さようなら

夜半鳴った携帯電話の液晶画面には、あいつの名前が表示されていた。しばらく連絡も寄越さなかったくせに。今から行ってもいい。こちらが話すのも待たずに聞こえてきたのは抑揚を欠いたひどく平坦なnameの声だった。どこにいる。後どれぐらいかかる。そんな問いかけを全て黙殺し、電話は切れた。どこに居るのか、背後からはなんの音も聞こえてこなかった。
部屋の暖房の温度を二度程上げる。明日が休みだからいいものを。溜息をついてコーヒーメーカーをセットした。何と無く落ち着かず、オーディオだとかテレビボードだとかの埃を払ったり、使っていないグラスを磨いたりして時間を潰した。
ピンポン。響いたベルの音。ドアを開ければそこにはnameが立っていた。見慣れた明るい表情はなく、俯き加減に定まらない視線でこちらを見ると「お邪魔します」と掠れた声で言う。異様な雰囲気にたじろぎながら部屋に入るnameの後を追う。ぺたりとソファの足元に座り込んだnameの肩から鞄がずり落ちた。

「何かあったのか」

「…これ、捨てといて」

突き出された手に握られていた小さな紙袋。中身を察するにそれはチョコレートだった。ああ、成る程な。
nameが付き合っている相手を俺は好いていなかった。直感的に、こいつは信用おけない奴であると思っていた。なにより、俺の直感は往々にして正しいのだ。忠告はした。ただ、恋と言うものは盲目なのだ。往々にして。
大方手酷く振られたのであろう。さもなくば浮気現場に居合わせてしまった、とか。
コーヒーを取りに立った俺の背中に「シャワー貸して」と言ったnameは、やはり俺が何かを言う前に立ち上がりバスルームへと消えて行った。
nameは妹のような存在であった。小さな時から知っていたし、兄弟のいない俺にとっては唯一の守るべきものであるような気がしていた。成長し、付かず離れずの距離を保っていたが、ようやく自分のnameに対する気持ちが恋だとか愛だとか世間でいうようなそれに当たるものであると自覚した頃には、nameは別の男と付き合っていた。
引っ込み思案のnameがはにかみながら「彼氏ができたの」と告白して来た時は、表面上なんでも無い風を装っていたが、横っ面を張られたような衝撃にぐらりと視界が揺らいだ。そして初めてその彼氏とやらを見たとき、ああ、これはやめておいた方がいい、そう思ったのだ。個人的な、密かな嫉妬を抜きにして、だ。
ミルクも砂糖も入れないコーヒーを啜る。ザアザアと向こうの方で響くシャワーの水音をバックに、俺は転がったままの紙袋を手に取った。
しっかりとした作りの紙袋からして高価なものなのだろう。たかがチョコレート。甘いものが苦手な自分としては安かろうが高かろうが、それはただの頭痛を引き起こしそうな程に甘い茶色の塊、ただそれだけだった。言われた通りゴミ箱に捨てる。罪悪感は無かったが(罪悪感という言葉自体が全くのお門違いであった)、紙袋がゴミ箱の底に当たる鈍い音が鳩尾あたりに重たく響いた。
何分経ったか、少なくとも三十分以上は経っているのではないか?シャワーだけにしてはあまりにも長すぎる。が、依然として水音は絶え間無く聞こえていた。何かがおかしい気がして、立ち上がる。

「おい」

躊躇は無かった。扉を開けたそばからわっと蒸気が膨れ上がりこちら側に雪崩れ込んできた。

「おい!name」

白く煙った浴室で、裸のまま、nameは壁に頬を押し付けるような格好でしゃがみこんでいた。ひっくり返ったシャワーヘッドからは熱い湯が噴水のように迸っていた。
服が濡れるのも構わずにnameの腕を取る。シャワーを止めることもせず、nameを抱き締めた。その身体はあまりにも頼りなく、まるで幼いころのままだった。放っておいた俺が悪かったのだ。自意識過剰かもしれない。しかし、俺はそう思った。ズボンの裾が、重たく濡れていた。

「リヴァイ、」

「……」

「振られちゃった」

「……そうかよ」

だからやめとけと言っただろうが。そう言って頭を抱いた腕に力を込めれば、nameの肩が上下した。微かに聞こえてくる嗚咽。薄い肩が痛々しかった。

「リヴァイの勘は、やっぱり当たるね」

「少なくとも、てめぇよりはな」

「…はは、」

泣き笑いするnameの腕が背中に伸びる。小さな手が、濡れて肌に張り付いたシャツを握っていた。
浴室は暖房が効いていて暖かかったが、このままでは風邪をひいてしまいそうだった為nameを立たせるとバスタオルで身体を包んでやる。されるがまま身体をこちらに預けている様は、ずっと昔のことを思い出させた。まだ、nameが幼かった時のことを。いつでも自分の後ろをついて回るnameはまるで親ガモを追う雛鳥だった。よちよちと、覚束ない足取りで。
それが今ではどうだ。こんなに手足はすらりと伸び、そして、あどけなさの残る瞳に憂いを乗せて。濡れた髪の束から覗く白いうなじに、つい見惚れていた。手が止まっていたのを不思議に思ったのか、nameがこちらを振り返る。
気が付けば唇が重なっていた。自分の立場だとか役割だとか、今まで慎重に積み重ねてきた関係性だとか、そんなものは完全に意識の外だった。
ほんの数秒のことだった。唇が離れ、止まっていた時が動き出す。目を見開いたままのnameは唇を少しだけ震わせて、そして目を伏せた。
自分のしたことは過ちだったのだろうか。わからなかった。心の中で舌打ちをする。こんな筈では無かったと。
髪も乾かさないままのnameに手を取られ、リビングへと戻る。裸にバスタオルを巻いただけのnameの肩甲骨が、綺麗だった。
二人してソファに並ぶ。無言。nameとの間に降りる無言は苦痛なそれではない。ただ、今は少し状況が異なる。少し、いや、甚だしく。nameは俺の手を弄りながら何かを言おうとしては止め、そして思案し、また唇を結んだ。

「チョコ、食べたい」

「……てめぇが持ってきたのしか…」

いや、そういえばこの前。立ち上がりキッチンに向かう。戸棚の奥で忘れられたように置いてあるチョコレートの袋。アルファベットの打たれた一口サイズのそれは、確かエレンがくれたものだった。同期のみんなで集まった時に買ったんですけど余っちゃって仕方なく配ってるんですよ。とかなんとか言っていて断るのも面倒だったから貰ったのだった。

「これしかねえぞ」

がさりと袋の口を開ければそれだけで甘ったるい匂いが辺りに漂う。ひとつ剥いて差し出すと、鳥の雛が餌をねだるようにして顔をこちらに向けるname。伏せられた睫毛が頬に影を落としていた。
柔らかな唇にチョコレートを挟んでやると、赤い舌先がそれを掬った。

「おいし、」

ふう、とnameがついた吐息は甘い。

「ほんっと、最低のバレンタイン」

「最高、の間違いだろ」

「酷いなぁ」

「あんなクソ男と別れられたんだ、むしろ喜べ」

そう言ってnameの髪を乱暴に撫でれば、nameは一瞬泣きそうな顔をして、そのまま笑った。くしゃくしゃの笑顔だった。

「そりゃあリヴァイに比べたら、みんなクソみたいな男だよ」

「なんだそれは」

眦の涙を拭ったnameを凝視する。丁寧に塗り固めた壁が剥がれる音がする。数え切れない時間、慎重に塗り重ねてきたもの。

「だって、なんだかんだで優しいし、頭いいし、まあ背は小さいけど」

「最後のは余計だ」

「まあ、そういうこと」

そういうこととはどういうことだ。問いただそうとしたがnameは立ち上がり、「パーカーかなんか貸して」と言って俺の部屋へと歩いて行った。

「おい、先に髪を乾かせ」

背中に向けて言った言葉は空中をしばらく漂い、曖昧に消えて行った。「これがいいー」と向こうから聞こえてくるnameの声はいつも通りの呑気なものだった。自分にとっては頭痛の種であるあの甘い塊も、あいつにとっては元気の素のようなものなのだろうか。それにしたって効果は絶大ではないか。
まだ甘い香りの残る気がするリビングを後にして、nameのいる自室へと向かう。
ああ、そうだ、部屋には、ベッドが。などと不埒な妄想を抱いた己に舌打ちを今度こそ本当にひとつして、足を踏み入れた自室でベッドを背に俺のパーカーを羽織って立っているnameを見ればやはり不埒な妄想は現実となり襲いきて、すんでのところで崩壊を免れている俺の自制心をガクガクと揺さぶるのだった。

(150130)
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