さようなら

「団長って好きな人とかいないんですか?」

それとなく尋ねた私に団長は「突然何を」とでも言うように目をくるっとさせた。
その仕草が案外子供っぽくて、私は胸がざわざわした。
何となく団長は根っからの大人で(年相応に、というのだろうか)あまりそういう子供っぽさというか、大人の陰からちらりと顔を覗かせる未だ少年の部分というものを見せた事がなかったから、そんな戯けた顔を見ることができるなんてもしかしたらラッキーだったのかもしれない。

「かつてはいたが、今は…」

今はいない、と言うべきだね。
そう言ってペン先をデスクの上でコツコツと鳴らしながら私の出方を窺っているようだった。
(いや別に私はなにも)
(ただ、知りたかっただけで)
(話の種というか、好奇心というか)

「団長の隣に立つ女性なんて、想像もつきません。巨人以外は」

「はは、それは酷いな」

笑った団長の視線が私から外れて、どこか遠いところに向けられたような気がした。
私なんかが到底見る事の叶わない、どこか。

「昔、同じ事を言われたような気がする」

「え?」

「いや、何でもないさ」

「でもあれですよね。ナイル師団長ですら妻子持ちなんですから、団長だってその気になれば彼女でも奥さんでもできそうなのに」

「そうだろうか」

「はい、だって肩書きだって団長ですし、顔だって悪くはないし(寧ろいいし)。調査兵団っていうハンデかあったとしても、どうってことないんじゃないですか」

「name、君は結婚というものを軽く見過ぎじゃないのか」

「うーん、そうでしょうか。でもよくわかりませんよ私には」

「だったら私と結婚するか」

だったらわたしとけっこんするか。
団長が口にした言葉は私の耳になんの意味持たない異国の言葉もしくは呪詛のように響いた。
この人ってこんなにたちの悪い冗談を言う人だったっけ。
ていうか、だったらって、いったい何がだったらならそうなるのか。
面倒な方向に話を向けてしまったことを後悔しつつも、目の前の並以上に整った顔立ちの男が口にした戯れにほんのり顔が熱くなる。
なんか悔しい。

「そういうのやめた方がいいですよ、勘違いされたらどうするんですか」

「君が勘違いするような女だと思っていないからこそ、だよ」

「あーあ、私、用事思い出したんで兵長のとこ行ってきまーす」

馬鹿馬鹿しいやと私はソファから立ち上がる。
ついでに冷めてしまった紅茶も下げてしまおうと、デスクの上から奪うように掠め取りそのまま敬礼をして団長に背を向けた。
そりゃあ私だって認めたくないけど団長のことが好きだし、叶わないと知っているからこそ今の位置に落ち着いているわけだし。
意地になっているのだって認めるよ。
だからこそさっきの言葉が辛かった。
やってらんないよねー。
秘めたる淡い恋心、などと兵長は馬鹿にしたように言うけど、きっとこれはそんなに清らかな響きをもつ気持ちなんかじゃない。
もっとどす黒くて影みたいに、ぴったりとくっついて離れない。
だから私は表に出さない。
だから私は今でも生きて団長の隣に立っている。
我ながらストーカー体質なのかもしれないなぁ、なんて思いながらドアノブに手をかければ、背後から迫る影が扉と私に覆いかぶさってきた。

「まだ何か」

「いやいや、さっきの返事をまだ聞いていないからね」

「はい?」

「私と結婚したらどうだ、という問いについてなのだが」

忘れたのかい?
後ろから腰に腕を回され、私は持っていたカップを思わず取り落とした。
何、言ってるの、この人。
ガチャン、と床に叩きつけられて割れたカップが大小の破片になり、薄茶色の水溜りが足元に広がった。
訳がわからなくて、考える余裕もなくて、ただ腰に感じる団長の腕がひたすらに温かくて。
脳内に溢れたクエスチョンマークは一粒の涙になって私の涙腺から零れ落ちた。
やだなぁ、泣くなんて。
ばれないように、これ以上が溢れないように、私は大きく息を吸って吐いた。

「団長、仕事しすぎでおかしくなっちゃったんですか?ご自分がなにを言ってるのかおわかりですか?」

「わかっているとも」

「だったら、」

「君は勘違いなんかせず、言葉そのままに受け取ってくれると思ったんだがね」

「……は?」

二の句が告げないとはまさにこのことなのだろう。
呆気に取られた私は瞬きをするのも忘れてドアノブを見つめ続ける。
真鍮でできたドアノブのその窪みや鍵穴のどこかをくまなく探せば、団長に返すべき正しい返答が何処かにあるのではないかという僅かな期待を込めて。
しかし残酷にも現実にはその様なことはあり得ない訳で、悲しいかなそのような言葉などどこにも刻まれてはいないのだった。

「ちょ、ちょっと、団長、気を確かに、落ち着いて、深呼吸して、」

「落ち着くのは君の方だろう」

ほら、息を吸って。
耳元で囁かれるだけでもぞくぞくするというのに、鳩尾のあたりを撫で回されて(助けて!痴漢です!)頭からもくもくと煙が立ち昇っていることは見なくたってわかる。
そもそも何だっけ?結婚?馬鹿言わないでよ。そもそも私たち付き合ってすらいないじゃない。それなのに?結婚?冗談もいい加減にしてほしい。馬鹿にして、からかって。

「からかってなんかいないよ、name」

「……」

「私は本当に、君と結婚したいんだが駄目だろうか」

話にならない。
逃れようと身を捩れば、足元で割れたティーカップの欠片が靴底でジャミ、と嫌な音を立てた。

「いいですか団長、金輪際こういう悪ふざけをするのはやめてください。さすがの私も不愉快です」

「不愉快だから泣いているのか?」

「泣いてません」

「name、」

「何ですか」

「好きだ」

滅茶苦茶だ。
こんなのあんまりだ。

「何年も一緒にやってきているんだ。付き合わずとも君のことは誰よりも知っていると自負しているのだが、自惚れだろうか」

「怖いです」

「あとはベッドの中の君を知るだけなのだが、試すまでもなく君と私の相性は最高だと思うよ」

「セクハラです」

「だからどうだろう、name」

「……」

今まで何年も隠し通してきた私の気持ちはいったい何だったんだろう。
後頭部をぶん殴られたような気持ちで私は考える。
もしかして私の気持ちは団長にお見通しで、実は団長も私のことがす、す、好きで(嘘だそんなの信じない!)、ひょっとしたら私達は両思いで…。

「あの、」

「なんだ」

「ちょっと、倒れそうです」

「それはいけない」

急に上がった血圧でガンガンする頭、非現実的な浮遊感に包まれて私は体の周りから酸素が急激に薄くなっていくような気がした。
ああでも浮遊感は団長が私を抱きかかえてくれているからで、酸素が薄いと感じるのは団長が私にキスしてるからだ。
なんて強引で自分勝手なんだろうこの男、ずるいよなぁ。
閉じていた瞼を開いて、私は恨めしい視線を団長に送ることしかできない。

「答えを聞く前に普通こんなことしませんよ」

「聞かなくたってわかっているからね」

「そういうところが嫌なんです」

「それはありがとう」

「褒めてませんから」

「で、答えは」

ふん、と横を向いた私の髪を撫でながら団長はなおも追撃の手を緩めない。
そうだった、この人は徹底的にやるタイプだった。
素直にハイと言いたい自分と、こんなにも簡単に全てを握られてしまっていいのだろうかと思う自分がせめぎ合う。
だけどやっぱり最終的には私が折れるんだ、いつだって。

「はい」

可愛くない顔だろうな。
ちょっぴり泣いて膨れっ面で、視線も合わさず。
それでも私の体を抱く団長の腕のあたたかさだとか優しさだとか、なによりこんなに近くで感じたことのない彼の香りが嬉しくて。
怒りたいのか泣きたいのか喜びたいのかわからない顔で小さく頷いた私のおでこに、団長がキスをしてくれた。

「よろしくたのむよ」

「これ以上のよろしくは結構なんで」

精一杯強がるけれど、隠しきれていないこの胸の内だって団長にはバレバレなのだ。
だから全てを諦めて、私は団長の首に腕を回して力いっぱい抱きしめた。

「name、」

ずっと、好きだった。

とんでもないタイミングで決定打を心臓にぶち当てられる。
言いたいことは山ほどあるけれど、焼き切れてしまった思考回路はうまく口へと言葉を伝えられずにもどかしくて子供みたいに泣きたくなった。
よしよしと頭を撫でる団長の手付きもまるっきり子供にするそれで。
だけど重なった唇から入ってくるのは熱くて蕩けそうな舌だった。

「やっと手に入れた」

そう言って私の瞳を覗き込んだ団長は完全に男で、腕の中でくったりと大人しくなった私は女だった。

(140625)
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