さようなら

(ミケさんが若い時のお話)

「どう、そろそろ慣れた?って、きみには愚問か」

ふふ、そう言って笑ったnameは俺の肩をポンと叩いた。肩を叩いたといっても彼女は背が小さいので指先が肩を掠めただけだった。
訓練期間を終え調査兵団に入団した俺は、nameが副隊長を務める班に配属となった。訓練生のころから自分の実力が頭一つ抜けているということは自覚していた。希望すれば憲兵団に入ることもできたが己の力を試したいがために調査兵団への入団を希望した。若さ故、だったのかもしれない。
一度壁外に出れば一瞬の油断も許されなかった。死んでゆく仲間も勿論いたが、覚悟の上であったし、何しろ自分は決して死んでなるものかと硬く心に決めていた。至って真面目な人間として周囲には認識されていたと思う。上官からの小間使いも、ひいては己の為になるのだとそう言い聞かせて実直にこなした。中には低姿勢をいいことに無茶を言いつける先輩もいたが、やがて俺の実力を知るにつれてそういう輩は自然といなくなった。
name。本当は年上であり目上である彼女にはきちんと「さん」をつけて呼ぶべきなのだろうし、自分でもそう呼ばせてくれと何度も頼んだのだが彼女は頑なに「nameでいいって」とふにゃりとした笑顔を浮かべて拒むのだった。「私なんかよりミケの方が実力ありそうだし。それに私、さん付けとか堅苦しい感じで嫌なんだよね」そんな風に言うと目を細めて明るく笑った。
彼女はそんな風に自分のことを謙遜するが、その実力は大したものだった。のみならず、彼女にはずば抜けた人望があったのだ。デスクワークにおいても壁外においても、さりげなく誰かのフォローに回り、絶妙なタイミングでその手を引いて相手が意図していた以上の成果を引き出すことのできる能力を彼女は持っていた。彼女が、そうそう探している類の人材ではないということは若輩の自分でも理解ができた。
俺に関しても彼女は公平だった。公平、という言葉は彼女にぴったりだと俺は今でも思っている。

「ねぇ、ミケはさぁ彼女とかいないの?」

食堂での雑談の延長だった。いませんよ。と言った俺にnameは好奇心の目を向けて詰め寄った。

「えー意外」

「そうですか?」

「うん。寡黙だけど優しい感じだし、女の子ってそういう男の子結構好きだよ?」

「…はぁ」

「ふーん…そっか…ふーん…」

にやにやと視線をこちらに寄越しながら、テーブルの上で組んだ両手の上に顎を載せたnameがこちらを見上げてくる。上目づかいに、どきりとした。

「好きな人は?」

「……」

言ってしまおうか。あなたが好きです、と。一瞬泳いだ視線を見逃さなかったらしいnameは何と無くテーブルの上に置いてあった俺の手を取るとゆさゆさと揺さぶった。

「その顔は好きな人いるって顔だなー!」

誰?言わないから教えてよ、こそっと!なんて呑気に言っている当の本人。

「……目の前にいるんですが」

そう言えば、nameは勢いよく後ろを振り返り、そして再びこちらに向き直る。そんな彼女に「あなたですよ」と言えば、nameはぱちぱちと瞬きをして花が咲くような笑顔を浮かべた。

「やだなーミケってば、冗談うまいんだから」

「いえ、冗談ではないのですが…」

「またまたぁ。年上をからかうもんじゃありません」

わざとらしく顔を斜めに向けて、立てた人差し指を左右に振りながら言うnameに本心であると説明しようとしたけれど、タイミング悪くお呼びがかかり彼女はひらひらと手を振りながら去っていった。鈍いのか、なんなのか。いや、ろくにアプローチをしていない自分が悪いのだ。しかしこれ以上の距離の縮め方なんて自分では思いつきそうにない。

「…というわけなんだが、エルヴィン」

「何を悩んでいるのかと思えばそんなことか」

「失礼な奴だな」

薄暗い酒場のカウンターで、エルヴィンと並んで酒を啜る。エルヴィンはそれなりに女に人気があったし、こういう類の事柄にはどの友人達よりも長けていた。

「簡単さ、押し倒せ」

「あのなぁ…」

「向こうもお前に気が無いわけじゃ無いんだろう?」

「それは…正直わからん。あの人は誰にでも公正に優しいんだ」

アルコールを舌先でつつきながらエルヴィンは肩を竦める。

「なら気があるってことだ、問題ない」

「なんだその理論の飛躍は」

爽やかな笑顔で親指を立てて見せるエルヴィンに「いつか刺されるぞ」と言ってグラスに残っていたアルコールを飲み干した。酔いは全くといっていいほど回らず、ただエルヴィンに相談した自分が間違いだったと後悔するのであった。






「あー…終わらない…」

デスクに突っ伏したnameが呻き声を上げる。彼女のデスクの上には山ほど書類が乗っていて、それは今にも崩れてしまいそうだった。団長に連れられて上部組織の会議に出なければいけないからと分隊長が彼女に仕事を振った結果である。
往々にして上に立つ者よりも、上と下に挟まれた中間の人間が一番やるべき仕事が多いのは定石である。彼女も彼女自身の仕事をたんまりと溜めこんでいるうえにこれなのだ。
下っ端である自分にはルーティンワーク以外に抱える仕事も少ない為、彼女の手伝いを申し出ることにしたのだった。
下心がなかったといえば嘘になるが、単に仕事で手が回らなくなっている彼女の助けに少しでもなれたらと思ったのだ。
初めは「いいよ、悪いよ、きっと徹夜コースだよ」と申し出たこちらが恐縮するような断りっぷりを見せていたnameであったけれど、どうしても引き下がろうとしない俺にとうとう折れたのか、それともやはりあの量を一人でこなすのは無理であると判断したのか、彼女は申し訳なさそうな顔をしながら書類の束を手渡した。
仕事の内容は然程難しいものではなく、ほぼほぼ分隊長の残務処理のようなものばかりであった。

「こんな事まで回されて、大変ですね」

「んー、まあ人手不足だし分隊長もそれなりに忙しいし、仕方ないよね」

あなただって「それなりに」忙しい身じゃないですか、と言いたかったけれど、nameの目の下にうっすらと浮いた隈を見るとそんな軽薄な台詞など口にはできなかった。刻々と時間は過ぎ、夜は更けていった。何度か休憩を挟みつつ、時計の針が深夜一時を回る頃ようやく机の上が片付いた。

「終わったー…」

「お疲れ様でした」

「ミケこそお疲れさま。明日が休みで良かった」

少し疲労の滲んだ笑顔をこちらに向けると、nameは「でも流石に疲れたー…」と言って机に沈む。

「今度お礼させてね」

「いいですよ、そんなつもりで手伝ったわけでは無いんで」

「上官の顔、立てさせてよ」

ねっ?
nameは右頬を机にぺたりとつけたままこちらを見て微笑んだ。自分より年上のはずなのに、そのあまりにもあどけない笑顔に胸が苦しくなった。きっとnameは俺が頬に触れたとしても、こうして無邪気に笑うのだろう。例えそうするのが俺でも、俺以外の人間でも。

「さ、お部屋に帰ろう。各自撤収!」

nameは跳ね起きると未だ椅子から動けずにいる俺の腕をとる。

「ミケ、ほら立って」

ぐいぐいと腕を引かれ立ち上がる。

「部屋まで送って行きますよ」

「えーいいよー。ほら、別に私なんか襲うやつなんかいないし、襲われたってやっつけてやるから」

nameはころころと笑って身体の前に構えた拳を繰り出してみせた。こういう、子供っぽいところを、狡いと思う。無自覚故に、尚更。「さ、行こ行こ」と言って俺の腕を掴んだままnameが踵を返す。その瞬間髪が揺れ、白いうなじが露わになった。

「……み、ミケ?」

ほんの一瞬の事だった。気が付けば俺はnameのことを抱きしめていた。戸惑ったようなnameの声。腕の中で困惑した彼女の身体が強張っていた。

「俺のことも…やっつけますか?」

口が、勝手に動いていた。彼女を困らせるつもりは無かった。それでも、頭の中を木霊しているのはエルヴィンが言った「押し倒せ」の一言だった。つまり、そういうことなのだろうか。いや、そんな事をしてnameに呆れられたくはない。俺はエルヴィンとは違う。抱きしめたまま固まっていると、回した腕にnameの手が触れた。柔らかな手のひらだった。少しだけ腕を緩めて距離をとれば、nameがこちらに向き直る。

「前にも言ったでしょ、年上をからかうな、って」

「俺は本気です」

どうしてあんなにも強気な事が言えたのだろう。きっとそれはnameの放つ甘い香りの魔力だったのだ。そうとしか、言いようがない。彼女のふわりと香る花のような匂い。一人でいる時に思い出すと必ず呼吸の仕方を忘れたようになってしまうし、身体は酷く苦しかった。時にその香りを思い出しながら自分を慰めることすらあった。name、と呻くように呼んだ名前に俺は後ろめたさをいつも感じていた。
自分でしておきながら言うのもなんだが、だから今こうして彼女が腕の中にいるということは驚くべきことだった。

「だめだよ、ミケ」

「なにがだめなんですか」

「……」

nameはしばらく俺の瞳の奥を探るように見つめ、ふっと視線を斜め下に逸らす。

「そんな風に言われたら、本気に、しちゃうから」

「してください」

心臓が早鐘を打っていた。それでもまだ躊躇う素振りで立ち尽くしているnameを、今度は正面から抱きすくめる。息をのむ音が腕の中から聞こえ、そしておずおずと戸惑いがちにnameの腕が背中に回された。ささやかな腕の束縛に、理性は最早崩壊寸前だった。これもまた、若さ故、だったのだろう。
顎に手をかけ上を向かせる。怯えたように、閉じた瞼を縁取る睫毛が震えていた。怖がらないで下さい。囁いて、薄い瞼に口付けをした。触れるだけのキスをして、唇を離した。鼻先を触れ合わせる。唇と唇の僅かな距離がもどかしかった。再び唇を重ねれば、あとは坂を転がる石のようにスピードをあげて落ちてゆくだけだった。貪り、噛みつき、舌を絡めた。
これまでしたことのある甘酸っぱいキスなど、記憶の彼方に吹き飛ばされてしまうような口付けだった。キスまでは何度か経験したことがあったが、性交に関しては未体験だった。従ってこの先は未知であり、エルヴィンが言ったようにはたして簡単に行くものなのかどうかすら謎だった。
が、そんなことは言っていられない。何故なら身体が勝手に動き、気が付けば俺はnameを部屋の片隅に置かれたソファの上に押し倒していたからだ。唇だけでは物足りず、額や頬にもキスをする。
もっと、ありとあらゆる部分に触れたかった。俺の首に腕を回したnameはされるがままに全てを受け入れている。
首筋を吸い、服越しに乳房に触れた。何物にも代え難い柔らかさでnameの胸は俺の手を受け止め、びくりと彼女が反応したのと同時に甘い香りが濃くなった。

「ミ、ケ…」

「抱いても、いいですか?」

「この状況で、ダメって言うほど厳しい上官じゃ、ないよ」

「上官じゃない。nameは、nameだ」

つい荒くなった語気を咎める風でもなく、nameは俺の髪に指を通した。

「いいよ、ミケ」

おいで。囁くように言ったnameは耳の辺りで遊ばせていた指を一度離すと、両腕で俺の頭を抱きしめそして抱き寄せた。
nameの頬を包む両手が、震えた。涙袋の膨らみや、鼻筋、そして唇に触れる。覚束ない俺の手に、nameの小さな手が重ねられた。

「……初めて?」

部屋には二人しかいないというのに、nameの声は耳打ちをするように密やかだった。頷いた俺に彼女はしばらく沈黙し、そして「ほんとに、いいの?」と念を押す。真剣な顔をするnameに、一体どうしたらこの気持ちを伝えることが出来るのだろうかと考える。

「ん、…」

自分の中にあるどの言葉をもってしても、きっと伝えることなどできないのだろう。だったらもう、言葉なんていらない。そう思った。あたたかな舌が絡み合い、唇の隙間からは湿った吐息が熱くこぼれた。
優しく導かれるようにして俺はnameを抱いた。彼女の小さな身体はこっちが心配になるぐらい柔軟に俺を受け入れた。あたたかな体内に入った瞬間、あまりの甘美な感覚に意識が身体の外に抜け落ちた。僅かな時間であったが、気が付けば俺はnameの中に射精していた。
止めようにも止めようが無かった。nameに縋り付くようにして、ただ腰を震わせながら何度も何度もとめどなく精液を迸らせた。咄嗟に唇を噛んだが、隙間を縫うようにして吐息が零れる。nameは一瞬びくりと肩を揺すったけれど、そっと伸ばした手で未だ震える俺の腰を撫ぜてくれるのだった。
「すみません」挿入しただけで達してしまったことを恥ずかしく思い、視線を合わせずに謝った。「仕方ないよ、初めてだったんだから」nameは諭すような声で言うと俺の頬にキスをした。「あー…でも、まだ…」と言ってnameは脚を使って俺の身体を引き寄せる。彼女の言う通り、あれだけ射精したにもかかわらず己の性器はnameの中でまだ熱く脈打っていた。
今度こそは、そう思ってnameの身体の下に腕を差し入れる。小さな身体を抱き締め、ゆっくりと腰を使う。あたたかな、むしろ熱いぐらいの彼女の中は俺の全てを求めるようにうねり、吸い付いた。身体のほんの一部を埋めているだけだというのに、全身を包まれているような感覚だった。
奥を穿つたびにnameは小さく声をあげ、回数を重ねるごとにその声は甘くなった。シャツの裾から滑り込んだ手が背中を撫でる。痺れにも似た快感が触れられた場所から広がってゆく。こみ上げてくる射精感を堪えながら抜き差しを繰り返し、ふと腕の中を見れば瞑られたnameの眦から涙が一筋流れていた。

「name……?」

恐る恐る名前を呼べば、nameは目を開けてこちらを見上げる。瞳は涙の膜でとろりと潤み、頬は紅潮していた。

「嫌、でしたか?」

動きを止めて尋ねると、nameは「違うの」と首を横に振って俺に回した腕に力を込める。

「幸せだな、って」

見ているこっちの胸が詰まるような笑顔でnameは言った。「まさか、本当にミケが私のこと…」もどかしくて、切なくて、彼女が全てを言い終わる前に唇を塞いでしまった。もっと欲しい。もっと愛したい。それだけだった。
弓なりになった腰を抱え、もう片方の手を彼女の指に絡める。肌蹴たブラウスの間から谷間が覗いていた。
柔肌のあらゆる場所にキスをしたけれど、それでも全然足りなかった。ベッドで、全てを取り去ってしまいたい。もどかしい焦燥。欲望のままに腰を打ち付ければnameは悲鳴じみた声をあげて、俺の鎖骨辺りに顔を埋めた。恥ずかしいのか顔を覆ってしまった左手をそっと退かして首筋に鼻を寄せる。「顔、ちゃんと見せてください」と言えば、nameは「恥ずかしい」と吐息まじりに答えるのだった。
流れ落ちる涙を舌先で掬えば、突然にnameの身体が小刻みに震え出す。

「あ、ミケ、やっ…もう…」

「もう、なに…?」

いきそう。蕩けた瞳に切なげに見上げられ、快感がせり上がる。途方もない熱を彼女の中に送り込むようにして腰を振れば、nameは小さく嬌声をあげて俺にしがみついた。鼻にかかったような声で喘ぐnameの中は急速な収縮を繰り返し、きつく俺を締め付ける。
ミケ。呼ばれた名前に、瞬きをする間も無く吐精した。name、name。夢中で名前を呼びながら、奥へ奥へと精液を流し込む。nameはそれらを全て受け止めた。くったりと力の抜けたnameを抱きしめる。萎えた性器が抜け落ちると、「ん」と彼女は声をあげた。

「…どうだった?」

「良かったです」

とても。そう付け加えたが、なんと答えるのが正しかったのかはわからなかった。しかしnameは微笑み、「なら良かった」と言って俺の髪をくしゃくしゃと撫でた。
後始末をして身支度を整えた俺たちは、深夜の廊下を並んで歩く。満月の夜だった。なんとなく、そうせずには居られなくて俺はnameの手を取った。ぎこちなく握り返してくる彼女の手の温もりに口の端が緩む。力を込めて引き寄せれば、バランスを崩したnameの肩が腕にぶつかった。

「寒くないですか」

「全然」

「そうですか」

「うん」

彼女の部屋の前に着くと、nameは扉を背にして俺を見上げる。月明かりをたっぷり吸い込んだnameの瞳はもうひとつの夜空のようだった。

「えっと…」

「……」

「おやすみ、なさい」

nameは繋いだままの手を揺すりながら言う。上目遣いにこれ以上見られては彼女の部屋に押し入って、そしてまた押し倒してしまいそうな気がして俺はnameを抱き締める。よもやこんな深夜に廊下を通る人間も居ないだろう。冷たい夜の空気に混じって香る彼女の花のような香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
そして、「……好きだよ、ミケ」と腕の中でくぐもった声。普段の溌剌とした彼女からは想像もつかないような声をこの一晩でどれだけ聞いただろう。そのひとつひとつが、ふつふつと胸の中に蘇る。本当は、離したく無かった。このまま彼女と朝を迎えたい、なんて柄にもなく我儘な想いを抱きつつ、nameの額にキスをひとつして俺はその場を後にした。いつまでも彼女の温もりは腕から消えず、甘い香りは彼女と距離が開くほど強く香った。
今晩のことをエルヴィンに報告すべきだろうか。語ってしまえばとても陳腐な出来事に成り下がってしまうような気がして、俺は自分の内に留めておこうと決めるのだった。どれだけ慎重に言葉を選んだとしても、この滲むような幸福を言い表すことの出来る言葉なんてあるものか。
凍える寒さも気にならず、早く明日の朝が来ればいいと思った。朝いちで花を買いに行こう。nameにぴったりの黄色い花を選んで花束を作ってもらうのだ。nameの笑顔がとてもよく映える花束を。
あなたを守らせてください、と跪いたら彼女はどんな顔をするだろう。いや、それではまるでプロポーズではないか。浮き立つ心をわざとらしい咳払いで戒めて、部屋までの長い道のりを気分良く歩く。
なお消えない残り香に包まれて、今俺は世界中の誰よりも幸せであると断言できる。ベッドに横たわり瞼を閉じたnameの顔を思い、堪えきれずに俺はひとり忍び笑いを零すのだった。
★元ネタはTwitterのフォロワー様より。とっても楽しく書けました、ありがとうございました!


(150205)
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