さようなら

何食わぬ顔でやってきて、何食わぬ顔で去ってゆく。
どう足掻いても全ては見通され、掌握され、彼の腕、いや檻の中で私は歌を忘れた小鳥のように、じっと息を潜めるしかなかった。
エルヴィン・スミス。
私の全てを捧げ、そして私の全てである男。
私を抱く力強い腕は、同時に何もかもを奪い去る。
理性や恥じらい、それに準ずるありとあらゆる物々を。
行為のさなか、時たま彼はじっと私の瞳を覗き込む。
抜けるよう晴天の青はなりを潜め、仄暗い、底の見えない翳りを帯びた青の瞳で。
私の根底にある清らかな流れを、掬い取ろうとするかのように。
両腕の間に横たわった私の身体を挟み、動きを止める彼の、性器の脈を身体の中で感じながら私は息を詰める。
静寂を破らぬように。
ここにある何か(それは形も色も匂いもない)を、損なってしまわぬよう細心の注意を払いながら。
そうして私は、彼の瞳の中に自分を見つけ安堵する。
私という存在は、彼の中にこそ生きている(いや、生かされている)のだ。
ほ、と堪えきれなかった幸福の吐息が口をついて出てしまい、私は慌てて口を噤む。
するとエルヴィンは、その大きな両手で私の肩のつるんと丸い部分を撫で回す。
形や感触を確かめるようにして。
幾度となく繰り返してきたはずの交わり。
けれど彼は、こうして私の形をしばしば確かめる。
きちんと、あるべき姿で彼の腕の中に収まっているかどうか、を。
その手はやがて順々に下の方へ降りてゆく。
鎖骨をなぞり、乳房を包み、臍をなで、和毛を掠めながら骨盤を滑り、尻に触れ、そして二人がつながった部分を指先でそっと確かめる。
彼の性器の形に口開いた私の膣は、歪な円を描いていた。
悦びの涙をその隙間からにじませながら。
時折ぽたぽたと、雫を垂らしながら。
事の最中、彼は何も言葉を口にしない。
薄い唇からは、呼吸と、かすれた吐息が聞こえてくるだけだった。
愛しているだとか、好きだ、だとか。
そもそも、と私は思う。
そもそも彼は私を愛しているのだろうか。
いや、私は?
そうではない、根本的に愛、とは。
凛と立つこの男の背中を、私は畏敬の念を抱き彼方から見続けてきた。
そしてその背中に、私はいま爪を立てている。
遥か昔に掻き毟ったその背中。
赤いミミズ腫れが、彼の背中で踊っていた。
泣き腫らした私の髪を、彼は表情ひとつ変えずに撫でていた気がする。
ず、と彼が性器を奥に押し込めるまで、底なしの青に映る自分と対峙しながら私は回想に耽っていた。
いつの間にか、彼の肩に高々と掲げられた足。
瞬きをするのも忘れ、彼の瞳を穴が空くほど見つめる視界の片隅で、爪先がぐらぐらと揺れていた。
身体を揺さぶられながら、乱れて落ちた彼の前髪に手を伸ばす。
しっかりとした金色の髪は、うっすらかいた汗のせいで少しだけ湿り気を帯びていた。
伸ばした手首を不意に掴まれ、手の甲に口づけを落とされた。
早鐘を打つ鼓動。
唇を手の甲に押し当てたまま、チラリとこちらに差し向けられた眼光の危うい妖艶さに、臍の裏が切なく疼き彼の性器を締め付ける。
ぴくりとかすかに動いた眉と、密やかに吐き出される熱い吐息。
それだけで頭の中が白く飛んでしまいそうだった。
頭の左右に突かれた彼の手。
その骨張った手首を掴みながら、私はただだ甘く鳴く。
与えられる悦びは、彼に仕える対価として余りあるものだった。
握った彼の手首に力が入り、いっそう爪先が激しく揺れている。
身体の中身ごと押し上げられながら、私は快感に咽び泣いていた。
体内で跳ねながら吐き出される彼の精液を膣に感じ、薄ぼんやりと霞む頭で私は願う。
孕め、と、彼がどうか祈っていますようにと。
引き抜かれた性器の喪失感と、膣から溢れ出すどろりとした精液が太腿を撫でる感覚に、背筋を震えが駆け抜ける。
薄目を開け、手際良く衣服を身に付けるエルヴィンを見上げる私に、彼は静かに近寄ってきた。
絡み合う視線と、ゆっくりと降ってくる大きな手。
その手のひらが、私の瞼をそうっと降ろす。
まるで死人に対して行う、その行為そのもののように。
奪われた視界の暗闇で、私は扉の閉まる音を聞く。

(20140125)
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