さようなら

夜半、ちらちらと舞っていた粉雪はやがて吹雪に変わった。春の気配が間近に迫ったこの季節にまさか雪が降るだなんて一体誰が想像しただろうか。
予定していた野外演習を急遽取り止め、エルヴィン、リヴァイを筆頭に各分隊の隊長、副長を中心として兵站拠点や進軍予定路の確認作業を行うことにしたのだった。エルヴィンの補佐役であるnameは急な予定の変更を各隊に伝える為に朝早くから奔走していた。
といっても彼女とエルヴィンは昨晩からベッドを共にしており雪のちらつく夜景を眺めながら睦みあっていたのだった。それがまさかこんな事態になるとは思わず、いつも通り始業の二時間前に起きたnameはいやに明るい窓の外を覗き見てエルヴィンの肩を揺さぶった。
まだ夢現のエルヴィンはあと少しだけと寝ぼけた台詞を吐きながらnameを抱き寄せようと腕を伸ばすも、強烈な彼女の張り手を喰らい目を覚ます。あまりの寒さに全身に鳥肌を立てながらnameの指差す窓を見ればそこには白銀の世界が広がっていた。
大凡屋外での演習は無理であろうと一眼でわかるほどの積雪にげんなりしているエルヴィンを他所にnameはテキパキと身支度を整え、漸くエルヴィンがベッドから抜け出した頃には隊服のジャケットを羽織りビシリとその皺を整えたところであった。
「各隊長に本日の演習中止を伝えてきます。当初と同時刻に会議室へ集まるよう言っておきますので変更後の予定はそれまでに決めておいてください」きびきびと言うnameの口調からは既に昨晩の甘さは消え、最早最強にして最恐の団長補佐と呼ばれるに事足りる勤務中のそれであった。
背中の翼を翻し部屋を颯爽と後にしたnameをボンヤリとした頭で見送ったエルヴィンは、さっき彼女にはたかれた右頬を抑えながらぱちぱちと瞬きをするのだった。
会議が始まれば一転、団長の顔で黒板を指差すエルヴィンの傍でnameはタイミング良く資料を手渡したり羊皮紙を広げたりと忙しく動き回っている。
議論に議論が重ねられ、変更がある度にメモを取り要点を確認するnameと目が合う度に、エルヴィンは一瞬だけあの微睡の名残を感じるのであった。勿論それを見抜いているnameであるので都度眉間に微かな皺を寄せ上司を睨みつけるのだが、それがまた彼にとってはどうしようも無く愛おしい仕草と取れるのだった。ふわふわと飛んでくるハートマークを射るような視線で払い落としながら、nameが抱えていた資料の束を全員に配布し終わったところで正午を告げる鐘が鳴った。
ぞろぞろと連れ立って部屋を後にする皆を全員見送り、二人きりになった部屋でエルヴィンがnameの肩を抱く。

「相変わらず完璧だな」

「会議中は会議に集中してください」

「しているとも」

肩を竦めたエルヴィンの尻をnameが抓れば、参ったとでも言うようにして彼女から手を離して降参の姿勢を取るエルヴィン。

「厳しすぎるのが私の可愛い補佐の難点だな」

「ご希望でしたらもっと厳しくしましょうか」

「勘弁してくれよ」

はは、と笑ったエルヴィンの手をnameが緩く握る。公の場で自分に触れることを滅多にしない彼女の行動にエルヴィンはおや、と思う。けれど敢えてどうしたのかと問うことはしなかった。行動を自覚させてしまえば繋がれた手は途端に離れてしまうだろうから。なんでもない、気がつかない風を装いながら窓の外に目を向ける。
相変わらず雪は降り続いていた。寒々しい粉雪に変わって、ふわふわと綿毛のように柔らかな雪が音も無く舞っている。触れれば冷たい筈なのに、こうして部屋の中から見ている分には暖かな感じがするのは何故なのだろう。
所在ない振りをしながら、控えめなnameの熱を感じる為に全神経が指先に集中していることを、自分のことながらエルヴィンは可笑しく思うのだった。

「暖かくなったらいよいよですね」

「壁外遠征か?」

「……はい」

きゅ、とnameの力が強くなる。エルヴィンがちらりとnameの表情を盗み見るが、彼女の視線は窓の外に向けられたままだった。不安と恐れの入り混じった表情。無理もないと思う。あれは何度繰り返したところで慣れるものではない。
エルヴィンとてそうであった。エルヴィン・スミスという生身の人間に調査兵団団長という名の硬い鎧を被ってして尚、突き抜けて胸を抉る出来事は少なくない。そうして二つの己の狭間で揺れながらいつしかどちらが本当の自分なのかすらわからなくなり、やがては冷え切った鋼の人型に成り果ててしまうのではないかという恐怖。そのことについての覚悟は決めていた。決めていたとはいえ時折悪夢のように襲い来る予言めいたその思いは、逃れられない運命のうねりとなっていい歳をした彼ですらをのみ込み、苦しめるのだ。
いくらnameが優秀とはいえ、まだそこそこの歳の女なのだから尚更であろう。彼女の顕著な二面性を知っているエルヴィンだからこそ、誰よりもnameを心配しているのだった。彼女自身は常に気丈に振舞ってはいるものの、やはり壁外遠征から戻ってしばらくの間は気持ちが落ち着かず、エルヴィンのベッドに逃げ込むようにしてやって来ることもしばしばなのだ。
他と己を厳しく律し、時として大切なものを切り捨てることの出来る人間。それが頂点に立つものに必要な素質であるならば、一人の女性の隣に立つのに必要な素質は何なのだろう。ふと、エルヴィンは思うのだった。守る側ではなく、守られる側の人間としてごく普通の生活を営んでいたら。いや、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎる。そんな人生を歩む道など幼少の頃既に己の手で断ち切ってしまったではないか。

「name」

「はい」

「大丈夫だ」

一体なにが大丈夫なんですか、とnameは訊ね返えさなかった。根拠もなくエルヴィンが大丈夫と言ったことの裏に潜む縺れあった糸のようなものが、もしかしたら彼女には見えたのかもしれない。
そういうところが、とエルヴィンは心の中で苦笑した。そういうところが君の良く出来すぎたところなんだ。

「私たちもお昼にしましょうか」

「ああ、そうだな」

「もうお腹ペコペコですよ」

「朝食をとっていなかったから仕方ないさ」

「お腹鳴らなくてよかったです」

「ん?nameの腹の中には大きな虫がいるものだと思って聞いていたのだが…あれは私にしか聞こえなかったのかな」

「え?!」

「冗談だよ」

ふざけたようにnameの脇腹をつつくエルヴィンに、nameは口を尖らせながら再び彼の尻をしこたま抓りあげるのだった。痛い痛いと若干本気で涙目になるエルヴィンに、「もう知りません」とnameは言って早足で歩き出す。

「午後からの会議はどうぞお一人で頑張ってください!」

「おいおいname、そんなに怒ることないじゃないか」

「怒ってません!」

肩を怒らせて振り向きもしないnameにエルヴィンは大股で近付くと、彼女の右腕を掴んで引き止めると背後から腕を回して抱き締める。突然の出来事に声を失っているnameの耳元で「私がnameなしじゃ駄目なことぐらい、わかっているだろう?」と囁けば、小さな耳がみるみるうちに赤く染まった。離してください、こんな場所で。と抗議の声を微かにあげるname。

「じゃあどんな場所ならいいんだい?」

低く囁いたエルヴィンの鳩尾に見事にnameの肘がめり込んだ。

「……容赦ないな」

今度こそ本当に置いてきぼりを食らったエルヴィンは首を小さく傾けながら遠ざかってゆくnameの背中を見つめている。
強がる彼女を、いや、事実nameは強い。けれどその裏に潜む、自分しか知らない柔らかであたたかな部分を守ってやりたいと思う。そして、それがおおよそ成就しないであろうということも頭の片隅では理解していた。
この先自分はこれまで以上に色々なものを失ってゆくだろう。nameなのか己なのか、はたまた人類なのかはわからない。けれどそれでも守りたいと思えるものがあるだけで、ほんの少し強くなれる気がした。勘違いでもいい。微睡みのような甘やかな記憶が、いつか必ずやってくる終わりの時を少しでも確かなものにしてくれる。
ろくな死に方をするとは思えんな。いつだったかナイルに言われた言葉が蘇る。目的のある人生なんだ、いいじゃないか、それだって。「守るものがあるってのも、まあ、それなりに良いことだぞ」というナイルの言葉が今ならわかるような気がした。
エルヴィンは薄く唇で弧を描く。曲がり角できっとnameが待っている。遅いですよ、とこちらを見上げる彼女の瞳はほんの僅かに罪悪感の色に染まっている筈だ。それならば手を取って引いてやれば良い。小さな手の柔らかさを心の中で反芻すれば、降り積もった雪すら溶かしてしまいそうなほどの熱が指先に灯る。
わざとゆっくりとした足取りで、エルヴィンは廊下の曲がり角に向けて歩き出すのだった。

(150312)
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