さようなら

私は見てしまったのだ。団長の秘密、とでも言うべき表情を。いままであんな顔をしている団長など見たことがなかった。
ぼおっと身体の力を全て抜いてどこでも無い虚空を捉える青い瞳。それが見てはいけないものだということに気付いた私は開けかけていた扉をそっと閉める。だいたい、いつもであれば扉を開くまでもなくそこに私がいるということを察知しているはずなのに。
胸の奥が嫌な冷たさに覆われて私は蹲って頭を抱えたくなってしまう。
団長の団長たる重圧だとか責任だとか、そういうものをほんの少しでも私が持ってあげることが出来ればなんて思いながら団長補佐として励んできたけれど、結局のところ団長にあんな顔をさせてしまうというあたり私の働きなんてそんなものなのだろう。
助かるよ、団長はそう言っていつも私の頭を撫でてくれたり肩を叩いたりしてくれる。子供というか年下扱いされているのが何と無く気になってはいたけれど、そうやって彼の近しい場所に己の実力で立つことができて私は嬉しかった。だからそんな団長の力になりたかった。
それだけだった。

「団長、最近ちゃんと寝てますか?」

「添い寝のお誘いかい?」

「ち、違いますよ!」

「はは、冗談さ。nameこそきちんと寝ているのか?」

そう言って団長は腕を伸ばすと指先で私の頬にひとつだけあるニキビに触れた。治ったと思っても何故か同じ場所に繰り返して出来るこのニキビは私の悩みの種でもあった。
寝てますよ!と膨れっ面をした私を団長は笑う。その目はいつものように優しくて、澄んだ凛々しさで満ちていた。
だからこそ、心配になる。

「団長」

「浮かない顔だな」

「私は、」

「……」

聞きたい。けれど聞いても聞いてもいいのだろうか。知らない方が、私はきっと幸せでいられるのかもしれない。ずるい私は結局傷つくのが怖いだけなのだ。正しい評価を彼に下されるということが。

「職務は過酷だが、言いたいことが言えないほど厳しい職場環境ではないと思うよここは」

殊更、きみと私の間では。
そう付け加えて団長はいたずらっぽく片目を瞑る。でもあんな顔をしていた団長を見てしまっては、いま私の目の前にいる彼の姿がひどく滑稽なものに見えるし、それと同時にそうさせてしまっている原因の一端はもしかしたら自分の力不足によるものではないか、なんて思いだしたら不安が洪水のように胸の内に押し寄せてきた。

「name?」

無言で俯いている私の肩に触れた団長の手を取る。微かに、指先が震えた。

「私は、団長のお役に立てているのでしょうか」

団長に訊ねるというよりも、むしろ自分自身に問いかけているような言葉の響きだった。

「どうして急にそんなことを?」

「昨日の夕方……」

つっかえながら、なんとか昨日の出来事と自分の胸中を団長に話す。途中から絡まった感情がせり上がり、理由のわからない涙が溢れて団長を困らせた。しゃくりあげながら紡ぐ私の言葉を団長は「うん」だとか「ああ、」だとか短い相槌を合間に挟んできちんと聞いてくれるものだから、ああ、違う、こんなはずじゃ、これでは団長をまた煩わせてしまう。
そう思えば思うほど涙は止まらなくなって、にっちもさっちいかなくなった私はとうとう団長の腕の中でわんわんと大泣きしてしまうのだった。
ごめんなさいごめんなさいと嗚咽しながら謝る私の背中をを団長はなにも言わずにひたすら撫でてくれる。
あの時見た光景。薄暮のもたらす闇に一人佇む団長を囲んでいたのはきっと、失くしてきたものだとか諦めてきたものだとかの脱け殻。堆く折り重なった遺構の中で、ひとりぼっちで膝を抱える幼い姿の団長ーー勿論私は幼い頃の団長を見たことはないけれどーーが確かに見えた気がしたのだ。
毅然とした彼の内で息づく幼少の記憶を盗み見てしまったような罪悪感。それと同時に自分ではどうしても触れることができない場所に彼がいるような気がして、あらゆる意味で己の無力さを思い知った。だから、きっと私はいま泣いている。

「私の贔屓目を抜きにしても、きみは良くやってくれているよ。現にこうして、生きて私の元にいてくれるじゃないか」

そう言って団長は私のつむじあたりに頬を寄せる。
抜け殻ではなくて、今存在している者として私は団長を抱きしめる。あたたかな、体温のある生者として。
あの部屋から彼を引きずり出すことができないのなら、私もそこで団長に寄り添おう。青い瞳に影が差すのなら私がそれを吹き飛ばそう。涙ですっかり湿った団長のシャツには大きな染みが広がっていて、私はバツが悪くて小さな声で謝った。

「謝ることなんてないさ。私がきみの存在にどれだけ助けられているか知らないだろう」

「え、っ?…あ、ありがとう、ござい、ます…」

何がおかしいのか団長は私の返事に笑いをこぼす。違う、きっときみは誤解しているよ。と困ったように眉を下げて笑う団長。意味がわからなかったけれど、とにかくその目にはもう影なんかどこにもなくて、それだけで私は幸せだった。

【博愛なんていらないのに】

(なあハンジ、あえて隙を見せろとお前は言ったがあれで成功だったのか?nameが泣いてしまったんだが…)
(ま、結果オーライじゃない?)
(てめぇは本当に無責任な野郎だな……)
(相談相手が悪かったな、エルヴィン)
(いやしかし、泣いているnameもまた可愛らしかったな…はは…)
(……)
(……)
(……)
(どうした、おい、どこへ行くんだ…待て…)

(150227)
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