さようなら

扉の向こうから現れた彼は鮮やかに私の唇を奪い、いともたやすくベッドへと私の体を沈めた。
男にしては細い手首に、不釣り合いなほどの無骨な手のひらを後頭部に添えられ身じろぎすらできずに息をひそめる。
耳もとで、途切れがちに響く兵長の細い呼吸。
月を背負いながら揺れる兵長の身体は、しなやかで気高い。
ひとつも欠けることのない純白の骨と鍛えられた筋肉が、それらを覆う皮膚に完璧な凹凸を描きあげる。
夜、それもこんな月夜は殊更彼の身体は美しい。
紺碧の闇に差し込むほの白い月明かりが、まるで絵画のように彼の体へ陰影を浮かびあがらせるのだ。
何度も何度も、何かを確かめるように繰り返される口付けに、私は胸が締め付けられる。
大丈夫。
細い髪を撫でながら、私は兵長にそう言ってあげたかった。
大丈夫、私はここにいますから。
背中に回した腕に力を込めて、心の中で呟くことしかできないけれど。
「死んでくれるなよ」死地にて合わせた背中で聞いた、あの低い声を私は今でも忘れていない。
あの時私はなんと答えたのだろうか。
はい、だったかもしれないし、恐怖と高揚と緊張のあまり答える余裕などなかったのかもしれない。
あれから一体どれだけの時間が経ったのだろう。
兵長の元にいた私もいまや分隊長、調査兵団の一翼を担うまでになっていた。
団長に呼び出され、分隊長就任の命を受けた私は、嬉しさのあまりその足で兵長のもとへと赴き嬉々として胸を張った。
これで兵長のさらなる力になることが出来るんだと喜びに震えだしそうになる拳を胸に掲げ、私は兵長の口から出るであろう労いの言葉を想像する。
しかし予想に反して、苦々しい表情を浮かべた兵長は私の拳をそっと下ろした。
不思議に思って見つめた兵長の顔には、明らかに悲しみとわかる色がさしていて、思わず私は「どうしてそんな顔するんですか?嬉しくないんですか?」と喧嘩腰に詰め寄りそうになる。
先手を取ったのは兵長だった。

「おめでとう、とでも言うと思ったか」

「それは…そこまで言ってもらえるとは思ってませんけど。もう少し喜んでもらえるかと思っていました」

「……name、」

視線を床に落とした兵長はしばらくの間を開けた後、

「お前の努力は知っている。お前の強さも知っている。だがな、」

そこまでを一息で言って、また一呼吸。

「お前の弱さも知っている」

「……」

何も言えない私を一瞥し、下ろした私の右手を握る指に力を込めて兵長はなおも続ける。

「お前が死に近づくことを、」

どうして俺が喜べる。
言葉の最後は吐息のように細くなり、ほとんどため息と見分けがつかないほどだった。

「いっそ、手放しで喜べればよかったな」

おそろしく真面目な表情を一瞬見せたかと思うと、ひっそりと自嘲気味な笑みを浮かべる兵長に、私はなんと言っていいかわからぬまま立ち尽くす。
重ねられたその手の冷たさが、やけに悲しかった。

何度こんな夜を重ねてきただろう。
火照った彼の頬にそっと手のひらを添えて私は思う。
確約のない世界で生きる私たちには今しかないのだと、決して口には出したりしない。
口にはしない、けれど、肌を、身体を、唇を重ねるたびに流れ込んでくるその思いは、互いの生がある限り、私と兵長の中を永遠にめぐり続けるのだ。
上と下の粘膜をひりつくほどに擦り合わせ、両腕で身体を潰れるぐらい抱きしめて、私たちは熱を貪りあう。
name、と苦しげにうめきながら呼ばれた名前に、私はもうほとんど泣きだしそうになっていた。

(20140323)
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