2019

三日月宗近は揺蕩いの中で考える。人の身を得てよかったことは、と。ひとつ、暑い湯船にどれだけつかっても支障なき点。ひとつ、生身の人間と触れ合うこと能う点。
こと、女人。数多の男が色欲に溺れ失墜していくさまを見る中で、何がそこまで男を虜にするのかと不思議で仕方なかったが、実際我が身にその果てしないぬくもりを感ずることによっては嗚呼成るほど、と得心いったのであった。
美人という顔立ちではないが愛嬌がある。笑い顔は特に。三日月は己の主の容貌についてそう評価していた。彼がその美しいかんばせをnameの間近に寄せると、彼女は決まって困惑し狼狽えた。「私なんかが罰当たりな気がします」伏せた目を縁取る濡れたように艶めく睫毛の震えは、まるで蜉蝣の羽ばたきのように心もとないものだった。
主の部屋の、褥にて。彼女の桃色の唇は渇き、それなのに零れる吐息はひたひたに濡れている。三日月は月の瞳で、見えざる声の滴が白く波打つ布地に染み込む様をじっと眺めていた。しなる背中と時の流れの如く移ろう骨と皮膚の陰影に、美しい物を見る眼差しを向け、指先と手のひらを使ってそっと触れるのだった。広がる波紋はやがて足指に到達し、夜の静寂へと伝わってゆく。揺蕩う空気の中で、海を漂う海月のように交わるふたり。
春の昼間の縁側で取る手より、甘い春の夜の中で絡める指のほうがしなやかで力強い。どちらも良いが、と三日月は目を細めひっそりと笑む。
白い光のもとで見るnameはどこか幻めいていて、手を伸ばしても身体の向こうへ突き抜けてしまいそうだ。困り顔に似た笑顔も、その時口元に当てられた手も、桜色の指先も、全てが桜の魅せる幻覚のようだった。
舞い散る桜が、風が吹くたびふたりの座る縁側にも届く。玻璃の光に手をかざすのと同じ目で、nameは音もなく降り注ぐ桜の花びらを見ていた。髪についた花弁を摘んで見せてやれば、はにかんだ笑みを浮かべて三日月の指から離れた桜を目で追った。
瞬間、彼の中で苛烈な嫉妬心が湧き上がった。何故、今この瞬間に。そう思うまもなく三日月は主を床板に押し倒していた。頭の後ろに手を差し入れることすら忘れ、驚きに目を丸くしている主の瞳に映った己の月を目にしてなお胸の奥から焼け焦げた焔の香りが立ちのぼっている。
苦しい、と思った。「どうしたの?」不安げに寄せられる眉。「わからん」はっは。無理に出した笑い声は乾いて喉に張り付いたまま。桜の花に嫉妬したのだなんて、どうして言えようか。
快楽に苦悶するnameはどうにかして三日月に顔を見られまいと必死に隠す。見たいのだ、と三日月が何度言っても彼女は頑なだった。隠されれば暴きたくなるというのが人の性というもの。仄暗い褥に流れる主の黒髪を掬いながら三日月は首を傾げる。神でありながら人の性とはこれ如何に。
ずぶずぶと、沈む。高みから戯れに手を伸ばしていたはずが、いつしかnameのぬかるみの中で足を取られていた。抱くつもりが逆に抱かれているような錯覚。知るはずもない胎内の温い水を思い出しすらするのだ。奥の奥を突いてもなお、nameの肉体は貪欲に三日月を欲しがる。桃色の頬を涙に濡らしながら、濡れた吐息を紡ぎ男の身体を緩やかに絡め取る。己の視界が、思考が、徐々に霞んでゆく。肌から染みこんでくる女の汗と涙と唾液は、自分の中に満ちる液体と混ざり合い甘く苦い芳香を生む。
欲すること無かれ。時の政府が定むるまでもなく、刀剣男士と審神者の間に恋慕の情を抱くことは良しとされていなかった。問うまでもなく世界が違うのだ。存在自体の格、備わっている力、見た目こそ似すれど、根本的な部分は全く異なるものなのだから。もの、者、物。鐡の魂を包む軟肉などまやかしなのだ。
ん、と濡れた吐息が女の唇からこぼれる。それはあわあわと、海中を水面に昇るあぶくのように三日月の肌に触れて弾ける。人はもっと遠いものだと思っていた。古より、己に触れるものとして認知してきた人間は、それでも異質であり、刀として彼らと共にありつつも、付喪神としては彼らの頭上より一定の距離を保って彼らの営みを見てきたような気がする。
それなのにこの身を得て以来、世界を見る目線は人と同じになった。かつての主、そして今世の主はかようにして物事を見てきたのかと、今更ながらに気付いたのだった。
主の手首を掴み顔をあらわにする。濡れた瞳に束になった睫毛。揺れる黒目。ささやかな鼻。見飽きんなぁ。唇を緩めた三日月に抗議するかのようにnameは手に力を込めた。「私は美人ではありませんので」僅かに下唇をつきだしたnameを可愛く思い、三日月は「そうじゃあない」と笑った。
美醜ではないのだ。もしそうであるなら、自分がこれほど後世に語り継がれるはずがない。逸話や歴代の持ち主を抜きにしても、誰もが皆美しいと声を揃えて言うのだから己は美しいのだろう。故に美人は三日で飽きる、というのは信憑性に欠けるのではなかろうか。しかしまぁ、と三日月は思い至る。俺は美「人」ではないからな、と。
激しい交わりの果てにぐったりと身を横たえたnameの背中を眺めていると、どこかで見た天女の艶めかしくも神々しい姿を思い出す。あれはどこで見たものだったか。細い糸のような記憶を三日月は辿る。しかし思い出すことはできず、白くたおやかな曲線に手を伸ばした。びくりと肩が跳ねる。触れたまま腰に向かって手を滑らせれば薄い背中がいじらしく丸まるので、愉しくなった三日月は戯れに肌で遊ぶ。
ふと、部屋の隅に置かれた鏡台の鏡に映った自分と目が合った。綻ぶような笑みを浮かべた己がこちらを見ている。お前は誰なのだ、と問いかけたくなる程にその表情は人間味を帯びていた。
三日月は目を伏せる。止まった動きに安堵して深く息をついたnameは、予告なく腰に回された三日月の腕に抱き起こされて小さな声を上げた。

「なぁ主よ」

「はい」

「俺はいつまでこのままでいられるのだろうな」

乱れた主の黒髪を指で梳き、束にして耳にかける。おとなしくされるがままになっているnameは、彼の問いかけを無言で受け止めた。思案しているかといえばそうでもなく、ぼんやりと、答えを出すのを先送りにしているような曖昧な表情で。三日月の問いは明瞭性にかけていたし、いつ、だとか、このまま、だとか、具体的に何を指しているのか曖昧なため、問われたところでnameが返答に困ることは彼にもわかったうえでのことだった。
そもそも、自分とnameの関係など言ってしまえば主と従に過ぎない。主と刀、人と神。
白い首筋に唇を寄せる。吸いついて歯を立て、痕を残した。

「同じようにしてくれんか?」

歯の形にいびつに窪んだ肌を撫で三日月は言った。振り向いたnameにまた口付け、誘うようにして彼女の顎に手をかけた。

「痛かったら、言ってくださいね」

「nameを見ていると、痛みも良いものなのではないかと思えるのだが」

口の端を持ち上げた三日月にnameは「変なことを言わないで」と眉を下げ、おずおずと鎖骨のあたりに唇をつけた。肌にかかるぬるい吐息に三日月は天井を仰いだ。噛みつくというより甘噛みされ、残った痕は自分がnameにつけたものより大分控えめだった。
nameは欲しがらない。わきまえすぎているのだ。だから三日月は彼女を抱く。もっと欲しがれと、心の奥底で思いながら。情事のさなかにしか自らを欲さぬのなら、絶え間なく袖のなかで愛してやりたい。
あくる朝にはもう消えているであろう愛のしるしを毎日重ね、いつしかそれは永遠になるのだろうか。溺れ、呼吸もままならない深い海の底で、ふたりの記憶だけを閉じ込めた貝になりたい。
木漏れ日の降る縁側で三日月は着物の上から鎖骨をなぞる。陽射しの強さと風の涼しさが対象的な昼前であった。台所の方から昼餉をつくるなにやら美味そうなにおいが漂ってくる。短刀たちのはしゃぐ声、そのまた向こうからは竹刀同士がぶつかり合う乾いた音。

「三日月、もうすぐお昼だって」

nameの目元がまだ少し赤いのは、昨晩いつにも増して激しく彼女を愛したせいだ。どこまで堕ちることができるのだろうか。それは三日月宗近の「人」としての好奇心だった。この身体となってもう随分と経つ。刀としての魂が肉体に癒合してゆくようだと時々思う。遥かから見ていたはずの世界は今すぐそこにある。触媒を通さずして自らの手で傷つけることなく人間に触れられることに感嘆するとともに、いつか良くないことが起きるのではないかという懸念もあった。自分たちが及ばぬような強大な力を持った何者かからくだされる裁断。その時がきたら甘んじて受けるほかはない。かつての主たちがそうであったように。なるようにしかならぬのだ。

「あぁ、行こうか」

手を差し出せば、もみじのような可愛らしい手が三日月の手を取る。はにかみながら彼を引き起こすnameを逆に引き寄せれば、きゃあ、という声とともにいとも容易く腕の中に転がり込んでくる。

「だめですよ」

「そうだな」

作り物のような青すぎる空に浮かぶ太陽は、そこだけ穴が空いたよう。取り外したその向こう側には暗闇がある、そこから何者かがこちらの様子を覗いていてもおかしくないような完全な白い円。目が灼けるのもいとわずそれをじっと見て、そして三日月は主の首筋にのこる痕を手のひらで覆うのだった。
誰であれ、何であれ、渡すつもりはない。秘した想いはひと筋の泡を携えて、深く深くへ沈みゆく。
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