さようなら

その場所は、人間が住むにはあまりにも劣悪な環境だった。陽の光はほとんど入らず、土は常に湿り、どこからか漏れ落ちてきた汚水が至る所に水たまりを作っている。人々の目は淀み、肌は浅黒いか青白いかのどちらかで、大方の子供は慢性的な栄養不足なのだろう痩せこけていた。新鮮とは程遠い、黴臭い空気に眉を顰める。丁度飯時なのだろうか、家々から火を使って調理をする煙が細く昇り、饐えたにおいに暖かな食事の香りが混ざり合う。それはまさに混沌だった。この場所がシーナの地下にあるということが、一番の皮肉のように感じてならなかった。
フードで顔を隠し歩いている途中、ふと、家の脇に蔓草が生えているのを見つけて足を止める。これほど光が乏しい場所にも生える草があるのかと、不思議に思い近づいた。葉の表面には細かな産毛が生えており、指先で触れるとサリサリと柔らかく肌を刺す。見たことのない植物だった。腰を上げると、叩けば割れそうな窓ガラスの向こうに、一人の女が立っていた。こちらに半分背中を向けているせいで顔は良く見えないが、ほっそりとした面持ちで、可愛らしい感じの額が前髪の隙間から覗いていた。視線に気が付いたのか、女がこちらを振り返る。真正面から見ると、女というよりも、まだあどけなさを残した少女のようだった。自分と目が合うと、兵団員の珍しい出で立ちに驚いたのか目を丸くして、そして慌ててぺこりと頭を下げた。顔を上げる一瞬、弾みで揺れた前髪から、また額がちらりと見えた。

目を開けるともう朝だった。夢を、見ていた気がする。腕の中はもぬけの殻だった。じゃが芋をミルクで煮る香りが、起き抜けの空腹を刺激する。まだ眠たい目をこすりながらベッドから降りると、暖炉に掛けた鍋を掻き混ぜているnameを後ろから抱き締める。苦しいよ、と振り返るnameの頬に口づけをして腕を解けば、彼女は控えめな笑顔を浮かべ鍋に向き直った。白くて小さな手が握る木杓子は自分から彼女に贈ったものだった。
こういう時に、地位は一つの力であるということを思い知る。貴族や鼻持ちならない憲兵団たちのように、普段己の立場をひけらかす様なことは決してしない。しかし、ある場合においては、自分の、そして自分を取り巻く者の持つ力を駆使することで、ある程度の願望を叶えることが出来るのだ。その点に於いて、それは大変有難いものであるのだった。そうして俺はあの日見つけた(生涯で初めての、一目惚れだったのだ)nameを地下街から連れ出した。
身一つで自分の元にやってきたnameへ贈った、初めてのプレゼント。そんなものでいいのかと、何度も尋ねたにもかかわらず、nameは申し訳なさそうな表情をして頷くばかりだった。悩んだ挙句エルヴィンに相談したのだが「家庭的でいいじゃないか」と、何とも真っ当な(そして何の役にも立たない)回答しか返ってこなかったため、結局俺は極めて標準サイズの木杓子をひとつ買って帰った。それにしても、柄の部分にオフホワイトのリボンが結ばれた木杓子というのはやはり、誰がどう見ても滑稽な代物だったに違いない。しかし彼女は、それを俺が手渡すと、ぱぁっと花が咲いたような笑顔でこちらを見上げ、小さな声で「ありがとう」と礼を述べ、俺をひどく照れくさい気持ちにさせたのだった。
そうして彼女は、毎日食事を作ってくれる。仕事を終え帰宅して、部屋に明かりが灯っているということはいいことだ。そして、誰かの手料理を食べるということは、幸福以外の何物でもない。nameの背中を眺めながらしみじみと思う。

俺が地下街暮らしの女であるnameを自分の元に置きたいと言ったとき、始め、エルヴィンはいい顔をしなかった。数度のやり取りを経て尚、俺の意向が変わらないことがわかると、「取り計らおう」と言って肩を竦めた。「後悔することになるかもしれないぞ」付け足すように口にしたエルヴィンは、椅子を回転させ俺に背を向けた。誰が、とは言わなかった。独り身であったし。長い間兵団の兵舎で暮らしていた為、自分の家は持っていなかった。しかし自分ぐらいの階級ともなれば、一般兵とは少し離れた場所に上官用の居住区があり、希望者はそこを借りて住むことができた。何かと忙しい身であったし、食堂も備え付けられている為重宝していた。それなりの広さはあるから人数が一人増えたところでそう大差はないだろう。珍しくはやる心を抑えきれない俺を、リヴァイやハンジは気味悪がった。「へぇーあのミケがねー」「あのクソみてぇな場所から連れ出したら抱く前にまずシャワーを浴びさせろ、いいな」などと好き放題言っている同僚を脇目に、俺はただnameの白い額を思い出しては口の端をほんの少し、緩めるのだった。
恐る恐る、地上の乾いた土を踏んだnameはひしめく雑踏に怯えた表情を浮かべ、戸惑いがちに俺を見上げた。手を差し出すと、彼女は俺の中指をぎゅっと掴んだ。細く、白い指だった。血が流れていないような、まるで湿った地下の土のようなそれ。シーナの門までは馬車を頼み、そこからは自分の馬で兵団本部へと向う手筈になっていた。馬車の中で、不安げな面持ちをしたnameが口を開く。

「どこに、行くの?」

「陽の当たる、暖かい場所に」

怖がらせないよう、言葉を慎重に選んで言った。明確な場所を教えられた訳でもないというのに、nameは安堵の表情を浮かべ、「そう」と言うと、ふっくらとした唇を綻ばせるのだった。

「でも、いいのかしら。私なんかが、こんな」

そこまで言うとnameは口を噤み、馬車の窓に掛けられたカーテンを退けて外の景色を窺った。

「一緒に来ればわかる」

何故、俺がお前を連れ出したか。その言葉を胸に秘めて彼女の肩を抱いた。酷くあどけない表情でこちらを見上げたnameの可憐な一途さと、けれどまだ完全には打ち解けない様子に、愛おしさがより一層募るのだった。身寄りのない独り者だからと、nameは詳しい出自を語りたがらなかったが、それならそれで構わなかった。裏を返せばそれは、これから自分の手で彼女をどうとでもしてやれる、ということなのだから。
シーナの門を潜り、馬上に上がったnameは初めて見る景色に目を細め、青草が波打つ広大な草地を渡る風に鼻先をひくつかせた。そよ風が銀色に草を揺らし、時折乾草の匂いが香る。ゆるく蛇行した一本道を馬が駆ける。

「素敵なのね、外の世界は」

「ああ、そうだな」

自分にとっては当たり前の世界だった。腕の中で逐一漏れる感嘆の声に笑いながら、日が暮れる手前で兵団本部に辿り着く。燃えるような夕日が沈むさまを、nameは馬上からいつまでもいつまでも眺めていた。先に馬から降りて、nameに両腕を伸ばす。怖々飛び降りた彼女を抱き留め、目いっぱい抱き締めた。スン、とついいつもの癖でうなじの匂いを嗅ぐ。リヴァイの言っていた事を思い出したが、彼の言葉とは裏腹に、nameの首筋からは春の花に似た柔らかく甘やかな香りがふわりと立ち上る。首筋に当たった髭がくすぐったいのか、忍び笑いをしたnameが腕の中で身を捩った。陽が落ちて一帯の空気が冷えはじめていた。「おいで」と言って手を引けば、大人しく自分の後をついてくる。
見慣れた部屋に、人が一人増えるだけでここまでがらりと雰囲気が変わるものなのかと驚いた。部屋着に着替えてソファに座る。腕に抱いたnameは不慣れな外の世界に疲れてしまったのか、うつらうつらと微睡んでいた。無防備なのだな、と思う。これでよくあんな物騒な場所で生きてこれたものだと感心さえした。いや、それよりも感心すべきは己の行動力だった。そうではない、反省すべき、と言った方がいいかもしれない。しかしもう、後戻りはできなかった。nameを抱いている腕に、彼女が触れる。「あなたは、強い人なのね」囁くような声だった。腕の毛を指先で弄りながら、胸元に頬を寄せたnameがとろんとした目でこちらを見る。眠たげにしているのをいいことに、口づけをした。間近で見たいがために、目を開けたまま。半分閉じかけていたnameの瞼は一瞬間をおいて大きく開き、唇を割れば再び眠たげな表情へと戻る。は、と湿った吐息が口唇の隙間から漏れ、唇と唇を繋ぐ糸が切れるとnameは力なく俺にしな垂れかかるのだった。

「ミケ、」

「なんだ」

「あったかい」

「言ったろう、お前を暖かい場所に連れていくと」

「うん」

屈託のない笑顔を浮かべたnameは俺の手の甲に自分の手を重ねる。

「もう、怖いことなんてない?」

「……ああ」

良かった。柔らかな息を吐くnameの髪を梳き、抱き寄せる。やはり、嫌な思いをするようなことがあったのかと胸が痛んだ。ここにいれば、もう彼女に手出しをする者などいはしない。nameは、あんな場所で打ち捨てられていていいはずの人間ではないのだ。ご執心だな、とエルヴィンに差し出口をきかれたが、強ち否定はできなかった。どうしても、手に入れたかったのだ。抱いた腕に力を入れれば、nameはまたクスクスと、可憐な笑い声を上げるのだった。
そうして、その後、俺とnameはたっぷりとベッドを使って楽しんだ。長らく陽に当たっていなかったのであろうnameの肌は、夜の闇によく映えた。ほっそりとしたふくらはぎの裏を晒し、投げ出された踵はころんと丸く、すべやかだった。膝の窪みに舌を這わすと、nameは俺の頭を撫でながら甘い声で名前を呼んだ。
小ぶりな乳房だとか、硬くなった頂の桃色だとか、控えめな和毛だとか。やはり彼女は女というより少女であった。それを愛おしという言葉以外で、いったいどう表現すればいいのだろう。思うままに抱いたnameの身体は柔らかく、よくしなった。恍惚のあまり、何度も吐息を吐き出した。そのたびにそれは、彼女のきめ細かい肌の中へと消えていく。
どれだけ時間が経ったのだろう。くたくたになって絡まるようにシーツに沈んだ頃には既に、東の空が白み始めているのだった。甘い汗に濡れた肌に口づける。大きな瞳を情事の名残で潤ませながら、nameがこちらに目を向けた。

「やっと、ここに来れた」

歌うように言ったnameは、ふっと、目元を緩ませた。伸びてくる腕が首に絡む。その細腰を引き寄せて抱き締める。髪に鼻を埋めれば、自分の匂いに浸食されたnameの香りがそこにはあった。まだ足りないという己の欲望を伝えたくて、両手で包んだ頬を上向かせ、唇を塞ぐ。「ミケ」身体の中に吹き込まれる自分の名前は、琥珀色の液体のように甘く、舌に心地いい。アルコールに溺れるが如く、ゆっくりと、ゆっくりとnameの中へと沈んでゆく。どうか永久にこの時間が続けばいいと、置かれた身の全てを忘れて今だけはそう思う。nameの零した吐息を掬いながら、ありもしない大袈裟な願いを胸に抱く。
「のめり込むなよ」、悪戯っぽく言われたエルヴィンの忠告を、どうやら俺は守れそうにない。

(150111)
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