さようなら

汗と血と汚れを綺麗さっぱり流してミケは服を着替える。重たい立体起動装置はもう外してしまったというのに、心は依然として深く沈んでいた。早くnameに会いたいと思う。諸々の雑務は明日行うからと、ナナバに軽く手を振り部屋を後にした。「仕方ないね」と茶目っ気たっぷりに肩を竦めたナナバの髪は、まだ乾き切っておらず湿っていた。
name。とミケは心の中で呼ぶ。髪の湿ったナナバですら、ミケにnameの存在を強く思わせる要因だった。腕の中で髪を拭いてやるのが好きなのだ。自分の大きな手と、nameな小さな頭(ころんとした形の、行儀のいい後頭部)。大人しくしているnameから仄かに香る甘い匂い。

「ミケ、明日は昼からでいい」

「ああ、助かる」

すれ違いざまエルヴィンに肩を叩かれ、ミケは礼を言う。飲みすぎるなよ。お互いにな。肩をぶつけ合ってエルヴィンと別れた。門番に片手を上げ兵団本部を後にしたミケは大きく息を吸って吐き出した。近いようで遠い自宅までの道のり。何か買って帰ろうかと思ったがこれといって思い浮かぶものもなく、立ち並ぶ忙し気な店先を冷やかすのも躊躇われて自然と足は家路を急ぐ。
路地へ入って石段を三段上がり、息を整える。相変わらずひっそりとしている我が家。人が一人いるというのに、気配というものをまるで感じないのだ。見えないけれど確かに「いる」ということが、ミケの胸を幸せで満たす。扉に手をかけ入れば、リビングのソファでnameが膝を抱えているのが見えた。
抱えた膝に顎を乗せて丸まっているnameは二日前に見た時よりも、幾らか小さくなっているような気がした。

「name、ただいま」

ミケの声にnameが顔を上げる。テーブルの上にはマグカップがひとつ置いてあった。それは以前ミケがnameの誕生日プレゼントに贈ったものだった。
数度瞬きをしてnameはソファから降りるとミケに駆け寄る。子供じみた仕草と重みを腰のあたりで受け止めて、ミケは穏やかな気持ちになるのだった。穏やかでいて、少し切ないような。
部屋は物が少なく清潔だった。掃除はいつもnameがしている。掃除に限らず家事の全般はnameが行なっていたが、ミケが家に帰ったときは時々彼も台所に立った。
ソファの上でnameを膝に乗せたミケは、彼女の髪を撫でながら壁外遠征の話をぽつぽつとしてやる。凄惨な場面はnameが嫌うので話さない。あんな鳥がいたとか、リスの家族を見付けただとか、世界の、綺麗な部分だけを切り取って話してやる。自分から消えない死臭を確かに感じながら。
矛盾だとわかっていても、そうする以外に何ができよう。
しばらくしてnameが紅茶を淹れに台所へ向かう。その細くて頼りない腰を見ながら、ミケはソファに背中を預けるのだった。
nameには物欲というものがまるでない。あれこれ欲しがる女は面倒だとエルヴィンはたまに愚痴をこぼすが、与えるものがあるだけ良いではないかとミケは思う。自分なんて、nameが一番欲しがるものすら与えてやれないのだから。

「はい」

「すまんな」

大切そうに両手で包んだマグカップをミケに手渡して、nameはまた彼の膝の上にちょこんと座った。ミケの胸元に頬を寄せて、シャツを握りしめるようにしてじっとしているnameの瞳は透き通っていた。
どこにも馴染まないのだ。ミケはさっぱりとしたハーブの香りのする熱い紅茶に口をつけて思う。街の中の雑踏でも、この部屋の中でも、nameは奇妙に浮いている。まるで間違って連れて来られた別の世界の生き物のように孤独で儚げだった。必ず訪れる喪失を予め知っているから、何も持たず欲しがらない。ミケにはnameがそんな風に見えていた。だからせめてこの部屋には馴染んで欲しい。好きなもので埋め尽くされた小さな箱の中で、可憐な笑顔を浮かべてくれればいいのに、と。
そんなnameの唯一しっくりくる場所が、自分の腕の中なのではないかという思いは年を経るごとに確信へと変わっていた。馴染む。ミケはそれをとてもいい言葉だと思う。
興味深そうにミケの空いた左手を手にとって、節くれだった指だとか短く切り揃えられた爪だとかをしげしげと眺めたり指先で弄っているname。彼女がいると周りの空気が清潔になる。自分についた汚れのようなものが、nameを通して浄化されるとでもいうのだろうか。まるで部屋の片隅に佇む植物みたいだ。そんなことを考えてミケはひとり苦笑した。植物みたいだ、なんて。
腕を伸ばしてローテーブルにマグカップを置くと、落ちまいとしてnameが胴に腕を回す。そのささやかな圧迫感すらミケを幸せにした。髪を一房とって露わになった白いうなじに鼻を寄せる。嗅ぐまでもなく、砂糖漬けにした花みたいに甘い香りがするその場所。

「ミケ?」

「いい匂いがする」

「くすぐったい」

忍び笑いを声に含ませるnameは、伸びやかな猫のように身体をミケに擦り付ける。
抱きたい。腹の底でゆらりと持ち上がった欲望をミケはすんでのところで退けた。たっぷりと陽の光がはいるこの部屋でそんな思いに至ったことを、恥さえもした。けれどミケの脳裏には既にはっきりと彼女の陶器のような乳房が蘇っているのだった。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない。外に出るか?」

自分の身体を抱えてバランスを取り直しすミケにしがみ付いたまま、nameはゆるゆると首を振る。

「行かない」

「そうか、わかった」

「ミケと一緒にいる」

そう言うとnameはあたたかな腕の中に潜り込む。
「ミケがいてくれればそれでいい」何かほしいものは無いのかとミケが訊くたびにnameはそう答える。どうしてそんなことを聞くのだろうと心底不思議そうな顔をして。だからいつもミケはそれ以上を口にできない。それは彼にとってあまりにも残酷な答えだった。

「ベッドに行くか?」

日の当たる場所に置かれたベッドは午後の日差しでたっぷりとぬくもっているだろう。陽気で乾いた、明るいシーツの香りを思い出して自然とミケの口元が綻んだ。

「行かない」

nameは先ほどと同じように答えたけれど、その声は幾らか小さくなっていた。ほんの少し頬を染めて身じろぎをする。

「ちゃんと、ミケを感じたいから」

ベッドに行くと、訳がわからくなっちゃうから。消えそうな声でそう付け加えたnameの言葉の意味をミケは暫く考えたあと、眉を下げる。半分ほど開けられた窓から甘い春の風が流れ込んで二人を包む。細く柔らかなnameの髪に口づけながら、彼女の熱に意識を向ける。交わるよりももっとずっとnameを近くに感じられるような気がして、性交の際に感じる満ち足りた気持ちとはまた違った、微睡みにも似た喜びがひたひたと身体を満たすのがわかった。
同じ時間を生きるということが、こんなにも心強く幸せなことだっただなんて。顔にかかった髪の隙間から様子を窺うみたいにして自分を見ているname。全ては彼女が教えてくれたことだった。

「じゃあ、しばらくこうしていよう」

「うん」

「俺が我慢できる限りは」

「……うん」

冗談と分かるよう右の唇を持ち上げて言ったにもかかわらず、nameは背筋をすっと伸ばすとひどく生真面目な顔をしてこっくりと頷くのだった。そうしてミケの頬に手を添えるとそっと優しく撫でるのだった。じっと彼の目を見つめ、その奥に沈殿している何かを探すような視線であったけれど、しかし、彼女が見ようとしている何かはミケによってしっかりと蓋がされている。お前には見る必要のないものだから、と。一部の隙間もないほどに。

「ミケ、眠たい?」

「いいや」

「そっか」

「お前をずっと眺めていたい」

「ずっと?」

「ああ、ずっと」

「いいよ」

そう言ってnameはミケの鼻先にキスをした。挑むように、彼の意志を確かめるように。
そんなnameをミケは抱き締める。幸せだというのに、どうしてこんなにも悲しいのだろうか。相反する二つの感情がゆっくりと渦を巻く。果実のように瑞々しいnameの頬に自分の頬を寄せてミケは囁く。

「約束だ」

nameは三度、瞬きをした。

(150323)
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