さようなら

レース編みのカーテンの向こう側に広がる漆黒の帳。
バルコニーに突然現れた人の気配に、私はベッドから身を起こし静かに窓際へ歩みよる。
はやる気持ちと跳ね上がる鼓動を抑えながら。
ゆら、と揺れる人影。
払いのけるようにしてカーテンを開ければ、そこに立っているのは紛れもなく待ち焦がれていたその人だった。
口をへの字に曲げ、なにがそんなに気にくわないのか、細い眉を顰め眉間に皺を刻む彼。
すぐにでも抱きつきたい気持ちを抑えて私はじっと彼を見る。

nameを初めて目にしたのは、エルヴィンと共に王都を訪れた何度目かの時だった。
夜だというのに広い室内には煌々と明かりが灯り、がやがやと騒がしく入り乱れた男女たちはみな下卑た笑いをその顔に浮かべ、普段俺たちが目にすることもないような名も知らぬ料理が長い長いテーブルの上にこれでもかというほど盛られていた。
いわゆる“営業スマイル”を顔面に張り付けたエルヴィンは社交辞令を並べ立て、でっぷりと下品に肥えた禿げ頭と握手を交わしているエルヴィンを、俺は尊敬せずにはいられない。
したり顔で金の話をちらつかせ、こちらが下手に出れば付け上がる。
金にもの言わせ、己の力だけでは何もできやしない王都の俗物たち。
まったくもってへどが出る。
この場(と言っても広間の最奥に位置する窓際なのだが)の空気を吸っているだけで肺が腐り、今にも体内が腐臭に満たされてしまいそうだった。
こんな悪夢みたいな夜、頼むから早く終わってくれと心の中で祈りながら、もう何度目かもわからないため息を吐きだした。

「す、すみません」

「何か用か」

遠慮がちに声をかけてきた小柄な女に、ついぶっきらぼうに答えてしまう。
瞬間女はひるむも、震える声で「かくまってください!」と言ったかと思うと、俺の背中と背後にあったカーテンの間に身体を滑り込ませた。
それを追いかけるようにして、恰幅のいい中年男と俺よりもいくつか若そうに見える背の高い男がきょろきょろとあたりを見回しながら近づいてきた。

「やや、これはリヴァイ兵士長殿。楽しんでおられますかな」

「見ての通りだ」

「おお、それは良かった」

表面に張り付けた媚びた笑みの下から軽侮を覗かせながら言う中年男。

「ところで、先程このあたりで白のドレスを着た背の小さな女を見ませんでしたかな」

「見てねぇな」

「そうでしたか、いやなに、私の娘でしてね。またそのような女を見つけましたらちょちょっと首根っこを掴んでやってくださいませんか。はは、巨人どもにしているようにで構いませんよ」

男は臆面もなく冗談とも取れない冗談を口にして隣の若者と言葉を交わすと、わざとらしく深々とお辞儀をしてその場を去っていった。
背後のカーテンがごそごそと揺れ、先程の女が顔を出す。
怒りと申し訳なさをごちゃまぜにした表情で。

「父が無礼なことを……すみませんでした」

「えめぇが謝ることじゃないだろう」

「でも……。それに、私がここに隠れなければあんな失礼なこと言われずに済んだかもしれないし」

「それよりも、なんで隠れた?面倒事の片棒を担ぐのはご免だからな」

顔だけをカーテンから覗かせ、辺りを警戒するように視線を巡らせて女は口を開く。

「父と一緒にいた人は、私のお見合い相手なんです」

「だったらなんで逃げた」

「なんでと言われましても……。嫌なんです、お見合いなんて」

今まで何度もさせられたんですよ。そのたびにお断りし続けているのに、どうして父も懲りないんでしょう。
語気を荒げながら肩を怒らせる女の言葉を聞きながら、俺の視線はは女の髪から覗くうっすらと紅潮した形のいい耳朶に釘づけになっていた。

「私、こんなドレスだって本当は着たくなんかないのに!」

そう言い放ってドレスの裾をつまんで揺らす女の指には、何の装飾も施されていなかった。

それから王都に行くたびに、俺とnameは密かに会う仲になっていた。
夜が更けてから、人目を避けて彼女の家(家といってもまるで宮殿のように豪華な邸宅なのだ)へ行き、夜すがら肩を並べ合うのだった。
勿論玄関から堂々と入るわけではなく、立体起動装置でこっそりと彼女の部屋へ忍び込む。
ノックした窓の向こうから現れるnameの綻ぶ笑顔 ―彼女はいつも俺がまさか来るはずがないという驚きの表情をしたあと、顔中に会えた喜びをゆっくりと広げてゆくのだ― を見るたびに、冷え切った心に小さな明かりが灯るような気がする。
世界を知らない籠の中の小鳥。
歌を歌うことしか知らず、その黒目がちの瞳で歌われる外の世界を必死に見ようとする小鳥。
俺の目にnameはそんな風に映っていた。
いつの間にか俺のことをリヴァイと名前で呼ぶようになったnameは、巨人の話や地下街での話に目をくるめかせながら興味深げに耳を傾ける。
「わぁ」だの「ひゃあ」だの時折身を乗り出し握った拳に力を込め、飽きることなく外の世界の話をせがむ彼女の肩を、俺は不意に抱きしめたくなった。
つるんとした小さな肩を手のひらで包み抱き寄せれば、すんなりnameの身体が胸の中へと収まってしまい、あまりの無抵抗さに俺はたじろぐ。
上目づかいで俺の顔を覗き込むnameは、頬を薄く朱に染めていた。
このまま、押し倒してしまったらどうなるのだろう。
きっとそれは容易いことなのだろうなと思うも、俺の中の何かが邪魔をしてそれ以上に進めない。
拒絶されることへの怯えなのか、関係性の崩壊を恐れているのか。
どちらにせよそんな純愛じみた感情が自分の中にもまだ残っていたのかと、我ながら驚き呆れてしまう。

「リヴァイ?」

「……」

肩を抱いたまま、何もしてこない俺を見るnameの瞳が揺れていた。

「いいんだよ?」

「……は?」

間抜けな声の主が自分自身だと気が付いたのはしばらくしてからだった。
彼女の言葉を何度も反芻しながら穴があくほど見つめていれば、nameはみるみる顔を真っ赤に染めて「うそうそ!なんでもないから!今のはナシ!」と、俺の胸を押し返しながら首を振る。
そこからなにがどうなったのかは覚えていない。
気が付けば柔らかな絨毯の上にnameは押し倒されており、そのnameはといえば羽織っていたナイトガウンが肩まではだけ、桃色の唇からは震える吐息が零れていた。
両腕の間で打ち震えているnameの、柔らかそうな唇に吸い寄せられるようにして口づける。
音とも言葉ともとれない何かが、彼女の喉を震わせていた。
どちらも、何も言葉を紡げぬまま、nameの腕がそっと首に回された。
触れ合う額、鼻、そしてふたたび唇。
額に落ちた前髪をそっと掻きあげたnameの指先の熱さにため息が漏れ、その折れそうな手首を握り小さな手のひらを自分の頬にあてがった。

「もう、戻れねぇぞ」

「連れていって、リヴァイ」

俺はこいつを、どこへ連れていくつもりなのだろう。
貴族であるname、蝶よ花よと箱入りで育てられたname、見合い相手のいるname。
しかし俺の中で輝きを放つnameは初めて会ったあの日、こんなものは着たくないと心底嫌そうな表情を浮かべてドレスをつまむあの姿なのだった。

(20140403)
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