さようなら

うららかに春の日差しが満ちる部屋、唐突に団長が口にした言葉の意味を図りかねて首をかしげた。
団長は普段と何ら変わりのない笑顔を浮かべ、「いや、何でもない」と言って再び書類へと視線を落とす。
とりたてて気にもせず、仕事を再開した団長にならって私も仕分けるべき書類の山へと向き直った。
そのとき背後に突き刺さっていた彼の視線など、知る由もなく。
珍しく団長が仕事をため込んでいる、ということを廊下で偶然会ったミケさんから聞いたのは、それから数日後のことだった。
各分隊長から毎週提出される報告書の他にも、団長が目を通しサインをすべき書類は山ほどあるうえ、最近になって採用された新たな作戦(長距離…なんとかと言っていた気がする)の隊列編成にも頭を悩ませている、ということは私自身も知っていた。
弱音を普段吐かない団長がポロリとこぼしたその言葉に、ミケさん自身も引っ掛かるところがあったのだろう。
「俺も中々奴の話をしっかり聞く暇がなくてな。すまんがname、しばらく気にしてやってくれないか」とミケさんは言うと、「頼むぞ、団長補佐」と付け加え私の肩を叩いて去っていった。
あの団長が、書類を。
ハンジさんや兵長と違って、やるべき仕事は期日の何日も前に終わらせてしまうあの団長が仕事をため込んでいるだなんて、にわかには信じ難かった。
それとも私の想像をはるかに超えた仕事量を、彼は独り抱え込んでいるのだろうか。
壁の向こうへ今にも消えてゆきそうな大きな夕日、その向こう側に広がっている夜の気配。
団長の大きな手がマッチを擦り、蝋燭に火を灯すさまを想像して私はなんとなくいたたまれない気持ちになり、帰ろうとしていた足は自然と団長の執務室へと向かっていた。

「団長、nameです」

ひんやりとした廊下の空気を吸い込みながら、扉を三度ノックする。
しばらくの間をあけて、「入りたまえ」とおなじみの低音が聞こえてきた。
燭台の上に立てられた蝋燭にはすでに明かりが灯され、デスクの両脇に積まれた書類の山に挟まれるようにして団長は座っていた。

「帰ったんじゃなかったのか」

「そのつもりだったんですが」

「なんだ?」

「団長、最近根詰めすぎじゃないですか」

「根を詰めずに団長が務まるもんか」

「そうかもしれないですけど。ミケさんも心配してましたよ」

「あいつは昔から心配性なんだよ」

はは、と小さく笑った団長は再び手に持った書類へと視線をおとした。
これは強行突破するしかないな、そう思って私はデスクへと歩み寄り、彼の手中にある書類を引き抜いた。

「今日はこれでお終いです」

「name、それを返しなさい」

「団長補佐として申し上げますが、働きすぎです」

「上官の尻を叩く補佐は今まで何人も見てきたが、働きすぎと怒る補佐は初めてだな」

「なに言っても駄目ですよ、今日はもうお帰りください」

「name、」

「ダメです」

組んだ両手を卓上に置いて、優しく諭すような声音で言う団長にたじろぎそうになるけれど、ぐっとこらえて団長を見ながら後ずさる。

「ほら、立ってください。コートお掛けしますから」

「……」

団長が腰を上げかけたのを見計らって奪った書類をデスクに返し、窓際に置かれたポールツリーから彼のコートを外そうする。
焦げ茶色のコートはずっしりと重く、それでいてやけに肌になじむ手触りだった。
さすがに団長ともなるとさぞかし良い品なんだろうなぁ、そんなことを思いながらコートを持った手を上下させていると、背後の近い場所に団長の気配を感じて私は振り返る。
しかし。
私が振り返るよりも早く、後ろから伸びてきた団長の腕が私を抱きしめた。
言葉通り、「ぎゅうっ」と。
思わず手に持っていたコートを取り落としてしまう。
頭の上から微かに聞こえる団長の呼吸音をかき消して、左胸で拍打つ心臓の音が部屋に響いているような気がした。

「…団長?」

背中に感じる柔らかな熱と、体中を包む団長のしっとりとした香りに私は頬だけではなく体全体が熱くなる。

「name」

「はい」

おもむろに呼ばれた名前に、私は静かに返事をする。
砂でも流し込まれたかのように喉がかさつき、それ以上声が出なかった。

「きみは私の補佐だ。そうだね?」

「…はい」

するするとのびてきた右手が私の喉元を捕え、人差し指が唇を撫でる。
生ぬるい吐息が団長の指にかかりはしないか、どぎまぎしながら私は唇を引き結んだ。
耳元でささやかれ、私は自分の脚から力が抜けてゆくのを感じた。
団長は左腕でくずれおちそうになる私を抱え、右手で確かめるようにして私の輪郭をなぞっている。
私は抗えない。
耳朶を食まれ、とうとう私は床にしゃがみこんでしまう。

「だんちょ、…やめ、」

切れ切れに無意味な抵抗の言葉を吐く私の腕を取ると、団長は軽々と私の身体を抱え上げてしまった。
ふわりとした浮遊感は、まるで夢の中みたいで。
揺れる足先の感覚だけがやけにリアルで、私は団長の顔を仰ぎ見るけれど、生真面目そうないつもの顔がそこにあるだけだった。
どさりとソファに下ろされ、観念して目をつぶる。
細く長く息を吐いてから瞼を開ければ、視界はほぼ団長で埋まっていた。
けれど、上から私を見下ろす団長の顔からは先程までの無表情は消え去って、何かに追い立てられて切羽詰まったような、切実な表情が代わりに浮かんでいた。
今日も、抱かれるんだ。
今日もこの人は、私を抱く。
今日も私は、何も言わずに受けいれる。
鼻先で首筋や鎖骨をまさぐられながら、つい遠い目になっていた。
夢見心地の私の肌は、彼の指が触った場所から現実へと引き戻されてゆく。
それともそれは錯覚で、本当はその逆なのかもしれないけれど。
団長と初めて関係をもった日、私は彼の中の空虚を知った。
底のない、黒よりもさらに深い黒色の深淵に手をかけ覗きこんだ私は、逸らしたいのにどうしてもそこから心を離すことが出来なかった。
熱い舌を受け入れ、いつの間にかはだけていたブラウスの隙間から下着を引き下ろされ覗く乳房を揉まれて、甘い吐息が口から漏れる。
太ももに押しつけられている性器は硬く勃起していて、ズボン越しにも危うい熱が伝わっていた。
カチャカチャと鳴るベルト、肌と布地の擦れる音。
幾度となく聞いてきたはずなのに、毎度毎度こうも新鮮に感じるのはなぜなのだろう。
口の中にねじ込まれたペニスに舌を這わせながら、瞑った瞼の裏に広がる緑色の夜空を見上げて私は思う。
熱く硬い性器の先を、喉の奥まで押し込まれて感じるのは悦び?
ぬるくて苦い先走りが舌の上に広がってゆく。
しっかりと濡らさないと痛いだろうから、と団長は言うけれど、そんなことをしなくたって彼を受け入れるには十分なほど私のそこは濡れている。
だから団長がペニスを私の割れ目に押し当てると、いやらしい音がしてぬるぬると滑ってしまうのだ。
私の中にそれを差し込もうとするその一瞬に見せるその顔は、調査兵団の団長ではなくて、たぶんきっとエルヴィン・スミスなんだと思う。
何も背負わない、ただの、男の人。
閉じた身体を開かれ穿たれ、大きく仰け反る私の背中を折れないようにと抱き締めるその腕の力が、好きで。
だけど彼が抱いているのは私の身体なんかじゃないことも知っている。
それなのに私の身体はまっすぐに反応するものだから、団長が腰を打ち付けるたびに溢れる愛液でソファを汚してしまわないかヒヤヒヤする羽目になる。

「name…、name、」

うわごとみたいに何度も呼ばれる私の名前。
綺麗に浮き出た腹筋をなぞってみれば、耳元でびっくりするぐらい色っぽいうめき声が聞こえてきて、団長をのみ込んだ下腹部がきゅんと切なくなってしまう。
名前を呼んでも、身体を繋いでも、何をしたって無意味だというのに。
それなのに団長は。
大きな手のひらに乳房を包まれ甘い喘ぎが止まらない。
あん、あっ、や、…だんちょ、…ぁ、っ。
は、…っ、ぁ、…name、……。
キスと行為の立てる水音の合間を縫うようにして私と団長の声が部屋に響く。
互いの背中に、皮膚という皮膚に爪を立てあいながら私たちはひとつに溶けあう。
いや、正しくは溶けあおうと必死になるのだ。
真ん中に寄せた乳房の硬くなった先端を口に含んで舌で転がす団長の背中に、わざとらしく力を込めて爪を立てる。
強く皮膚をえぐるたび、彼の性器は硬さを増し、舌の動きも乱暴になる。
星座を繋ぐ線と線みたいに儚くて悲しい背中の赤。
胸元から離れた団長の唇からは、細い銀色の唾液が乳房に向かって伸びていた。
ぐしゃぐしゃと乱雑に髪を撫でて、右手を彼の頬に添える。
覗いた瞳の奥に光を探そうとしたけれど、そこに見えるのは必死な表情をした自分の顔だけだった。
正面からきつく抱きかかえられ、溢れた吐息が団長の胸元で行き場をなくす。
空気を求めるように顔を上げればその矢先に塞がれてしまう唇に、息を継ごうと必死にもがいた。

「お前は、お前だけは……、」

「だん、ちょ…、ぉ」

お前だけは、耳を研ぎ澄ましてその次の言葉を待ったけれど、団長が小さく喘いで私の舌を貪ったせいで、くぐもってなにを言っているのかわからない。
こんなに必死に、何かを求めて喘ぐ団長を、私は悲しく思ってしまう。
手に入らなかった誰か、失くした誰かを私の向こうに見ているようで。
けれどその私でさえ、いつかは。
それでも彼は私を繋ぎとめようと、今この瞬間に必死なんだ。
深く立てた爪と指の間に、柔らかな団長の皮膚が挟まって抉れる生温かい感触。
伸ばした手を背中越しに見上げれば、指先が赤く染まっていた。
私はそれを口へと運び、彼の赤を唇に乗せる。
そしてそのまま、団長の唇に自分の唇を押し当てた。
あたたかい、あたたかい。
薄く開いた瞼の向こう、視線と視線が絡み合い、そうして団長は舌を絡ませたまま私の中に吐精した。
どくどくどく。
下腹に注がれるぬるい精液に、頭の先まで満たされる錯覚に陥ってしまう。
まだ荒い息をのみ込みながら既にシャツの襟を正している団長は、もうしっかりと“団長”の顔で。

「団長、」

「なんだ」

その口ぶりも元通り。
そっと髪をひと撫でした、団長の指先に残った赤色だけが、先程までの情事を鮮やかに留めていたのだった。

(20140327)
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