さようなら

その夜の何から何まで私は気に入らなかった。まず第一にテーブルクロスの隅についていた染み、そしてシャンパングラスの僅かな曇り、のみならず前菜で出された貝のソテーは火が通りすぎてバターの味が些か濃い。そして、極めつけは目の前のこの男。睨みつければテーブルに片肘をついてグラスをこちらに傾けて微笑んできさえする。そうしてもう片方の手を軽く上げるとウェイターがこちらにやってきた。手に持ったシルバーのトレンチの上には深紅の薔薇の花束が乗っていた。それを受け取るとエルヴィンは席を立ち、私の足元に跪く。ピアニストの奏でる静かなジャズが、まるで安い茶番のように広いホールに響いていた。

「受け取ってほしい」

そう言ってエルヴィンは花束を差し出した。馬鹿にしないでよ、と思う。この男の底抜けの白々しさには心底嫌気がさす。周りのテーブルに着いた客たちが好奇の視線を寄越している。見世物じゃないんだけど。いや、見世物はここからだ。私はエルヴィンの手から花束を受け取ると膝の上に乗せた。瑞々しい薔薇の深い香り。オールドローズの慎み深い紅。見た目以上に重たい花束は、膝がわずかに沈むほどだった。
エルヴィンは私の右手を取ると、手の甲に口づける。伏し目がちの瞼を縁どる豊かな睫毛がテーブルの上に置かれたキャンドルの揺らぎに合わせてきらめいていた。いつもなら息を詰めてそれを見つめていた。けれど今日はそんな彼のささやかな美しさも、私を不愉快にさせる要因になり下がるだけだった。
手にした花束の持ち手を握りしめる。薄いフィルムが擦れる乾いた音がした。そうして私は思い切り振りかぶるとエルヴィンの横っ面目掛けて花束を振り下ろした。花に罪はない。それは十分に分かっている。それでも私はそうせざるを得なかったのだ。
おおよそこの場に似つかわしくない音に、先ほどまでこちらに注意を払っていなかった面々までもが何事かと振り返って私たちを見ている。はらはらと散る薔薇の花弁。冷たい目でなおも跪いたままのエルヴィンを見下ろせば、腹立たしいことに彼はいつもと変わらぬ微笑みを浮かべているのだった。
どこから現れたのか、恐らくこの男が花束の中に仕込んでいたのだろう小さな指輪が絨毯の上を転がってゆく。あざとい輝きは、嫌悪感しか感じなかった。

「じゃあ」

そう言って私は膝の上のナプキンをテーブルに叩き付けて席から立ち上がる。食器やらシルバーやらが触れ合う派手な音に、呆気にとられたように止まっていたピアノの旋律が再び慌てた調子で音を奏で始めた。所々つっかえ、乱れたテンポはこの上なく不愉快だった。クラッチバックを手にして私は席を後にする。どうするべきかと思案顔で控えていたウェイターにエルヴィンは「すまなかったね。部屋づけで頼むよ」と言って肩を竦めると、私の後を追いかけてくる。話したいことなんて何ひとつとしてなかった。大理石の通路に響くヒールの音は怒りに満ちていた。艶消しの施された巨大なエレベーターの扉の前に立ち、降りるボタンを押したところで背後からエルヴィンに肩を抱かれて振り返る。

「放してよ」

「何をそんなに怒っているんだ」

「正気?」

そう言って、到着したエレベーターに乗り込むと私は迷いなく一階のボタンを押す。けれどエルヴィンはすばやく43階のボタンを押し直すのだった。

「降りないわよ」

エルヴィンに向き合って吐き捨てるように言えば、隅に追いやられて腕に囚われる。またそうやって、余裕を見せつけてはぐらかすつもりなのだろうけれど今回ばかりはもう許さない。頤に手を添えられ無理矢理に上を向かされる。全身全霊の怒りと憎しみを瞳に込めて睨みつければ「美人が台無しだ」とエルヴィンは眉を下げて囁いた。

「私としてはどんな君も好きなんだけれどね」

「冗談」

「冗談なんかじゃないさ」

ベルの音が鳴って扉が開く。降りてたまるものかと、頑として動こうとしない私をエルヴィンはあろうことか抱き上げた。放してよと騒ぐ私の唇を自分の唇でふさぐと「あまり騒いでは迷惑だよ」と、まるでこちらが悪いことをしているかのような言い方で諭すのだ。なんなんだこの男は本当に。人を馬鹿にするのも大概にしろと怒鳴ってやりたかった。けれど無様に尻もちを着くのも癪だったので私は大人しく運ばれる。ルームキーを差し込む際に逃げればいいだけの話だ。
通路の一番奥の部屋――といってもこのフロアには三部屋しかなかったのだけれど――の前に来るとエルヴィンは立ち止まる。さてこのあたりで、と私は降ろされるのをじっと待つ。ふわりと身体が浮いた一瞬、ここだと思った私が愚かであった。彼は私を子供を抱えるようにして片手で抱きなおすと、空いたもう一方の手でジャケットの胸ポケットからカードキーを取り出すと素早く差し込みドアノブを捻る。瞬間、衣服の下に潜んだ彼の裸体を否が応にも想像してしまい、私は眉間に皺を寄せた。

「さあお姫さま、到着でございます」

「いい加減にして、帰るって言ってるでしょう」

ベッドの上に降ろされた私は立ち上がりおどけた様子で腰を折るエルヴィンに歩み寄る。彼の瞳の色に合わせたブルーストライプのネクタイに手をかけ引き寄せると、たっぷりの憎しみを含ませた声で「おやすみなさい」と囁いた。そうして踵を返した私の腕をエルヴィンは逃すまいとして掴むのだった。

「触らないで」

「酷い言いようじゃないか」

「酷いのはどっちよ!」

「何の話かな」

「何の?ナニの話に決まってるでしょう!」

「name、私は君を心から愛している。それは揺るぎない真実なんだ」

「もううんざりよ」

言い放ち私は足を振り上げた。壁に掛けられた鏡に靴底の深紅がちらりとよぎる。けれど虚しく私の足は空をかき、あろうことか足首をエルヴィンに掴まれる。ずり上がるワンピースの裾。

「女性がこんなことをするのは感心しないな」

「はな、してよっ!」

「君の勝ち気なところも好きだ」

「うるさい!」

「name、好きなんだ」

「私はあんたなんか大っ嫌いよ」

叫んだ瞬間身体が宙に浮く。暴れれば両足のハイヒールは放物線を描いてそれぞれの方向に飛んでいった。可哀想な私のハイヒール。可哀想な、私。泣くまいと決めていたのに、悔しさのあまり涙がこみ上げる。
父の会社とエルヴィンの勤める会社のパイプをより太いものにし、両社の親交を一層強固なものにすること、という名目によって彼と私は知り合った。勿論ビジネスマンとしてのエルヴィンは非の打ちどころのないエリートであった。そして男としての彼は常に紳士であった。そう、誰に対しても、紳士であったのだ。私にはそれが許せなかった。必要さえあれば躊躇なくほかの女をベッドに招き入れ、何の迷い間もなく口づける。エルヴィン・スミスはそういう男だった。私はそういう部分も含めて彼を愛そうと努力した。たとえ私とエルヴィンの関係が破綻したところで父の会社に迷惑がかかるわけではなかったけれど、私は父を失望させたくなかった。眼鏡の奥の温かい瞳に差す一瞬の翳りを、見たくはなかった。でも、もう限界なのだ。これ以上自分をすり減らしてどうなるというのだろう。
ベッドに腰掛けたエルヴィンの膝の上で、私はあふれる涙を止められずにしゃくりあげた。エルヴィンの暖かな手が背中を撫でる。ぎゅっと抱きしめる腕は、いつものように優しくて、それがまた悔しくて身を捩るけれど私が嫌がれば嫌がるほどエルヴィンの腕はきつくなる。苦しくて息が上手くできなかった。もういっそ、死んでしまいたいとさえ思った。全てを許せるのが大人の女だと思っていた。けれどそうではなかった。どんどん惨めになってゆく自分は哀れ以外の何者でもなかった。見て見ぬふりをして、与えられた幸せの中だけで生きてゆくことができればどれだけ幸せだっただろう。
でも、私にはそれができない。エルヴィンの、たった一人になりたかった。愛される唯一になりたかった。彼がそういう男であるとわかったうえでそれを望む自分の愚かさを呪い、彼の紳士たる精神を呪い、そして彼を取り巻く全ての女達を呪った。

「私は、あなたに…」

「愛している」

「違う、違うの…そうじゃないの、」

「私の心は君だけのものだ」

「違う、…エルヴィン、お願い、もう…」

私を解放して。縋るようにしてエルヴィンのジャケットを両手で掴む。こんなにも辛い思いをするのなら、あなたの愛なんていらないから、だから。

「……もう離れられない。私も、君も」

nameだって、わかっているはずだ。
その言葉に私は号泣した。わかっている、わかっていた。私が彼から離れられないことも、彼が私から離れられないことも。知りたくなかった。教えられたくなかった。そっと右手を取られる。薬指に通されたリングには六本の爪に支えられた大粒のダイヤが光っていた。それは先ほどレストランの絨毯に転がった指輪だった。
抱えられ、押し倒され、シーツに沈められる。薬指に触れる唇の熱。頬を伝う涙が耳に入ってひどく不愉快だった。瞼が熱い。幸福と絶望、私は、私は。剥き出しになった肌のありとあらゆる部分に降る口付けに、あんなにも私の中を満たしていた怒りが溶け出してゆくのがわかる。絶対に今夜で終わりにすると決めていたのに。背中に回された手がワンピースのファスナーを降ろす音が聞こえる。
甘い低音で囁かれる愛の言葉は呪いそのものだった。ひんやりと冷たいプラチナは私を縛る枷そのものだった。彼の身体は私を捕える檻そのものだった。
唇を噛み締めれば指先が触れる。(「そんなことをしては切れてしまうよ」)そうして、啄む。啄み、挟み、吸い上げる。思考が瓦解する。欲しいと叫ぶ細胞の叫びが身体の中に木霊する。
欲しい、あなたが欲しいの。気が付けば私はそう言っていた。馬鹿げている、本当に。わかっているのに、どうしようもないのだ。
首に腕をからませ首筋に歯を立てる。柔らかな皮膚の触感。痛いよ、私の頭を抱くエルヴィンが言うけれど気にせず顎に力を入れた。破れた皮膚から滲む血はほんの少し塩の味がした。微かな生臭さが鼻の付け根で蟠る。もっと痛がって欲しい。私だけが付けられる印で彼の身体を埋めてやりたい。エルヴィンにしてみればそれは子供じみた独占欲なのかもしれない。けれど。

「本当に、nameの肌には赤がよく似合う」

ワンピースを引き抜かれ、絞った照明のぼんやりとしたオレンジ色の光の下に晒される私の身体についた無数の痕。見えない部分に施された所有の証。
そう、私達はもう、逃げられないのだ。
ジャケットを脱いで放り投げ、ネクタイを緩めたエルヴィンの手が私の足首を掴む。高々と掲げられる自分のつま先を見る。透明なマニキュアが、エルヴィンの背中越しに見える夜景の一部のようにちらちらと輝いていた。
さっきの薔薇はどうなっただろうか。揺さぶられながらふと思い出す。もう捨てられてしまっただろうか。そうでなければ後で部屋まで持って来させよう。ジャグジーに浮かべてしまえばいい。きっと綺麗だろう。香りだって申し分なかった。
瞳から流れている涙の意味を教えてほしかった。エルヴィンが私に愛していると囁くたびに、身体がどんどんシーツの中に沈んでゆく気がした。エルヴィン、エルヴィン。私は何度も彼の名を呼ぶ。返ってくる返事代わりのキスを必死になって受け止めて、そして私は仰け反り喘ぐ。みしみしと、背骨の軋む音が聞こえたのは気のせいではないはずだ。
青空のようなエルヴィンの目が私を見つめている。まるで彼の中に広がった青空を覗くことができる二つの丸い窓のようなその瞳。嘘も偽りもそこにはなかった。
愛している、愛しているんだ、私は君を、name、name……。
息が止まるほどに抱きすくめられ、私たちはこれ以上はないぐらいに身体を寄せ合った。繋がった部分から溢れるぬるい水。ふと視線を逸らせば、床に転がったハイヒールの深紅が目に留まる。深い紅。

「エルヴィン、愛してる」

(150213)
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