じ月を眺められるように。祈りにも似た願いを胸に、nameは目を閉じた。
「おい」扉の向こうから声が聞こえた気がして、今しがた閉じた瞼をぱちりと開くとnameは上半身を起こしてドアを見る。聞き間違い、だろうか。息を殺してじっとしていると「寝たのか」と今度ははっきりと、声が聞こえてくる。

「へ、兵長?」

「起きているのなら扉を開けろ」

いつも通りの、低く不機嫌な声にnameはベッドから飛び降りて扉の鍵を外してドアノブを捻る。月明かりに照らされた青白い廊下からリヴァイが現れた。

「name」

「はい」

名を呼ばれればすぐに返事をするのは最早癖を超えて身体に染みついた習慣だった。それは彼女がリヴァイとともに過ごしてきた時間を如実に表すものだということに、name自身は気が付いていない。

「卑怯な言い方をして逃げるな」

「……」

リヴァイの眉間に刻まれた皺が深くなる。彼の言わんとしていることを図りかねたnameは無言で小さく首をかしげる。やはりまずいことを言ってしまったのだ。そう悟ったnameは「すみませんでした」と謝り深々と頭を下げた。

「不快にさせるつもりは、なかったんです。すみません。ほんとうに、」

「どうして回りくどい言い方をする」

じり、と一歩を踏み出したリヴァイに間合いを詰められ、nameはたじろいだ。夜の気配を纏ったリヴァイは壁に映った影のようだった。

「本心は何だ、言え」

腕を取られたnameは、初めて見るリヴァイの表情に言葉を失った。

「私は…ただ…さっきも言ったように…」

「違うだろうが」

「痛っ、」

力が込められたリヴァイの手に握られたnameの手首がひずむ。思わず悲鳴を上げたnameに、しかしリヴァイは先ほどのように手を放すことはしなかった。

「私は、本当に…。兵長が今ここにいてくれることが、嬉しいんです」

「違う」

「違いません」

「それだけか」

「……」

それより先に踏み込むということが、何を意味しているかが分からぬほど互いに子供ではなかった。そして、それより先に手放しで突き進んでゆけるほどに幼ければどれだけよかっただろう。そんな二人は沈黙の中で対峙する。静寂を先に破ったのはnameの方だった。

「それだけでは、ありません」

ぽつりと口にしたnameは顔を伏せる。言っても、いいのだろうか。大勢の中の一人であった自分、それで満足していたはずなのに。
握った手首から感じるnameの拍動に、リヴァイの全神経が注がれている。何かを読み取るように、指先から規則正しい脈を刻む血管に指を這わせた。そして。

「俺の中に、どうして入り込む」

絞り出すような声でそう言ったリヴァイにおもむろに抱きしめられたnameは、咄嗟の出来事に声を失った。だらりと下りたnameの両腕が行き場を探す。滲んだ体温を全身に感じて涙が零れそうだった。真冬だというのに吹いた陽だまりように柔らかな風が、二人の間にあった薄い膜を吹き飛ばし、そして運び去った。
触れている。今、私は兵長に触れているんだ。夢、なのだろうか。曖昧になった現実を確かめたくて、nameはそっとリヴァイの背中に腕を伸ばす。

「私は、私はただ、兵長と一緒にいられれば、それでいいんです」

「……」

「特別になりたいだなんて…そんな、おこがましいこと、私には…」

そこまで言ったnameの両肩を掴むと、リヴァイは身体を引き離し、nameの顔をじっと見た。瞬きをする彼女の目から、零れた一粒の涙。
守りたいもの、守るべきもの。喪失の痛み。愛。守れなかったもの。失いたくないもの。決して失ってはいけないもの。name。

「name」

気が付けば名を呼んでいた。リヴァイはもう一度nameを抱きしめる。

「同じことを、てめぇの誕生日に言ってやる」

「え…?」

「いいな、覚えておけ」

「あの…それは…」

「それまでに答えを考えておけ。いいな」

それが、彼の言える精いっぱいだった。狼狽えて視線を彷徨わせるnameの頬に手を添えて、額にそっと唇をつける。nameは停止した時間の中で、薄い皮膚の向こうに潜んだリヴァイの鮮烈な熱を見た。二人の間を隔てるものは、もはや透明な膜ではなく、薄い一枚の皮膚だった。目を見開いて立ち尽くしているnameと視線を一瞬絡ませると、リヴァイは彼女から身体を離して踵を返す。追いかけることもできずに緩慢な視線の動きでリヴァイの背中を追うname。

「風邪ひくなよ」

それだけを言い残してリヴァイは後ろ手に扉を閉め、自室へと戻っていった。
たった一人部屋に残されたnameは、先ほどまでリヴァイの唇が押し当てられていた場所に手を当てる。熱い。まるでそこが心臓になってしまったように熱く脈を打っていた。

「意味、わかりませんよ…兵長…」

自分の誕生日がいつだったかを思い出しながら、nameはぼんやりと思う。何と答えを返そうか。言いよどんだら最後、ものすごい勢いで睨まれそうだ。
えへへ。情けない笑いが緩んだ唇から漏れて、nameはその場にしゃがみ込む。兵長、私はあなたの特別になれるんでしょうか。窓枠に切り取られた夜空に浮かぶ白い月に向かい、nameは心の中でリヴァイに問うのだった。
- ナノ -